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ツナ缶は青し、恋せよ乙女

安心してください、飲んでいます。
BGMはウルトラセブン。
滾る、と言う単語を辞書で引いたら例文にはこの曲が記されていることだろう……

閑話休題。

昔はツナ缶をとても安いものだと思っていた。
なぜかと言うに、そもそも缶詰は軍隊の遠征において保存が利く食料を、と言う要請から開発されたものだし、実家の棚には常に一定量のツナ缶がストックされていたからだ。

故に、レンチンした米にツナとマヨネーズをかければ誰でもカロリーとたんぱく質を補給できるお手軽ディストピア飯くらいに捉えていた。

しかし今はツナ缶の相場を知り、何なら回転寿司に流れるマグロよりも心理的な抵抗を感じる。

これが青は藍より出でて藍より青し、というやつなのでしょうな。
ツナはマグロより出でてマグロよりツナし。
以前の失礼な誤解について、全国のマグロに謝らねばなりまんね。

それは無性に腹が減ったある日の夜遅く。
ジモン山魯人のとんかつの動画を見ていたら無性にとんかつが食べたくなってしまった。
しかし、時刻は既に近所のさぼてんが閉店していることを疑う余地がないところまできてしまっていた。肥えに超えた飯テロを浴びた食欲を満たし得るとんかつなんて恐らく存在しないだろうし、そもそも買いに行くお金もない。

揚げ物つながりで、ファチチキあたりで手を打つのが妥当のようにも思われた。しかし、中途半端に満たすのは、中途半端に満たされないより、ずっと満たされないのだ。

班長曰く、心はゴムまりである。
欲望の解消は小出しではいけないのだ。

ならばせめてとんかつの妄想が捗れば、とんかつを食べたいのにとんかつを食べない欺瞞を、それが妄想による代替品だから、と言う理屈で納得ができるかもしれない。

御しがたしは、己のこころである。
人が思うことは止められない。
止められるはずもないのだ。

私の脳に綺羅星の如くよぎったものがあった。
そう、調味料ご飯である。白米の上にブルドックの中濃ソースをまわしかけ、辛子を添えれば、これはもはや「豚肉抜きとんかつ定食」である。かのアメリカ人は米を野菜だと解釈しているらしいが、
・米は野菜
・キャベツは野菜
・米はキャベツ
随分とIQの低い三段論法が、想像力の勝利を私は予感した。

現実に不満を持つくらいなら、己の想像力の不備を憎むが良い。
私は私の止めどなくあふれるワガママな食欲に打ち勝つのだ。

しかし……もしもこの世に不幸があるとすれば、とんかつを食べたい夜に、ソースも辛子も冷蔵庫にない状況のことを言うのかもしれない。
身も蓋もない言い方をすれば妥協に次ぐ妥協でようやく着地した献立すらも許されない貧しさを、人は悲しみと呼ぶのでしょう。

結局私は、チンを施したチン米に、ウスターソースとゆず胡椒をつけて食べた。何を食べているのか、それによって何を満たしたいのか、考え得るほとんどの要素を踏み外した夜食と相成ったのである。
ツナ缶があれば、せめて満たされた何かが、私にツナ缶の尊さを強調する。人は満たされない時にこそ、幸福への興味を持続し得る。

ステイフーリッシュ
ステイハングリー

かの有名な言葉を、夜中の飯テロに対する警句と解釈する者もいると言う。


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