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連続な街、不連続な街

オープンワールドのゲームは、大概期待を下回る。想像していた自由な世界とは真逆の決められたストーリーと道のり、突如出現する見えない壁、機械のように反復的に行動する人々。制作側の苦労は想像するに余りあるものの、制作の現実透けて見えると少しガッカリしてしまう。

翻って、東京は面白いなと思う。

東京に暮らし始めて一年と少しが経つ。あれほど恐れおののいていた”東京の電車”にも一丁前に慣れ、何不自由なく東京ライフを満喫している。

ふと、『ゲームの中で暮らしているみたいだなあ』と思うことがあった。キングダムハーツのようなマップ選択系のゲームだ。

東京の街々は不連続で、ある場所での予定が決まったら、大体は駅を中心にして遠くとも半径1kmくらいの範囲で行動をする。街の雰囲気も異なり、そこで時間を過ごす人々の空気感も千差万別だ。例えば渋谷。109、スクランブルスクエア、ヒカリエなど、建物一つ一つが纏う空気感はバラバラで雑然としているが、すれ違う人々は若い世代が多く、平均を取っても平均値が意味をなさないくらいには個性が立っている。逆に丸の内や大手町は、建物はどれも直方体に近く統一されていて、スーツを着た男性が世代問わずに多く見られる。下北沢や吉祥寺は何となくカルチャーの匂いがするし、上野や赤羽には昔ながらの情緒がある。東京での生活は、ゲームでマップを選択してそれぞれ世界観が構築されているマップの範囲内で行動をするという構造と、なんだか類似している気がする。

けれど先日、非連続な東京に連続性を感じる出来事があった。その日は、芝公園で開催されていたオクトーバーフェストに足を運んだのだが、もっと本格的にビールが飲みたくなり近くのクラフトビールを提供しているお店に場所を移した。そのお店は新橋に位置しており徒歩で行ける距離にあったのだが、新橋と芝公園の関連付けはなかったので隣接していることに驚いた。歩みを進めるごとに芝公園のどこかしらセレブな雰囲気から新橋特有の親しみやすい雰囲気に変遷していくのは面白かった。当たり前だが、現実はオープンワールドなのだ。

東京の移動手段と言えば電車だ。そして周囲の友人の移動手段も電車なので、予定を消化する場所は自然と駅単位になる。そのため、駅周辺の脳内地図は更新されていくものの、駅同士の関連はざっくりとしかわからない。だから頭の中にある脳内の地図は飛び地となっていて、その間は余白だらけなのだ。

「街は連続」という感覚は、東京に来る以前は当たり前に持っていたもののように思える。
地元に住んでいたときの移動手段は専ら自転車や自動車、バスだったので、街全体に境目というものがなかった。
学生時代に住んだ街も地下鉄での移動はあったものの、原付を利用したり主要な地区は徒歩で十分移動可能だったりと、やっぱり街の境目というものはなかった。

「連続な街」を発見しなおした時は少しだけ高揚するけれど、目立つものばかりに注意を向けてその淡いに存在するとるにたらないものを無視してしまっているようで寂しくもある。宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』というエッセイにこんな一説がある。

いつの間にかそういったグラデーションを愛する気持ちを忘れ、極端なものばかり追い求めるようになっていった。

平熱のまま、この世界に熱狂したい

物事や概念を抽象化してざっくりまとめることは本質を抽出して利用や理解を容易にするものだけれど、それは細部を捨象して差異を無視する行為でもある。東京の連続性に気づかなかったのは電車移動という特性によるもので、自分の感性の欠如によるものでないとは思うが、街と街の間を認識すらできていなかった事実には襟を正される。

こうやって、認識すら出来ていない存在が無数にあるのだと思う。その全てを拾うことは出来ないが、自分が見ている世界が全てではないという感覚は生涯持ち続けたいと思う。現実はオープンワールドで、全ての事物に生命が見え隠れしている。

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