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他者の文脈に思いを馳せること

最寄りの地下鉄駅の入口の近くに、「信号無視をしてもよい」という暗黙の了解が地域住民に通底している横断歩道がある。狭い道を渡すその横断歩道を通る車は滅多にいないが、稀に通る車は赤信号にも関わらず横断歩道を渡る歩行者にクラクションを鳴り響かせる。最早信号がない方が安全ではとすら思う。

今朝の出勤時、駅に向かう途中、いつも通りほとんどの人が赤信号を渡る中で、律儀に青信号に変わるのを待ち続ける人がいた。スーツを纏っていたのでおそらくサラリーマンだろう。急いでいたので横を颯爽と通り抜け地下鉄のホームに向かったが、なぜかその人の姿が目の奥に焼き付いて離れなかった。最初に抱いた規範意識への感心が、徐々に疑問へと変わった。なぜ彼は信号を守り続けたのだろう。

ルールに従うことは難しい。ルールは基本的に利便性とは対極にあるものだからだ。ルールの役割とは、利便性や効率性等の個人の利益の上限を定める代わりに、最低限の安全や秩序等の全ての人々の利益の下限も保証するものだと個人的には考えている。原則、個人の利益を最大化しようとするとルールは破るに限る。例えば、盗みを働けば他者の利益を自分のものとできるし、信号を無視すれば自分の時間を守れる。

ただし、ルールに実効力があったり社会の人々に内面化されている場合はその限りではなく、破ることでそれなりの損害を被る。法を犯せば刑罰下るし、マナーを守れなければ集団からはじかれたり最近だとSNSに晒されて社会生活がままならなくなったりする。なので、定式化されているルール、または定式化されずとも多くの人々の共通認識となっているルールは遵守する方にインセンティブが働く。

しかし、殊にその横断歩道に限り、ルールは効力を失っていた。誰も守っていないために、ルールを破ることで社会的な損害を被ることはないからだ。だから誰もが当然のように、自分の時間を少しでも得るために信号無視をした。

そう考えると、件のサラリーマンの特異性が際立つ。彼はなぜ信号を守り続けたのだろう。

ルールを破ることに微塵のインセンティブも働かなかった可能性はある。特に急いでいなければ信号待ちをしても良いかな、という気になるようにも思える。

もう1つ、ルールを守る方向にインセンティブが働いた可能性がある。とはいえ、他の人々はルールを守っていたのだから、周囲からの冷ややかな視線などの社会的な制裁を避けるべく信号を守った訳では無いだろう。とすると考えられるのは、彼の中で、周囲の人々が預かり知らぬところで、特異なインセンティブが働いている可能性だ。こちらは中々面白いと思う。というかこっちであって欲しい。

定められたルールを守ることに正の動機づけが働いている可能性に想像を膨らませてみる。例えば、ある種のカッコ良さをそこに見いだしている可能性だ。
私は誰かに見られていなくとも、ゴミを分別する。言葉には出来ないが、それがあるべき大人の姿だと思うからだ。必ずしもそんなことはないのだが、ゴミを分別できない人は野蛮だと思う。分別原理主義者として言いたい。分別が出来ない人々は己の実存を恥ずべきだ。何はともあれ、ルール遵守に美学のようなものを見出している可能性はある。

一方で、ルールを守ることに負の動機づけが働いた可能性にも思いを馳せてみる。ルール違反、もっと具体的に信号無視に対して負のフィードバックが過剰に働いた経験がある可能性だ。信号無視をして車に撥ねられたとか、親に怒鳴られたとか。または、それほど強い刺激でなくとも、小さなフィードバックが繰り返しなされたことで分離し難く内面化されたのかもしれない。
例えば、私は刺し箸や渡し箸をしない。なぜか母親は箸のマナーに異常に厳しく、小さな頃から叩き込まれたからだ。また、口をくちゃくちゃさせてものを食べることもしない。父親がクチャラーで、母親にいつも文句を言われていたからだ。こんな経験があったからか、一人でいるときも箸はちゃんと使うし、くちゃくちゃ食べることもしなくなった。

そんなことを考えていると、「横断歩道の信号を守る」という行動一つとっても、その理由には様々な可能性があることに単純に驚く。

武田砂鉄著「わかりやすさの罪」の中に、「言葉にできない」と題された文章がある。その中で『あいのり』のメンバーがミャンマーで会った医師の話に感化されて告白したと解釈されるエピソードが紹介される。著者はものすごく直接的な行動に驚きつつ、考えを改めて(?)以下のように再解釈する。

人が考えていることは、吐き出されぬまま、形にならないまま、大量に堆積している。(中略)ミャンマーで、医師の話に触発されて愛の告白をした人の、聞いてから告白するまでには相当な量の思考がある。メタリカのリフのようにストックが見えないから、その接続は極めて単調に見えるが、その他に何もないとするべきではないのだ。

武田砂鉄「わかりやすさの罪」

これは刺激→行動を例にとったエピソードだが、人の行動全般に当てはまる主張である気がする。人は外からは見えず言葉にもできない複雑な行動のロジックを持っている。

もし誰かの行動が単純なものでも、突飛なものでも、たとえ自分が被害を被るようなものでも、その原理を自分の視点だけで考えてはいけないのだ。他者の膨大な文脈に思いを馳せること。それこそが理解や寛容へ繋がるのではなかろうか。

そんなこんなで地下鉄に乗り込む。満員であることには変わりはないのだが、それぞれの人生に思いを馳せてみると苛立ちは収まる。ドアのすぐ前に立ち、いつものように鞄から文庫本を取り出す。ホームにアラームのような音が鳴り響き、ドアは閉まろうとしている。すると、おじさんが駆け込んできて無理やり車両に乗り込み、私の文庫本が私とおじさんに挟まれぐちゃぐちゃになってしまった。殺すぞと思った。

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