高IQ障害者から見た「生きづらい人の居場所」
はじめに
自分のことを「高IQ」と書くのはおこがましい。しかし、世間では「ギフテッド」とか「才能」「親ガチャ」といった言葉が話題なので、ひと目を引くためにそう書かせてもらった。私について詳しくは「言語性IQ120の生きづらさ」という記事をご覧ください。
本稿では、必ずしもIQが高めなことを全肯定に捉えていません。別記事リンクを開くのが面倒な読者のために軽く補足↓
私は言語に関するIQが約120、動作に関するIQは約100と、凸凹のある発達障害当事者だ。「勉強だけ得意だったが、運動や社会生活はかなり苦手な人」。IQは病院で検査した結果で、精神障害者手帳2級。なので、私自身「生きづらい当事者」というスタンスで書く。
社会がキュウクツに
私がwebでばかり活動しているからだろうか。昭和生まれなんだが、令和のいま、どんどん社会が閉鎖的になってきているような。必ずしも、全てが悪いわけではないんだが、どうも、いろんなことが二極化しているような印象を受ける。
webやSNSの台頭により、ひとの本音が出やすくなった。社会の雰囲気も変わって、隠しごとが暴露されやすくなっている。反面、匿名なら何を言ってもいいような風潮があり、その「本音」に怯えながら生きている人も多いような。
たとえば、世間という得体の知れない何かは、表向きでは「障害者を理解しましょう」と促進しているようで、反面「障害者は迷惑、消えてほしい」という意見も目につく。社会が変わったわけでもなく、そういう意見が目立ちやすいだけだろうか。
運命論・ガチャ思想
「いろんなことが二極化」と、抽象的な表現を使ってしまった。内容を考えながら書いてるので、すこし掘り下げてみよう。たとえば経済だ。
国民の少子化が騒がれており、おそらく国をあげて表面的な対策もされている印象がある。お金を配ったり、俳優を使ったマッチングアプリなどの婚活ドラマ。(憶測で書いてるが、おそらくただの流行ではなく何らかの政治的思惑がからんで作られてそう、間違ってたらコメントください。お詫び訂正します)
ただ原因は「そこじゃない」かと。もっと深いところにありそうだ。聞くところ、いまの若者たちは無気力で夢が少なく、冷笑系などと言われる雰囲気がある。私が入り浸る匿名掲示板なども、以前に比べイヤぁな感じが目立つ。
私世代は、子供の頃、学力偏重社会で「頑張れば報われる」と洗脳?されて努力してきた。
私自身の原因をたどると「両親がずっと不仲なので情緒不安定になり、元々の発達障害と相まって社会に適応できなかった」という感じ。おそらく、少子化の原因も、「親世代が幸せそうに見えないので、家庭というものに幻滅している」という若者はけっこう多いんじゃなかろうか。
で、ひと頃流行ったというか、それ以降、漫然と若者の心の底に淀んでいそうなのが「運命論」みたいなそれだと思う。「成功者の元をたどれば、才能、親、家系があり(親ガチャ等)ハズレを引いたらいくら努力しても無駄」というアレだ。
才能?
別記事で「高めのIQを持っていても、それを活かしきれなければしんどい」というようなことを書いた。ただ、知能による恩恵もある。
親しい人々に評価頂いているが、私はたいていの人に、理解力や洞察力がある、と思って頂いている。そんなことを自分で言うのは傲慢なのだが、説明に必要なので、今回はご容赦ねがいたい。
例えば成人後、やむを得ず原付バイクに乗るようになった。そのうち自力で調べて修理したり、しまいには水没していた外車を実動させるまでになった。若い頃からバイクをいじってる友人が驚いて褒めてくれた。
これは一例で、MacBookの構造を調べて修理したり、わりとDIYなどは得意らしい。「手を付けたら最後までしてしまう執拗な性分」なので、何か始めたら没頭するし、集中力も高いと思う。
反対に「ダンスを見て即座に真似る」などは全く苦手だ。
苦手が多くて生きづらいひとの居場所?
ここから本題だ。私はたまたま、考えること、調べること、直すこと、などが得意なほう(といっても雑だが)らしい。
けれど、そうじゃない人もそれなりに居る。下書きで「努力する才能」にも段落を割いてみたが、長くなりすぎて削った。
私はストーカーの素質があり、犯罪者気質なのでその性質を「有益な方に活かした」場合、努力できる。
それを才能と呼ぶならそうだろう。おそらく脳のどこかで、しつこいとか、反対に、すぐ諦めるとかの気質が決まっている気がする。
たとえばPC苦手な人の手伝いで、なにか教えたりすると、やはり着眼点がズレてたりする。私がわかることを、わからない人がいる。
私が困っていることは、「得意でない人々はどうしたらいいのか。」ということだ。誤解を与えたくないのだが、私も不得意でないことはある。野球のフライ球の軌道が読めない。車をバック一度でキレイに駐車できない。運動全般。
知人に、発達障害の、若く美しい娘さんがいるが、彼女は「生きるの向いてないんすよ」と言っていた。何もない場所で転んだりする。彼女は幼少期から、物理虐待を受けてきたらしく、自尊心が著しく低い。薬物依存になっている。
本当に「才能」が無い人なんて居るのだろうか
ここが私のずっと葛藤しているところだ。手前味噌だが、私は、その気になれば(また、他人と共同作業でなければ)何かを、広く浅く、見栄えも悪いけど、それなりにこなせる自信がある。ただ、それは努力に裏打ちされたものだ。
執拗な性格なので、ときにはイライラして発狂するまで、何か徹底的に調べたり、できるまでやる性分だ。なので閉鎖病棟送りになったことさえある。
話が散らかっているが、ともかく自分はまぁ、サバイバル能力がある。
好奇心が強いのと、似たもの同士で引かれるのか、私の周りにはやはり、発達障害をはじめ、身体・精神・その他障害者や、各種の生きづらさを持った人が多い。健常者と呼ばれる方々でも、それなりの生きづらさはあるだろう。程度差だ。
ただ「障害」と呼ばれるものを持つ人々の場合、けっきょく「社会生活(とくに経済活動)」などが難しい。その心配ゆえに、さらに悪化して負の螺旋から抜けられない人も目立つ。
親しくなった人々に、おこがましくも、何らかの助力になれないか、といろいろ話を伺ったり「自分ならこうする」と伝えたことがある。けれど、彼らは私ではないので、私視点のアイデアが必ずしも有効ではない。
ダラダラと時間をかけて書いたので、まとまりが悪く、とても「聡明な人」の文章とは思えなくなった。じつは同じテーマで先日、下書きしたが、そちらはお蔵入りした。今回はもったいないので、最後まで書いて、このまま発表してしまおう。
居場所がほしいよね
ここまで書いて自分の中のモヤモヤは、どうやら社会福祉の分野なのかな。と思い至った。
キレイにまとまらないので、なんとかしたい。
他の障害者を、まったく見下していないか、というと、正直にいえば私の中に、障害・健常のみならず、人を差別する気持そのものがある。ので、それはさておき、むしろそういったものもひっくるめて「障害当事者の赤裸々な目線」だと思っていただいてよいのかもしれない。
で、才能の件でいえば、たとえば、知的障害のある方が「黙々と繰り返す単純作業」が驚くほど得意だったり、ポケモンの名前をぜんぶ知ってたり…薬物依存の娘さんでいえば「(私のようには)他人を見下さず、悪口を一切言わない」など、それはやはり「才能」と呼べる何かを、誰しもが持っていると私は信じる。
のだが、ともかく、それをいかに発見したり、相互に活かすか、あるいは、活かさなくても、ただ居るだけで大丈夫な「場」ができる…これは資本主義ですらない気がしてきた。話が広がりすぎたので、ここまでにいたします。
コンサータを飲んでて、推敲する余力がないので、乱文のまま公開させてください。
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