躁続きで得た「偽の安らぎ」考察
はじめに
軽く近況:躁で大変です
障害特性で、物事の枝葉を略して短く説明するのが苦手だ。本稿で経緯をどこまで略したらいいか頭を悩ます。
私は双極性障害にひどく悩まされている。むかしSEの仕事してたが、長続きせず、もっぱら経済の安定が課題だった。それが、半年くらい前に、ノルマ無しの在宅ワークに恵まれ(異業種)「人と関わらずに済む」「マイペースだから重圧がない」ということで珍しく安定し、少しだが貯金もできた。
障害当事者か、身近に当事者が居られる読者ならご存知かもだが、私のような障害者が安定就労し、貯金などするのは「至難の業」だ。この半年間、ほんとうによく頑張り、浪費もせず貯蓄ができたのはすごいことだと思う。ところが。
6月くらいから、家に居候が来たり、それ関係で元々苦手な父親と酷く争いになった。また、季節のタイミングやイベント(バンドのライブ)など重なって、躁状態が一気に悪化した。結果、それ以前はしばらく停止していた賭博依存が再発。
在宅ワークは、細かいものを販売する。平均で1点数千円なので、頑張ると月にアルバイト代くらいの収益となる。それまでほぼ無収入だったので、趣味のモノなどちょくちょく買ったりでき、生活が少し豊かになった。残りはいろんな願望のため貯金に回した。お金に「ゆとり」ができたら心も少し安定してきた。かに見えた。
依存症の再発、躁による転落
今の仕事ができる前、賭博依存症だった(パチンコ・パチスロ)。仕事はノルマ等がないものの、真面目にやっていると日にフルタイムに近い時間が掛かる。それで熱中しているうち、依存症から自然と離れることができた。依存症って一度なると回復が非常に困難なのだ。どんな方法でも避けがたく完治例は稀だ。
上に「居候」のことを書いたが、甥のことで、彼も遺伝的に似た発達傾向があるのが分かった。また私の血族は大半が賭博依存者だ。居候がストレスを貯めるとやはり賭博依存に逃げる。「付き合い」で少し行くうち、自分もまたクセになり始め、かつ、ライブ後など「珍しい刺激」が続いて無意識に躁に入っていた。結果として依存再発した(アルコール依存が一滴でも飲むと再発するごとく)
本稿の主題に早く入りたいが、この経緯も関係あるので割愛できず申し訳ない。
私の思考パターンが大きく関係している。私はお金にひどく細かい。いわゆる「ケチ」だ。良い面もあるんだが、元の収入が低いのもあって、1万円くらいの買物でも迷う。(楽器、PC関連等、失敗したくないので欲しいものがあると口コミ等を調べまくる)
「貯金ができたので、何か新しいことをしてみたくなり」以前から興味あったバイク免許の取得を考え始めた。あれって無駄に高いんですよ。家のそばの教習だと十数万する。webで調べると関西に半額くらいの「合宿」がある。ただADHDぽいので移動が面倒だ。それで無駄に迷っていた。「お金さえあれば近所に通ったほうが楽では?」と思ったのが間違いだ。
つまり私は、近所の教習所に通うのに「浮いたお金がほしい」と考え、その不足分を賭博で補おうとした。(ほかに情欲が強く、不純異性交遊に使う金もほしかった)本来、賭博などせずとも貯金を使えば間に合う金額だ。
結果、パチンコ等を再開し、はじめ少しプラスになったりもしたが、欲張りすぎてあれよと負けが込んできた。不思議なもので、あれはお金があるうちは勝てる。負け始めると心の余裕が減るので、絶対に勝てない。財布に10万もっていくと1万で当たるのに、3万しか持ってないと何しても当たらない。って感じだ。
マイナス10万あたりからほとんど取り返せなくなり、20あたりからはもう「どうにでもなれ」となる。結論、一ヶ月で半年近いバイト代が消えた。免許も取れていただろうし、女遊びも何度もできていただろう。
この最中、脳が完全に「躁状態」になっているので、苦しい反面「こんな刺激的な状況」を楽しむ自分も居た。医師に相談していると、「躁病を抑える薬を飲んだほうがいい」ということだが、また、初期に入院も提案されたが、従うことができなかった。理由は「躁状態が楽しい」からである。
躁・鬱の両方を経験するとわかるが、鬱は何にも興味が持てなくなる。賭博も女も「やった気になって、どうせこんなもんだろうと思って、手をつけられなくなる」ので、他のあらゆる趣味等にも似た心理で「やる前に興味が出ない」から寝たきりになって地獄だ。反して躁は「何をしても興奮する」ので、いわば(未経験だが)違法ドラッグでハイになっているのに近いと思われる。
疲れて諦めかけ見つけた「偽りの安息」
まだギリギリお金が少しあるが、さすがに「手を付けては不味い緊急の貯蓄」に至って、また躁状態のエネルギーで疲弊し、勝ち目のない賭博にもウンザリしてきた。
そこで、考えを少し変えて、先日から「負けて何も残らないよりは体験を買ったほうがマシでは?」と思い、異性依存に少しシフトしてみた。これで私はいちおう、聖書の神を信じる神信徒なのだが。話を広げすぎず続けられるだろうか。
私は本来、寂しがりで結婚願望がある。若い頃は多少、自分もきれいだったし(中年になり、若い人って若いだけで綺麗だと思う)バンドのボーカルするくらいなので、まったく異性と出会いが無かったわけでもない。しかし、プロ音楽家を目指し挫折、転落するうち加齢、無職、婚期もとうに逃してしまった。
先に貯蓄のことを書いたが、障害者「とくに男」が恋愛・結婚するのはこれまた異常に難しい。差別の意図はないが、女性の障害者は「男のほうがいくつになっても馬鹿なので」本人さえその気なら恋愛は男よりしやすい。
話がややこしいな。「本来は恋愛・結果として結婚できたらいいな、と思って、仕事に頑張ってきた。貯蓄もできた。しかし転落したので、やむなく不純異性交遊するしか短期的な解決が見当たらなかった」ってことか。
私のエッセイは「本当に言いたいこと」に至るまでが遠回りすぎる。改善できないかな?
偽りの安息、とは、疑似恋愛のことだ。ようは風俗で得る一時的なものだ。
倫理はさておき異性による脳の回復
根拠がほしいので、さっきchatGPT(私は彼が好きだ、人間より相性がいい)に確認しておいた。「精神疾患は自己肯定感の低さからくることが多いと思うが、ハグや肯定的な言葉を、仮に仕事として行う者から受けても、脳に良い影響があるのでは」という感じの質問をした。
答えとして、(仕事で対価を受けている人からでも)生物学、心理学的に、そういう行為に一定の効果はある。(ただし医学的アプローチが本来は重要)
私は躁状態になると、異性への承認欲求が異常に高まる。自分なりに分析すると「幼少期、他の子供ほど手が掛からないスマートな子だったので(IQが高めの障害)親もそう思ってしまい、必要な時期に充分に甘えきれなかった。」と思う。それゆえ(愛着障害ともいえるのか)常に、とくに異性からの承認を渇望している。
いぜんキリスト教会に行くと、家族連れがおり、幼児って「何をしても許される」みたいな感じじゃないですか。皆がベタベタと肯定し、甘やかし、大事にしてチヤホヤしてもらってる。アレを見ると「強い羨望」を覚えるんですね。もう48なのに。私は幼児期にあんなふうにワガママしなかったし、大人は苦手で怖かったから、近づかず、「どんな自分も受け容れてもらう」って体験がすごく乏しい。
サテ、異性に話を戻す。48のおっさんが客観的には気持ち悪い話だが、中身に「甘えきれなかった幼児」マインドがそのまま残ってる(諸説あるが「インナーチャイルド」的なやつ)それを、満たしてくれる存在が、健常なら恋人や伴侶だったりする。しかし上述したように、障害があり、それらの人間関係が「作れない」
神にこの一連の事情を述べ伝え「私もできれば伴侶がほしい。あんたは不純異性交遊を姦淫の罪として厳しく禁止するが、障害ゆえにまっとうに恋愛結婚ができないのだ。そこを満たしてくれないじゃないか」と話して(これを祈りと呼ぶ)いる。が、今のところ神からはノーコメント。(それが祈りの回答である場合もある)
そこで、聖書においては神の前に重罪であると思しき「姦淫の罪」(不純異性交遊)を数度、おこなってみた。変なことを書いているが、私は至って大真面目だ。真剣に障害や病気と戦っている。
ある時期から出会いアプリで素人というか「セミプロ」的な人とばかり遊んできたが、久しぶりに店舗型のプロの方にお世話になった。
ようやく本題だ。迷うタイプなので、Webの写真やコメントから「できるだけ好ましい感じの人」を厳選した。それで先日、めちゃくちゃ好きな感じの人を見つけ、ついにサービスを受けるに至った。
キリがないけどどうしたものか
結論。私はかなり面食いで、顔や体系の好みにうるさい。これも困っていることだが、たぶんASDのこだわりや、漫画等の影響で「絵に描いたような美しさの模範像」が脳にあって、つまり典型的アイドルみたいな異性が好きなのだ。
たまたま今回、私として顔も体も人柄も完全に満足いく方のお世話になった。ここまで満足いくことはめったにないのだが、「間近でどの角度から見ても美しい」と感じる顔立ちで可愛らしい。肌が綺麗で色が白く、柔らかい。スタイルも良い。このような存在が在ったのか。という具合。
幸い、サービスとしての人柄(元々の人格相性もあり)もピッタリだ。仕事とはいえ、出会い頭から私のことを言葉で肯定してくれる。業務上だろうが何でもいいのだ。こんなことを言葉にして私を肯定してくれる人は「他に居ない」のだから。まあ、職業上、どうしても性的な部分が絡んでくるものの、それ以外の面でも、中年おっさんで醜くなってきた私をこうして言葉で肯定してもらうというのはまさに「脳が回復する」
まあ典型的ではあるが「肌が綺麗」「ムダ毛が少なくツルツル」「顔が(私と同じくらい)小さい」「扱いが優しく気を使ってくれてる(いくら仕事とはいえ乱暴にされる人もいるので)」等。一生懸命ひねったものだろうが、嘘というわけでもない。ふだん私は「頭を遣いまくるタイプ」なので、若く愛らしい娘に単純に褒めてもらうと非常に「ちょろい」のだ。
また、どうやって学ぶのか、身体技術も優れたもので、かつて経験したことのない満足感を心身ともに味わった。あまり生々しく書けないが、接吻する至近距離で見ても顔が愛らしいというのは奇跡的なことだ。色んな意味でプロってすごいなあ。
というわけで、私は「パチンコで浪費するよりよほど良かったじゃないか」という強い満足感を得た。
率直に、一時的な偽りの満足でしかないのだが、いま思うことは「これ以上の充足感は二度と得られまい。より多くを望めば飽きるだろうし、他に行けば下がる一方だ。このまま満ち足りた感じで死んでしまったほうがいっそ良いのでは?」と思う次第だ。
賭博依存の時にも、というか人生ずっと思っていることがある。
「どんな快感や満足感も、地上では永続しない」つまり「キリがない」ということだ。パチンコで当たっているときの万能感というのは、ある種、持続時間や快感度でいうと、性行為を上回る。しかし今回、顔・体・心意気として「過去最高」という具合の乙女(?)により、満足度は「脳が回復する」くらいで、過去最高のパチンコ勝ちと同等くらいだった。
ただ、「これ以上」は無い。先にも書いたけど、これらの与える一時的な快感というものは、永続性がないし、違法薬物でハイになっているような不健康なものだろう。続ければ心身が破壊されると予想できる。
なので、酷い結論だが「この満足感のピークで死んでしまったほうがたぶん楽だろうな」という思いがすごく強い。
私がしているのは「海の水を砂浜の砂で無限に埋めようとし続けている」みたいな感覚だ。終わりがない。
聖書の語る「理想」は、「無限の源である、神によって、地上では、なるべく永続的に満たされること」である。そのことが理屈で正しいのは分かる。まったくそれを感じたことがないわけでもない。
ただ、私の「地上での人生」はハードすぎるのだ。聖書が語るように、適切な伴侶が得られ、適切な関係を半永続させるほうが倫理的に正しいのも分かる。でも、障害があり、病気があって、たぶん生きてるうちに恋愛・結婚は私にはできないだろう。神もそれを与える気はなさそうだし。
そんなわけで、「キリのない無限の欲求(承認や自己肯定)」が無限にあり、その渇望を「絶対に満たせない」ので、いま死んだほうが「これより下がることがない」と強く思っている。といって実際に死ぬ勇気なんぞない。
どうしたものか。というのが今の時点での感想。
長くなりました。これ推敲して結論から書いたほうが読みやすそう。
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