キリスト系「異端」の危険性

はじめに

私は19才の時、正統派プロテスタント教会(※)で洗礼を受けたキリスト者です。現在47才、独身、発達障害(ASD>>>ADHD)、ガンの後遺症もあり、無職。元システムエンジニア。2000年頃に1年間、アメリカに音楽留学経験あり。

自称「神のお気に入り」だが、神が大嫌いという、ちょっと変わった信徒です。そのへんの細かいニュアンスはこちらの記事ご参照ください。このことを書くのは「常に非信徒目線を忘れない」「信徒である前にひとりの人間である」という意図があります。(熱心になると、信じてない人の気持を忘れがちだから)

※ 正統派、というと「自分たちだけ正しい」みたいなイメージがあってあまり好きな言葉ではないけれど「非異端」という意味で便宜上、この語を使います。

おことわり

本稿は、信徒でない一般の方むけに、注意喚起の意味で執筆します。
ただし、私は専門家ではない一般信徒なので、内容は、公式見解ではないです。また、誰しも間違いをするので、私が書くことを全て鵜呑みにせず、ある程度はご自身でお調べになることをお勧めします。

「異端の教義」は「悪」だと感じますが、信じている方々は人間であり、被害者的な面もあるので、とくに正統派信徒の方々は彼らの癒しや救いのために祈って頂きたく存じます。

異端出身、現正統派に改宗した友人らから聞いたことを書きますが、記憶違いや未確認事項があります。異端の正式な教義等は信頼できるソースで各自検索なさってください。間違いに気づかれたらコメント頂けると幸いです。

異端とは

詳しくは検索にて。ここでは私なりの言葉で、非信徒さん向けに書いてみる。

まず、聖書に真贋がある。世界共通で「これが正式な聖書です」という基準があり、神学者等が時間を掛け、歴史的に定められたもの。なお、聖書自身も「この書の内容に足し引きする者には神罰がある(私意訳)」と述べている。キリスト教会、団体にも同様の基準がある。

たとえばエホバの証人(以下JW)は「新世界訳」という聖書を使うが、正統派のそれの、細かい部分を書き換えてある。ぱっと見で非信者が見てもなかなか気づかないだろうし、信者でもカンが鈍いと分からないかもしれない。

説明が長くなりそうなので、雑にまとめると「イエスの神性の否定」「三位一体解釈のズレ」「救いの条件のズレ」などが異端の特徴に思える。ついでに言うと、三位一体という単語は聖書に書いておらず、「父なる神・子なる神(イエス)・聖霊なる神」の、唯一であるが各々、ペルソナや役割が異なる神のこと。

私と異端

私は幸いにして(自分がすごいという意味ではない)最初に入手した聖書が、正統派と認められているものであった。また、いわゆる教会に通うことなく、大学のキャンパスでCCC(学生伝道団体)に伝道され、その場で直接に信じた。

信じてそろそろ三十年近くなるため、いろんな知識・経験を得た結果、自分はどうも神に対して、わりと敏感な感覚(聖書では「賜物」と呼ぶ)を与えられているらしい。

のちに、もっぱらSNSなどで多くの信徒さんらと巡り合うようになり、皆がいろんな背景を持っていることを知った。また、神学校の校長、教職者らとも繋がりを得たり、自身もある時期は神学校での学びを目指したことがある。元々「知らないことは徹底的に調べる」タイプなので、知識・経験が得られたのは幸いだ。

その中で、異端出身だが改宗し、正統派に返った人々にも出会った。信徒仲間の親友のうち数名がそのような人物なのも不思議なことだ。信徒はたいてい、こういっためぐり合わせを「神のみわざ」と呼ぶ。

異端の手口や危険性

過日の暗殺事件で、一般の方々にまで認知が広まったのは本当に意外だったが、「宗教2世」と呼ばれる人々が居る。親友のひとりはJW2世で、とても虐待的な環境を経験したそうで、今でも苦闘している様子がある。

私が思い出せるだけでも「宗教的行事の参加禁止(七五三、節句その他)」「大学進学禁止」「恋愛の監視」「親による体罰」など。子供からすると至って理不尽な扱いを受け、非常に傷ついて、今でも影響があるようだ。

また、別の親友は、2世ではなく、大学時代に統一教会(UC)の勧誘を受け、信者になった。ちょっと本人に連絡が取れず、どこまで書いていいかの許可や、執筆中、新たに出てきた不明点を聴き取れないのが口惜しい。(その部分は連絡がついたら追記したい)

彼の場合、「生きる意味」を求めるモラトリアム時代に、何らかの形で接触され、信じるようになったようだ。結果、「信徒同士の共同生活」「モノ売りの強制」「教義による洗脳」などを経験した。洗脳というとどぎつく聴こえるけど、実態的にはそうだと思う。(※ 接触の詳細を伺っていないので追記したい)

私も思い出したことがある。大学時代に自分はCCCのスタッフと親しくなって、信徒になり、いろんなイベントにも参加した。学びだけでなく、それ含めた遊びの会もあり、サークルのようなものだった。正式な団体は、キャンパスでの活動許可を受けている。

私の時は、英語科のバンド仲間が「クリスチャンの留学生に会食を誘われてるが、自分は行きたくないので断るのが気まずい。(英語とキリスト教に興味のある)おまえが代わりに行ってくれないか」という可笑しな経緯だった。ただ、最初から「キリスト教の関係の英会話ランチだ」と明示されていた。

異端の勧誘が実際どうなのか分からないけれど、留学生や食事会などのキッカケにするのは似ているかもしれない。ただ、「親しくなってから後出しで宗教関連だと明かす」パターンがあるかもしれない。もしくは「人生の意味について興味がありますか」など、直球であっても団体名を明かさないとか。

「洗脳」と「解除」

先にUCについて、洗脳という単語を使ってしまった。なにも映画のように「椅子に縛り付けて大音量などで拷問しながら考えを刷り込む」といった行為をするわけではない。ただ「聖書(もしくはUCの経典)を勉強する時間」というのがあり、自然な形で皆でそれを学ぶらしい。

ただ、なぜ洗脳と呼ぶかということを書いていきたい。

彼のケースでは、数年くらい、共同生活をするようになり、ある時期、親御さんが心配して「カルト救出の専門家」に救出依頼した。彼目線の話によると、ある日、親や親戚が来て、騙し討ちのような形で車に押し込められ、どこかに軟禁された。そこでしばらく本当の聖書についての問答をし、だんだん「自分が変なことを信じていたことに気づきはじめて、洗脳が解けてきた」という具合だ。

軟禁などの過激な話になるが、少なくとも本人は「結果としては良かった」と思っているはずだ。(今は「まことの神であるキリスト」を信じている、という意味で)うろ覚えで恐縮だが「最初はもちろんイヤだったし気分が悪く怒っていた。けれど、最終的には感謝している」と述べている。

※ 「軟禁」等について、悪い印象を与える表現になってしまった。この部分は丁寧に説明したいのだが、個人情報の観点から、当事者の許可を得た後で加筆したい。

聖書と「自由」

「本来の」聖書が主張することは「自由」である。この部分、わたし自身、ようやく最近になって痛感してきたことである。

というのは、非信者の多くが「聖書を信じるということは、戒律に縛られて自由がなくなる」ということを嫌って、あまり信じたくないのではなかろうか。じつは、信徒の中にも、そう感じる者が、私を含め、それなりに居るようだ。聖書の戒律どおりに頑張って生きようとするのは、非常に窮屈だ。

この背景には「(物質的な)キリスト教会や、既存信徒の態度」などの影響があるのではと私は思っている。おそらく、もとは善意なのだが「この世にあって倫理模範であろうとするあまり」善行やそういう態度が、「神の前に敬虔であるかの誤解」が蔓延しているように思う。

良い行いをするのはいいことではあるけれど、「動機」が大切だと思う。さいきん私が思い至った動機というのは「神に愛された結果として、自然とそのような気持ちになる」ということだ。よく見せたいからそうするのではなく「自発的にそうなる」のだ。

あなたたちは真理(イエス)を知り、真理はあなたたちを自由にする。

ヨハネによる福音書8章32節

聖書自身はこのように言っている。

聖書には、モーセの十戒をはじめとする、さまざまな、非常に細かい規則が書いてある。しかしそれは、人を縛る目的ではない。規則の本来の目的は「神による人類への愛情」らしい。

ところが、あれをしろ、これをしてはならない。という規則に人類が縛られるようになってしまった。イエス時代には「律法主義者」といって、とにかく規則を徹底して遵守すれば偉い、みたいな考えのグループが出てきた。

(神である)イエスは「人がルールのためにあるわけじゃなくて、ルールが人のためにあるわけでしょう」といって、時には自らルールを破ってみせている。イエスは律法主義者を嫌っており、辛辣に彼らの「動機(自分をよく見せたいプライド)」を批判した。神の律法の本来の動機は「愛」だからだ。

真理=イエス、は、そういう意味でも、人々を「自由にするべく」地上に来た。

異端についてのエッセイなので話を戻すと、異端の教えも、基本的には、人を規則で束縛し、自由を奪うものが多い。

神の言いたそうなこと

まとまらないので箇条書きにしてみよう。

・異端には「人生を破壊しかねない影響力がある」
→ 背後に悪魔の(神の敵対者、人類より長生きで悪知恵に長ける)力があるため、興味本位で関わるべきではない

・(私の主観だが)異端の信者は「被害者」だと思っている
→ むかしある教会で、近所の異端教会のことを「(見下すように)あーあの人たちね」と言っているのを聞いて憤りを覚えた。私の友人らがそうであるように、まことの神イエスに出会って自由になる可能性のある人々であることを忘れたくない

・神自身、「異端や、その根源(悪魔)」を憎んでいるが、異端の信者に対しての愛情を忘れたりはしていない
→ いま直接、私なりに神に伺いを立てたところ、非常に悲しい感覚が伝わってきたので、神は「非常に心を痛めている」という印象を受ける

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