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田舎の豊かさはものづくり精神?徳島県神山町で獅子舞作りと農家の手伝いをして考えた

都市をでて、1週間の田舎暮らし。農作業や竹の伐採を通して感じたのは身体の不自由さだった。健常者である自分がなぜ、不自由なのか?そこでの生活の営みは、「なんでも自分で作れる大人」が活躍できる地域だったのだ。

田んぼでの脱穀も、農業機械の修理も、毎日作る料理も、すべてせっせと体を動かしてこそ生活を営める。そのような環境の中で、身体にその動きを染み込ませるように、僕は獅子舞を創作した。

今回は徳島県神山町でサテライト拠点を持つ100BANCHの支援により、2022年9月25日~10月2日の1週間、獅子の歯ブラシのメンバーの1人である稲村が神山町に滞在。地域の暮らしを体感しながら、獅子舞を創作した様子を振り返る。

神山に行くことになったきっかけ

まずは、この地に滞在することになったきっかけから振り返っておきたい。

2022年8月、獅子の歯ブラシは100BANCHを拠点として東京都渋谷区の獅子舞を創作した。その時の獅子舞が好評で、先日100BANCHのサテライト拠点がある徳島県神山町でお米の収穫が行われたので、「収穫祭の獅子舞をしてみては?」とお誘いを受けた。

ただ単に舞うのではなく、現地の様子を見てみることで獅子舞のイメージが湧いてくると思ったので、2022年9月25~10月2日の日程で、神山町に滞在させてもらうことにした。

滞在先の森西ハウス、机の上にはすだち

今回、急遽の滞在のお話だったので、アーティストユニット「獅子の歯ブラシ」のメンバーの中では、稲村のみが滞在。他の2人は遠隔でミーティングをするなど関わってもらうことにした。ある意味、サテライトオフィスが有名な神山ならではの関わり方をしてもらったように思う。

神山町ではお米の脱穀や乾燥、精米といった農作業を始め、竹の伐採、現地の獅子舞のリサーチを行うことができた。これらの活動からヒントを得て、獅子舞を創作。10月1日には神山町内でこの獅子舞を舞い歩いた他、10月6日には渋谷での収穫祭でも登場させてもらうことになっている。

徳島県神山町について

お米の脱穀、乾燥、精米を行うのは、徳島県神山町である。神山は東京から飛行機と車で約2時間半程度で着ける田舎であり、農業をはじめとする伝統的な生活の知恵が肌で感じられる場所だ。東京周辺の田舎とも全く違う雰囲気があり、圧倒的に時間の流れる速度が緩やかに感じられる。ここには100BANCHの滞在先として、森西ハウスと田んぼが1区画ある。9月25日に100BANCHで農業関連のプロジェクト活動を行う瀬戸山さんと合流し、現地に向かった。

お米の脱穀、乾燥、精米

獅子舞を作るにはその土地の暮らしの中に宿る身体性を自らの体に染み込ませなければならない。9月26日は朝9時から夕方の17時くらいまで、お米の脱穀作業の日となった。農業を教えてくれるのは、森西克典さんだ。もう80歳になるが、腰はピンとしておりその身体は衰えることがない。まさに「農家の鑑」である。

今回は100BANCH オーガナイザーの則武さんも来ており、前日に予防医療に関わるお医者さんが参加する身体知のセミナーに参加されたそうだ。身体を疲れさせないようにするには「紐を輪っかにして八の字を作り、体に巻きつけて過ごすと疲れない」と聞いたという。紐が身体に触れることで筋肉の動かし方を意識するようになりそれが良いのかもしれない。僕自身も陸上部だったので、走るときにTシャツの素材によってパフォーマンスが違ったことを思い出した。

ただし、克典さんの場合は紐も何もなく、生活の中で疲れない効率の良い動きを習得されたということだろう。同時に今回の獅子舞は、農家である克典さんを「獅子のモデル」として考えるのが良いだろうと直感した。

農作業は午前に干してある稲を脱穀機にかける仕事を行い、午後に稲藁を粉砕するのと、稲藁を干すのに使った木の片付け、脱穀機の掃除などを行った。昔の人が何日もかけて行った行程をわずか1日で完了できたのは、農業技術の進歩の賜物である。克典さんは機械の調子が芳しくないときに、見たこともない工具を色々と持ってきてくれて「こんなのどうってことない」とすぐに直してしまう。自分の手によって何もかもが完了するのだ。今日の都市生活がいかにブラックボックス化されているかを思い知らされた。

農作業を通して、ありきたりな言葉で言えば、「食のありがたみ」を知ることができた。それが最も意識されたのは、大きな田んぼでこれだけのお米しかとれないと知ったときだった。食べられるものはわずかであり、それ以外に膨大な稲藁や労働力が必要だったのだ。

竹の伐採のお手伝い

9月28日には、竹刈りの作業を行った。竹林を持っていると、古くなった木が倒木の恐れがあり、道路の通行を妨害してしまう恐れがあるので、手入れをしておく必要があるのだ。

山を持つことの苦労を感じたし、自分が竹を切る技術の無さを痛感した。蚊にもたくさん刺されたし、竹で怪我をしそうにもなった。でも身体を使って生きている感覚になったのがよかった。普段はパソコンを触って指先しか使わないが、全身を使うことがこの土地の暮らしの人々の当たり前であり、健康の秘訣でもあるように思われた。

獅子舞のリサーチ

神山町での獅子舞を創作するには、既存の獅子舞に関するリサーチもしておく必要がある。農村改善センターに郷土資料があるというので伺ってみると、神山町史編集委員会著『神山町史上巻』(平成17年3月)に獅子舞に関する詳しい内容が書かれていた。


神山町内の3つの地域(阿川、高浜、左右内)で獅子舞が行われているという。平野部の麻植郡から南下してきた獅子舞が江戸時代の天保年間にまず阿川に伝わり、そこから明治14年に高浜、明治29年に左右内(そうち)と順々に伝わっていったことが分かった。また、広野の養瀬、上分の西名でも獅子舞が行われていたが、現在は途絶えているとのこと。やはり町史はとても情報が細かい。

①阿川の獅子舞

神山町で最も古い獅子舞について知るべく、まず9月27日に阿川の公民館に電話してみると、「獅子頭を保管しております」とのこと。「ぜひ見せていただきたいです」と伝え、いきなり伺うことになった。

公民館には、獅子頭が6頭保管されていた。赤がメスで、黒がオスと決まっており、どれもオスメスで一対となって使用される。胴体部分は油単(ゆたん)と言われ、これは香川県の獅子舞と同じだ。また、獅子頭は香川同様に猫獅子の形態であり紙製で、左右の耳にフサフサの毛がつけられており、横長のものが多い。一見すると可愛らしいのだが、その中に狂気を含むように歯がとがっていたり、眉毛がつり上がっていたりする。そのギャップが魅力かもしれない。

練習用の獅子頭は木を立方体のように組み、顔を描いたものを使っており、とても可愛らしかった。獅子頭の口は作らず絵に描くだけであり、「獅子の口をパクパクさせなくとも、振りが練習できればOKです」と話をされていたのは印象的だった。この地域では獅子頭を振ることに意識が向いているのだ。

広野支所では、獅子舞保存会会長の森さんにお話を伺う機会を得た。この地の獅子舞は元々江戸時代の享保年間に、干ばつが続いて凶作となったことが原因で、雨乞いを目的に始められた背景がある。人間が田んぼと向き合う中で困難を乗り越えていくための力強い味方が獅子舞だったわけだ。

現在、高齢化が進んでおり、担い手の年齢は最も若くて37歳とのこと。森さん自身も50歳を越えており、舞い方が激しい一方で高齢化が進んでいる状態であるという。ただ、みな舞い方は熟知しているので、練習は3~4回すればOK!すぐ本番に臨める。獅子舞の本番は、圧倒的に神社が多く、年間で言えば春の梅まつり、夏祭り、秋祭りの3回である。

特筆すべきは家々を回る門付けは行わず、ただ神社の前で舞うのみとのこと。1回の演舞は5分程度で曲数は2曲のみ。かなりコンパクトであり、地域の方の中でも知らない人はいるのではとのことだった。必要最低限の演舞をこなしていくという消極的な面がある一方で、獅子頭はしっかりと大事に保管されているし、愛着もありそうだ。そこらへんの2面性については、じっくり考えてみたい。

また今回のヒアリングを通して、阿川の獅子舞はお囃子の賑やかさに大事な要素が含まれているように思われた。太鼓4つというのはまず珍しく、全国的に言えば1~2つの地域が多い。それに加えて、笛、拍子木があるというから賑やかだ。動画を拝見してないので詳しいことはわからないが、音を鳴らすこと、つまり賑やかしに大きなこだわりがあるように思われた。性質が異なる部分も多少はあるのだが、これは爆竹をガンガン鳴らす中国のお祭りを想起する部分も少なくない。神山の獅子舞のルーツである香川県方面から多分に影響を受けていると思われるが、それにしても「鳴り物に対してこだわる民族性」を持った背景についてさらに深掘りたくなった。

②高浜の獅子舞

また、9月28日には高浜地区の獅子頭を見せてもらうことになった。高浜獅子舞保存会の向井さんにお話を聞くとともに、集会所に案内していただいた。獅子頭はオスメス一対で残っており、太鼓が4つ、油単が2つ保管されていた。獅子頭は香川県の琴平の職人さんが平成になってから作った比較的新しいものだという。口だけでなく目も動くようになっており、通常は紐を引いて操作するそうだが、最近は頭を傾けるだけでも目が動くようになったのでそのようにして動かしているとのこと。

獅子頭はオスとメスとがあったが、全く同じデザインで驚いた。

オスとメスを見分ける方法は胴体の色だという。オスは青っぽくて、メスは赤っぽい。こちらは集会所に飾られていた獅子舞の写真。オスとメスの違いは一目瞭然だ。

獅子舞の運営の話も伺ってみた。昔は獅子舞の保存会に町役場から年間2万円の予算がついていたが、今ではそのようなものはない。毎月第4土曜日に獅子舞をしており、集落15軒を回るが基本的にご祝儀はなく、団体としては収入がゼロである。神社を回ることはなく、獅子頭はもっぱら集会所に保管されている状況だ。それでも獅子舞を続けている担い手の原動力は、「飲み会が楽しいから」とのこと。集会所の隅には大量の空き缶が積まれていた。

担い手は48~80歳であり、かなり高齢化が進んでいる。日本全国で80歳でも獅子舞ができる町というのはなかなかない。おそらく農家など職人気質の男性が多く体が丈夫な地域柄と、獅子舞のゆったりした動作がこれを可能にしているように思われる。また、毎月獅子舞を演舞するという地域も珍しい。獅子舞を見せるというよりも自分たちが集まる口実であり、純粋にそれを心から楽しんでいるという雰囲気が伝わってきた。

神山町郷土資料館の獅子頭

ここまでの話で、阿川の獅子舞はオスメスの見分けが獅子頭(黒・赤)だったのに対して、高浜の獅子舞は油単という胴体部分(黒・赤)だったのはとても興味深い。そういえば、9月29日に訪れた神山町郷土資料館には2体の獅子頭が保管されていた。表情は違うものの、どちらも黒い獅子頭だった。これは高浜と同様に、胴体部分の色の区別によってオスメスを見分けるパターンのようにも思える。スタッフの方にお話を伺ったが、実際にどこの地域の獅子頭かは記録が残っていないらしい。

実際に獅子舞を創作した

さて、ここまで稲の脱穀、竹刈り、獅子舞のリサーチを様々な角度から、神山の暮らしを見てきた。これらを元にして、どのような獅子舞を創作したのか?振り返っていきたい。

この獅子舞は竹籠に稲藁を指した獅子頭、竹がガラガラとぶつかり合う楽器、竹笛の3つからなる。それぞれについて見ていこう。

①竹籠に稲藁を指した獅子頭

この獅子舞の魂の根幹を担うのが、この部分である。竹籠は森西ハウスの道具置き場で入手した。この竹籠が大地であるとすれば、四方から差し込まれた稲藁は田んぼに稲を植えるイメージだ。この稲藁は昨年のもので、昨年の藁が今年の豊作を祝っている。稲作のサイクルは一年単位で循環していくのである。それにしてもこの獅子頭はヤマアラシそっくりだ。

②竹がカラカラとぶつかり合う楽器

もともと、神山で感じた身体の不自由さを表現するために、竹馬を作ろうと思っていた。しかし、獅子頭が重くて両立がハードだと思ったので、身体の動きに応じてカラカラ鳴る竹の楽器のようなものを作って、獅子頭に取り付けた。獅子の胴体部分と解釈しても問題はない。獅子頭と竹は連動して音を奏でるというわけだ。

③手作りの竹笛

そして、最後に制作したのが竹笛。獅子頭が噛まないタイプなので、何かの形で厄払い機能を付加したい。そのような意味で、ヒントを得たのが神山で獅子舞のお囃子に使われる拍子木という楽器だった。拍子木を打つことは獅子頭で噛むことと同義であり、空間の厄を退散させる意味合いを持つ。それならば竹笛を2本作り、笛を吹いたり、それらを合わせてカチン!と叩いたりすることで厄払いをするような形態を考えたのだ。

完成した竹笛(中央)とそれに使った道具類

これらの獅子舞の道具は、獅子の歯ブラシの他のメンバーとも長時間のミーティングを行い、様々なアイデアをもらって制作したものだ。自分だけのアイデアではないことを記しておきたい。

実際に神山の町を舞い歩いた

さて、獅子舞演舞の前日。9月30日にNPO法人グリーンバレーのご協力のもと、町内のメーリングリストにこのような緊急告知を行った。

【明日、神山町に獅子舞が出没します!】
神山町にサテライト拠点を置く渋谷・100BANCHから、現在、神山にアーティストユニット「獅子の歯ブラシ」のメンバーの1人である稲村行真さんが1週間滞在しています。

神山の皆さまの支援のもと、100BANCHは2年間にわたり米作りに挑戦していますが、その収穫を祝い、稲村さんは農作業や竹の伐採のお手伝いをしながら、「神山のお米」をテーマに獅子舞を創作されています。

明日(10月1日)の午前からお昼頃、神山町内のどこかで突然、獅子舞姿で出没するそうです。もし出会えたらラッキーですね!

謎の獅子舞告知に、町内がざわついたことだろう。実際の演舞時間やルートの詳細は非公表。心の準備なしに、獅子舞に遭遇してほしい。そうすることで、「見世物」として配慮された芸能ではなく、その「土地から湧き上がってくるホンモノ」に接続できる。そのような想いから、広報には配慮している。そう、土地らしさを反映した野生的な魅力溢れる獅子舞を創造したいのだ。

10月1日の演舞当日、脱穀を行なった田んぼで朝9時から獅子舞を開始した。朝9時というのは、農業を教えてくださった克典さんと最初に待ち合わせた時間であり、10月1日は克典さんの誕生日の日だ。この必然的とも言える演舞の開始に、気持ちはどんどん高まっていった。

舞い歩く獅子舞

獅子舞の流れは、田んぼに始まり田んぼに終わる。トラクターで慣らされた土の感触を確かめるように、ただ歩くところから獅子舞は始まった。土の中にいる生き物を掘り出すように獅子頭をかぶり歩き出す。

まずは克典さんの家に訪問!農作業やら何やら本当にお世話になりっぱなしだったので、その感謝の想いを込めて舞った。それから商店街に向けて進んでいく。窓の外から中を覗くようにして、獅子舞の来訪を知らせる。いきなりの訪問に驚かない人はいなかった。しかし、温かく見守ってくれて、時には笑ったり「ご苦労様」と声をかけてくれることも多かった。

克典さんと獅子舞の補修

獅子の最後は田んぼで震えるようにして葬儀された。生み出された獅子は、一度土に還らねばならない。それが次の季節への豊穣へと繋がっていく。

フィニッシュ地点で舞う獅子舞

神山の獅子舞生息可能性は高い

今回の獅子舞はまず新しい挑戦として、獅子の歯ブラシの他のメンバーが来れなかったので、他の2人には遠隔で関わってもらい、獅子舞を創作することとなった。獅子頭、胴体、楽器まで、何度もやり直しながら作った。獅子舞の演舞では、舞うのと同時に獅子につけられたお囃子(竹)が音を奏でるという連動性があり、「獅子が動けば音も鳴る」という形態の獅子となった。音は鳴らそうとして鳴らすのではなく、神山という自然とそこに接続しようとする自分の身体との間で、自然に鳴るものなのだ。

この獅子舞の形態は「何でも自分で作れる」農家の克典さんをはじめ、食べ物の美味しい調理方法を知っていたり、竹の伐採をスムーズにこなせたりする神山町の住民たちの自然資源との向き合い方と重なるところがある。食べ物はスーパーに売られている表層しか見えてこない「商品」が全てではなくて、お米ひとつとっても、収穫、脱穀、乾燥、精米と様々な工程を踏んで、食べられるお米になっていることを肌で感じた。あれほど広大な田んぼで、とれるお米はこれだけなのか!と驚いたものだ。自分自身、農家さんのお手伝いと獅子づくりの両立をしたことによって、「1から何かを作ることができる人」として生きる力が少しは身についた気がする。土地の暮らしから湧き上がる獅子を創造する意味でも、新しいアプローチを生み出すことができたと言えるだろう。

神山町での演舞時間は前半、後半合わせて合計2時間ちょっとだった。獅子頭の重量が少し重かったのと、裸足で歩いて土地を感じていたためその分砂利道が歩きずらくて長い時間の演舞は難しかった。一軒一軒、門付けをして見知らぬ家々を回っていると、どうしても喜んでくれるもんだから、張り切って「こういう動きもしてみようかな」などと新しい舞い方を開発していった。後半になるにつれて、演舞の流れの型ができてきて、見るものを退屈させないものになっていったのだ。ひとまず、人と人との直接的なコミュニケーションがはかれる時点で、かなり獅子舞生息可能性は高かったと言えるだろう。

一方で、人を意識することが多かった分、自分の意識が薄れ環境に操られるというトランス状態になることは少なかった。最初と最後の田んぼでの演舞くらいだったと言えるだろう。神山の特徴は世話を焼いてくれたり、温かく見守ってくれたりする人の視線に支えられてこそ生きられる世界だ。救急車が走っていれば、「誰が運ばれたのかな?」と皆で話す場面もあり、その時のことは強く印象に残っている。

東京との比較の中で、圧倒的田舎を味わえた神山町での滞在だった。ITサテライトをはじめ、創造的過疎の最先端を行く神山町が、未来の暮らしのあり方を考える重要な場所であることも十分に感じられた。メンバー2人が遠隔で獅子舞づくりのアイデアをくれたり、動画を編集してくれたりしたので、より一層そのことを実感した。また今回、徳島県神山町でサテライト拠点を持つ100BANCHに交通費や滞在費などの金銭サポートや、地域の方々の紹介など、作品制作に多大なサポートをしていただき本当に感謝である。また、獅子舞を温かく見守っていただいた地域の方々にも本当にお世話になった。今後は、神山を舞台にさらなる獅子舞のリサーチや、獅子舞の創作のブラッシュアップなど、様々な可能性を探っていきたい。

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