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【個人的な「きっかけ」の話】

【そのミュージシャンは、自身のきっかけはこの一曲だったと言った】

ライブハウスに音楽を聴きに出かけたとき、あるミュージシャンが「自分が音楽を始めるきっかけになった曲を、これからカバーで歌おうと思います」と言った。

それは銀杏BOYZの『BABY BABY』で、私はそれを聴いたとき、この歌が如何にしてそのミュージシャンの始まりであったのかについて考え、そして様々な創作者のきっかけについて空想を広げた。

何らかの創作を行う人間の何割かには、こういった「この作品を見て創作者になった」というきっかけの作品が存在する。
あるミュージシャンにとっての1曲、ある画家にとっての1作、ある作家にとっての1冊。ある映画制作者にとっての1本。

作品を作る行為、あるいは作品そのものに対する思いは、恋人や惚れた相手への恋慕というよりは、我が子に向けられる愛に似ている。

永遠に生きられるだろうか
永遠に君のために
(銀杏BOYZ『BABY BABY』https://www.uta-net.com/song/50880/)

銀杏BOYZ『BABY BABY』は、恋人とも伴侶ともはっきりと判別がつかない、しかし間違いなく主体にとって大切な「君」へ向けられる、暖かな思いの歌だ。

だが今回の演奏に限って言えば、私にとってその歌は創作物への愛と、かつての始まりを懐かしむ追憶の歌であった。

創作へ向ける感情が子への愛であるならば、きっかけとはつまり、恋人や伴侶、憧憬の相手ではなかろうか。

そんなことを考えているうちに歌は終わり、手の平を叩く音に場は満たされる。拍手をしながら、ふと「後で自分のきっかけについて、一度ちゃんと書いておこう」という気になった。

つまりこれより先は、獅子狩和音の個人的なきっかけの話である。満足した方は、ここで帰るのも良いだろう。

【一個人のきっかけの話】

私が作家を目指すことになったきっかけは、フィクション作品に登場する一人の冒険家だった。

名前を、アドル。アドル・クリスティン。

彼は、『Ys』(読み方は「イース」。日本ファルコム株式会社が製作しているアクションロールプレイングゲーム。1987年に1作目が発売され、それ以降続編や外伝などが発売され、2021年には9作目のナンバリングタイトルが発売された)というゲームシリーズの主人公だ。

彼は冒険に魅せられた1人の冒険家で、16歳のときに故郷を旅立ち、様々な冒険をした後、63歳のときに北極点を目指す冒険に出て、行方知れずになったとされている。
冒険を愛し、その活動に生涯の多くを費やし、ついには冒険によって永遠に帰って来なくなってしまった男だ。現実世界で行えば色々と問題があるかもしれないが、冒険家の最期としてこれほど完成したものがあるだろうか。

ファンタジー世界を巡る冒険物語というと、他にも有名なシリーズ(『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』、『ゼルダの伝説』、『テイルズ・オブ』シリーズなど)があるが、『Ys』の特徴は「この『Ys』のゲームソフトは、冒険家アドルが自身の冒険を振り返って書き綴った手記である」というメタ設定にある。
プレイヤーがゲームを手にしたときには、既に主人公のアドルは故人であり、プレイヤーがゲームをプレイする行為は、彼の手記を読むという行為に相当するのだ。

このゲームを遊び、そして付録本を手にしたことから、私は小説を書くようになり、獅子狩和音になったのである。

【絵本だと思っていた貰い物が、ゲームの付録本だった】

私が『Ys』とアドルに出会ったのは、まだ小学校に上がるか上がらないかといったぐらい小さいときのことだ。

私にはゲーム好きの伯父がおり、幼い私はこの伯父とゲームで遊ぶのがとても好きで、『Ys』以外にも様々なゲームを一緒に遊んでもらった。
その伯父とファミリーコンピュータ版の『Ys』を一緒に遊んだことがあったが、『Ys』のアクション操作は当時6歳だった私には難しく、あまりしっかりとは遊べなかった記憶がある。敵キャラクターに主人公のアドルをぶつけるような形で戦うのだが、うまくやらないとアドルがダメージを負って死んでしまうのだ。
ただ、『Ys』が「冒険家アドル・クリスティンの冒険記である」という設定を教えてくれたことは印象深く、「未知の世界の冒険を記した物」に心強く惹かれたことは覚えている。

この話を気に入った私に、伯父は2冊の本をくれた。
その1冊が『Ys』(の、恐らくは2作目と思われるが、どのバージョンにどう付属していたかは定かではない)の付録本であり、もう1冊が『MEREMANOID 〜マーメノイド〜』(人魚の村で暮らす、1人の人魚が主人公の作品。海中を舞台とした珍しいRPG)の付録本であった。
この2冊は絵本のようなイラストと文章から成っており、どちらも「このゲームは、こんな世界のこういう物語なんですよ」といった感じの、世界設定を物語調に紹介したものであった。

2022年5月25日:追記
ちっとも片づかない部屋の掃除をしていたところ、この伯父がくれた2冊が奇跡的に発掘されたため、ここに写真を載せておく。


特にこれといった説明もなくこの2冊を貰った私は、これがゲームの付録とは思わず、数年後に「いや、これゲームの本だわ」と気がつくまで、何か童話の絵本だと思っていた。

そう、絵本だと思っていたのだ。

『白雪姫』や『桃太郎』や『グレーテルとインガ』なんかと同じ童話の物語として認識し、それらと一緒に並べて読んだのが、ゲームの世界設定紹介本だったのだ。

何も知らない姪っ子になんて物を渡してくれたんだという気もするが、当時から私はこの2冊を気に入っていたため、相手の好みの物を渡すという意味では、この選択は間違っていなかったことになる。

この『Ys』の付録本の話が、伯父と遊んだゲームの『Ys』と同じものであることを、当時の私は気づかなかった。付録本の表紙には『Ys』と書かれてはいたが、このアルファベットを「イース」と読むとはわからなかったし、ドット絵のアドルと絵本のアドルの印象も、随分違った。だから気がつかなかったのだ。

だがこの『Ys』の付録本が、まさしく自分が心惹かれた「未知の世界の冒険を記した物」であり、私はこの付録本を何度も読み返した。

失われた古代王国イースの謎と、その跡地に漂流した冒険家、赤毛のアドル。可愛らしい水色髪の少女フィーナに、彼女によく似た吟遊詩人のレア。魔を呼び寄せる災いを持ったクレリアという金属、角のある怪しい男、いなくなった2柱の女神。そして牢屋の石壁を体ひとつでぶっ壊してアドルの脱獄を助けてくれるヤバい男、ドギ……。

未知の世界と冒険、魅力的な登場人物。アドルがいる『Ys』の世界には、私が好むものすべてが詰まっていた。
彼は私の憧れた世界そのものであり、決してこちらを振り返ることのない、遥か先を行く故人であった。

【アドル・クリスティンという男】

端的に説明すると、アドルという男は、冒険が病的に大好きで、やや無口なお人好しで、謎の不幸属性(彼が乗った船は、高確率で荒波にやられてしまう)を備えている、剣術に長けた冒険家である。

そう、彼はただの冒険家なのだ。

多くのRPGやアニメの主人公が「特別な存在」(伝説の勇者や王家の血を引いていたり、出生に特殊な事情があったり)であることが多い中、彼はただの冒険家、ただの一般人なのである。

私は、そのことが無性に嬉しかった。彼がただの人間で、それでも様々な冒険をし、魔王に匹敵する敵を倒して国を救ったり、困難を乗り越えてたりしているということが。

他作品の伝説の勇者が、血筋だけで魔王を倒せているわけではないことは、勿論わかっている。彼ら彼女らの努力や苦しみ、仲間たちの協力、偶然や幸運……様々な要素が絡んでの魔王打倒であることは間違いない。
だからこそ、そういった勇者のゲームをプレイした同級生の口から「主人公が魔王を倒せたのって、結局は勇者だから、特別な存在だからでしょ。普通の人にはできないんだよ」といった言葉が出てくる度、悔しさややるせなさがあった。
勇者の血筋だけではなく、勇者個人の尽力をもっとちゃんと見てほしい気持ちがあった。同時に、特別ではないからといって、「普通の人にはできない」と決めつけるのは早計に過ぎないかという不満もあった。

でも、アドルは普通の人間だった。

「勇者だから世界を救えたんでしょ、魔王も倒せたんでしょ。普通じゃないからできるんだよ」と言った人たちの言葉を覆す存在が、アドルと、相棒のドギや旅先で出会う仲間たちだった。

特別な人間にしかできない物語ではなく、その人だからできた物語を書きたいと思わせてくれたアドルのことを、私はこれから先も忘れないでいると思う。

【ところで、私は『Ys』のファンなのだろうか】

こんな記事を書いておいてあれなのだが、私は『Ys』シリーズのすべてをプレイしているわけではない。

プレイした作品もあるが、初めてプレイした1作目の『Ys』は、当時6歳だった上伯父の部屋にしかなかったためきちんとクリアはしておらず、後にリメイク版をクリアしたという状態であるし、小説版しか読んでいない作品もある。きちんと、すべてのアドルの冒険記を把握しているわけではないのだ。

子供の頃は財力もなかったし、自分のお金でゲームを買えるようになったのは、割と最近のとこだ。だがゆくゆくはすべての『Ys』を購入し、遊びたいと思っている。
今は(この記事を書いている時点ではシリーズ最新作、9作目である)Nintendo Switch版の『Ys IX』を購入し、ゆるゆるとプレイしている最中だ。困ったことに寄り道が楽し過ぎて、本編はちっとも進められないでいる。

最初の冒険をしていたアドルと比べると、『Ys IX』のアドルは幾分優男っぷりに磨きがかかり、時代の流れもあってか前よりよく喋るようになり、また剣技の腕前も上がっているように思える。
最初の冒険をしたときのアドルは17歳だったが、この最新作のアドルは24歳。様々な絵柄で描かれたアドル(『Ys』シリーズでは、それぞれの作品で絵師が異なる。そのためアドルや複数のシリーズに登場する仲間たちの顔つきや服装も、作品ごとに違ったものになる)は、しかし1つの軌跡を描いて成長しているようだ。

私にとってのきっかけが、時代に合わせて変化・成長を続けているのを見ると、ひどく喜ばしい気持ちと同時に、しゃんと背筋を正さねばならないような緊張を覚える。
彼の冒険記に負けないような小説を、私も作らなければならないのだ。それは勿論、彼には関係のない話なのだが。

【そして、この同人作家はキャラクターに振り回されている】

そんなわけで、私のきっかけについての話はこれでおしまいである。

大学で文章の勉強をするようになってから発覚したことだが、アドルを大好きなあまり、いつの間にか私には「自身が書いた小説に出てくる強い女キャラクターは、高確率で赤毛、及び赤に関する名前や属性を持つ」という呪いがかかっていた。
男キャラクターにその呪いが出ないのは、「強い赤毛の男=アドル」ということが明確に脳内にあり、彼以上の「強い赤毛の男キャラクター」を想像できないからだろう。
他の有名なゲーム、アニメ作品などにも強い赤毛の男キャラクターは存在しているが、どうしてもアドルより先には出てこない。個人的な思い入れも手伝って、彼の印象が強すぎるのだ。

あまり困ることはないが、油断すると赤系の強い女キャラクターがたくさん生み出されてしまうため、気をつけねばと思う次第である。

そして、キャラクターに重きを置いて創作を繰り返すうちに、テキストデータでしかなかった彼ら彼女らは勝手に走り回るようになり、私のいうことをちっとも聞いてくれなくなってしまった。
未完の尻切れ蜻蛉のような小説しか書けなかった初期の頃は、もう少しこちらの言い分を聞いてくれていた気がするのだが……初めて完結に漕ぎ着けた長編小説を書き始めた辺りから、完全に散歩で大型犬に振り回される小学生のような有り様になっている。何とも情けない作者だ。

でも、恐らくこれは私自身が願ったことなのだ。

肩書きや血筋ではなく、かけがえのない個人の物語を書こうとした結果、個人の厚みが増して勝手に動き回ってしまうようになっただけなのだ。

彼ら彼女らに振り回されつつも、私は変わらず小説を書き続けるだろう。

1人の冒険家の後ろ姿を思いながら。

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