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寺山修司論『液体と規則性』

『8 田園、廃木、そら豆』

    *

谷川によって行く手を阻まれた液体、寺山修司は、
1965年、
『空には本』『血と麦』に続くかれの第三作目にあたる
『田園に死す』を発表する。

寺山は極めて理知的な操作を行う技巧的な作家だが、
彼はここで大きな決断の崖を跳んでいる。
彼は近年温めていた二つのアイディアを
実践することに決めたのである。

ひとつはモダニストからの転向である。
会津藩とともに新政府軍と戦ったために
鹿児島から青森へと藩ごと移動された斗南藩藩士で

薩摩示現流師範の祖父を持つ寺山の中の血が
モダンなどという中途半端な刃では世界は切れないと、
そそのかすのである。

    *

寺山は、一挙に世界の最前線に躍り込むためには、
世界的潮流となるであろうラテンアメリカ文学は
日本の中でいかにしたら可能かということを探る。
この一点を突破すれば、<世界のテラヤマ>になれる。

そのために必要なものは、ごく身近にあった。
<血>と<地>が幾時代にも亘って蓄積されてきた
<土俗>の土地、青森である。
踏み台として世界に飛び立つには十分な深みを持つ場所恐山を、

モダニストの理知の衣装を脱いで、
前衛へと転向する更衣室として選択したのである。
もうひとつは自分が生きるための、

母との訣別であり、
姥捨てであり、
母を亡くすための心構えである。

    *

そもそも寺山が液体化した直接的な原因は、母である。
寺山は警察官の父を戦争で亡くし、
母親と二人で戦後を生き抜いてきた。
母は米軍関係の仕事にありつき、

雇い主の異動ともについていき、
子供は親戚に見てもらって九州に転勤した。
彼は母の歌を幾種類にも作ったが、
その歌が愛を揮発させていくかのように

そのたびに寺山は乾いていった。
愛は話すものであるのに、書いて送られるものとなったのである。
寺山が大学入学後も二人の別居は続き、

同居を始めようとしたときには、
すでに寺山は母親の子供である時期を過ぎて
愛を異性に見つけることとなり寺山の結婚によってできなくなった。

    *

母は同居の夢を破った新婚夫婦の家を探しあて、
雨戸に石を投げたりかつて着ていた寺山の服を燃やしたりして
意趣返しを行う。
この激情家の母に遠隔管理されることで

寺山は愛の基本形というものが
どういうものかということを知らないままで育ってしまった。
そして、自分の心の奇矯な姿に気づいた寺山は、
自分の心に愛というものがまだあるのかを詮索したのであるが、

その捜索は無駄に終わってしまった。
液体であるにも関わらず、
寺山の名前が世間に知られるようになるころにはもう

彼の中の愛の成分は揮発してしまっており、
残っているものは略奪と押収の修辞技法のみの
文学者となったのである。

    *

だから、寺山にとって母とは、
自らが液体となると同時に
解体されてそこに沈む船であり、
失われた虚無であり、確立された虚構であった。

彼にとっての疑問はただひとつ、
「それなのになぜ、母はまだ存在しているのか」という謎である。
しかし、恐山という畏怖すべき<異郷>をも
親愛なる<故郷>と見做すことで

存分に踏みにじる自由を謳歌した寺山は、
引き続いて自分は母を捨てることもでき、
自在に自立できることを確信する。

その唇から歌われたのが歌集『田園に死す』の冒頭の歌、
「大工町寺町米町仏町
 老母買う町あらずやつばめよ」である。

    *

住居建築のための大工町、
供養のための寺町、
生活を支える米町までは人の心を持つ者たちの領域であるが
米町に続いた仏町からはすでに母捨ての領域へと踏み込んでおり

それにつづく来たるべき町、
それは自らが王として君臨する神町にほかならない。
「大工町寺町米町仏町
 神町を統(す)ぶ母捨てのわれ」に辿りつく自信を礎として、

後進の地の故郷を
日本の魁として歌う日がやってくることの歓喜をこめて、
モダニスト寺山は自分の故郷を踏みにじる。

そのとき、田園に死す者とは、
捨てられて朽ちる
母その人だったのである。

    *

ところが、歌集からほぼ十年を隔てて
発表された映画『田園に死す』では、
事態はまったくの転倒を呈しているのだ。
冒頭、

歌集『田園に死す』に忠実すぎるために、
プロモーションビデオかと見まがうほどに、
原作を引用しながら出航するこの映画は、
恐山を舞台にして母親からの家出を図る

白塗りの顔の少年、もちろん、
まだ母を必要とする思春期にあり、
学生服を着て、学生帽をかぶり、

腰に手拭いを下げて
下駄を履き
陰毛の発毛を願い、

    *

包茎手術を夢想する
少年を中心に据え進行していく。
母捨ての自信に満ちた
歌集『田園に死す』に沿って

進んでいる映画は、
高い結納金で購入された嫁、
母親の専制のもとに生活する
隣家の息子の嫁とともに

駆け落ちするという
家出に成功したその直後、
40分を過ぎて、

まだエンドロールがでるまでに
1時間もあるという地点で
急激すぎる変更のために座礁する。

    *
いや、それは座礁というよりは、
そこからが、
映画『田園に死す』の始まりなのである。
線路を歩いていく二人の映像は、

それまでの緑色の靄を映していた
カラーフィルムから突如白黒フィルムへと変わり、
試写室での出来事となり、
ここまでの出来た

映画の部分を試写しているという場面になる。
いまや映画製作者となったかつての少年は、
現在制作中の映画が美しい虚構であったと告白して

母をおいての家出の引き留める者と出立したい者との
当然あるべき姥捨ての修羅場を作り直す。
なぜなら、現在、母は再び息子と同居する地位に復権しているからだ。

    *

母は殺されなければならない、
それは困難だ、
ならば、
「死んでください、おかあさん」と嘆願するが

切望が叶えられた母がそのような願いを聞き入れるはずがない。

母はどのように抹消可能かというのが、
映画『田園に死す』のメインテーマとなって浮上するが
そのための、しかし、

これはなんという代償を必要とする
率直な手続きだろうか。
母を抹消するためには箱船に積み込まれた
各種の超現実主義的イメージの具現化を

海へと放り込んで積荷を軽くして必要がある。
例えば、等身大よりも
数倍大きなサイズで描かれた人相見の絵。

    *

例えば、マクベスの魔女の再来かと思わせる
黒い眼帯と黒い角巻きをかぶって
烏のように連なって歩く東北の老女たち、
湖の横にある血の池でコントラバスを弾く男。

例えば、空気入れで膨らむサーカスの女、
一家が集まって遺影を磨いている室内にいる無益な牛、
間引かれた赤ん坊を追いかけて流れてくる
間引かれた雛祭りのための雛壇。

これらすべてを、
豪奢な無へとこぼしてしまうような賭けである。
そして、寺山修司はその賭けに勝った。

勝った? いや、負けたの間違いではないのか。

なぜなら、母を捨てる姥捨ての試みは失敗したのだから。
ところがそうではないのである。

    *

座礁して二つに割れてしまった箱舟から
流れ落ちていく豪奢なイマージュの宝財が、
ただ奇矯な東北の習俗と混交して、
<土俗>の逸話群を惜しみなく海へと戻すそのとき、

母を殺しに戻ったはずの私が、
「遅かったじゃないか。そと寒かったろう。お腹すいたか?」
「すぐに御飯にするからな」という
食事と日常への戻り込みになんの異議も唱えられないそのとき、

ただ黙々と新宿の雑踏を背景に、
そここそが田園である新宿の恐山で遅い帰宅を心配され、
黙ってさし向かいで食事を摂る彼が、

母親を前にして「愛を話す」ことができず、
ただ愛を話されるまま、
「愛を聞く」ことしかできない立場になっているそのとき、

    *

いくたびもの座礁と誘惑を払いのけながらたどりついた
冒険譚の終着点が、
成功裏に終わると楽観していた母売りに失敗して、
妻を持つことを放擲し、

母を背負ってこの東京で生きていかなければならないと
諦念に肩を落として畳の上に座っているそのとき、
寺山にとって<母という謎>は
<母という明晰な悪夢>に変更されて、

完敗に終わってしまったことがこれほど赤裸々に
高度の熱量を費やして証明するに終わってしまったそのとき、
物語が廃木となったそのとき、

寺山修司が敗北を受け入れたそのとき、
<母という明晰な悪夢>は
もう二度と対面されることがなくなり、

    *

畳の下に隠されたり、
もぐらたたきのように
どこからともなく自在の顔をのぞかせて、
息子の生活に侵入できる気体と化したのである。

液体である息子と、
気化した母親という構図が明確になった以上、
それは戯画として演劇の養分となり、
母も離婚した妻も、愛人たちも、死に至る病も

すべてを座に集めて再び寺山は
天井桟敷に茣蓙を敷いて鎮座することとなった。
田園に死すもの、つまりは都から遠く離れた故郷で

死ぬべき者の名前は、
歌集『田園に死す』では「母」であったものが
映画『田園に死す』では「子」であると書き直された。

    *

同時に田園もまた姥捨てに成功した「子」が
追ってこられないようにと、

念入りに埋め捨てたはずの「母」を顧みる
故郷であったものが

田圃に埋められたがゆえに増殖した赤い櫛のように
「母」の執着を豊饒させる土地として聖別され、
気化した「母」が大気の中に溶け込みながら
執着による混沌の濃度を増す書斎であると書き直される。

「母」への愛が
もはや
虚礼としての愛しか含んでいないことの痛切を

青空に向かって次のように歌っている。
「そら豆の殻いっせいに鳴る夕
 母につながるわれのソネット」(修司)

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