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■村上春樹 死者目録


(死は個体的に経験することができない。自分自身の死はわたしたちにとって常に想像上のものでしかありえない。想像上の動物が既知の動物の各部を寄せ集めて造形されるように、自分自身の死も見聞した死者たちの感情移動や身体変化を組み合わせて像として練り上げられる。わたしたちは死を学習するのだ。
 自分のものでない死を通じてわたしという個体に訪れる死を類推する。その場合、類推される個体の死は、範例とした他者の死と似通ってくる。その人にとっての死を測るには、どのような死を自らの死の手本として選択したか見ることで充分だ。)

 村上春樹『風の歌を聴け』の冒頭には、このような死の範例がいくつも提示されている。死者目録のページを1枚ずつめくっていくとしよう。
 まずは、デレク・ハートフィールドの死。1938年6月のある晴れた日曜日の朝、右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたままエンパイアステートビルの屋上から飛び降りて成就された死。彼が生きていたのと同様、死んだこともたいした話題とならなかったような死。人々がくつろぎのんびりとした日陽しを楽しんでいる日曜日の朝に決行された死。黙殺されたまま語られることもなく拡散霧消して文字通り死のように迎えられる死。匿名の死。
 僕にハートフィールドの本をくれた叔父の死。狡猾な猿のようにひどく赤茶けて縮んで迎える死。体中をずたずたに切り裂かれ、体の入口と出口にプラスチックのパイプを詰め込まれて苦しみ抜く癌の死。器官の代用物を喉と肛門に取り付けられて人体から物へと変容しながらたどり着いた死。最後に経過報告の肉体が露わになって遺される死。器物の死。
 もう一人の叔父の死。徴兵されて異国の上海の郊外で受け取った死。終戦の二日後に自分の埋めた地雷を踏んで始まる死。戦争反対の教訓も授けることなく散った過失の死。その使用方法も効用も書かれずじまいの死。活劇の死。
 肉親から追加される祖母の死。「暗い心を持つ者は暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない」が口癖の祖母の死。瞼をあけたままで生を裏返した死。暗がりの中で夢を見る訓練を重ねたために閉じられずいる眼を宿した老婆の死。舗道に落ちた夏の通り雨のように静かに消え去る夢を抱き続けた老婆を清算する死。蒸留の死。
 僕の寝た三人目の女の子の死。テニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林で首を吊って得た死。まるまる二週間風に吹かれてぶら下がって持続する死。僕のペニスのことを「あなたのレーゾン・デートゥル」と呼ぶ女の子の死。僕の目からは降り注ぐティッシュ・ペーパーのように見える天の啓示を受けるために入った大学の裏庭で執り行われた死。全体を俯瞰して要約するには近くにいすぎた者に対して、生前の説明を要求する死。未完の死。

 どの死を見てもそれが抜き差しならならないところまで周囲を巻き込んでいくという状態にはならない。軽く力を入れたために折れるマッチ軸のように死んでいく、それも一本ずつ。物わかりがよく、行儀もよく、物腰も静かな死者ばかりだ。これらの範例はどのような死を村上春樹に植えているか。
 そうだね、死んでいくね一人ずつ。これらの人々が死ぬのだから、きっと僕も死ぬのだろう。でも人が死んで、その分だけが余白になってしまって世界が困惑するということはないね。たぶん僕が死ぬときにも誰かが僕にこう囁いてくれると思う。「春樹、実はこれは何事でもないんだよ。人が死ぬなんてよくある事だし、こんなことくらいで取り乱していたのでは、世界は三匹のムカデがツイストを踊るときより混乱してしまう。そうだろう?」僕が息を引き取ったその直後にはきっとこんな具合だ。「いや、別に何事もなかったんだからみんなは元の場所に戻ってくれ。ただここに1つ亡骸が増えただけなんだから。燃やせばどうってことないんだから。そうだろう? 生まれてくる理由のなかったものが生まれてきて、ちょっと長居をしただけなんだから。覚えておきたい者は覚えておいてくれ。泣きたい者は勿論そうしてくれ。それは全く気兼ねのいらないことなんだから。」
 しかしこれはあまりにも生きている者に対して冷淡すぎる。逆に言えば、死者を優遇しすぎている。人は死ぬのだから結果として人はみんな死者にならなければならない。それならばむしろ死者の方が存在形態としては正しいのではないか。むしろ生きているものこそ未完成の死者として遇されるべきではないのか。村上春樹の思想の基本形はこのような疑問で形成されている。だが、彼の思想の特異な点は、だからこそ僕たちは個体を解体すべきだと性急な結論を下さないところにある。個体からはみ出さず、じっとそのなかに留まるべきだというのだ。その思想学習の場面を覗かせてもらおう。

    *

「何故人は死ぬの?」
「進化しているからさ。個体は進化のエネルギーに耐えることができないから世代交代する。もちろん、これは一つの説にすぎないけどね。」
「今でも進化してるの?」
「少しずつね。」
「なぜ進化するの?」
「それにもいろんな意見がある。ただ確実なことは宇宙が進化しているってことなんだ。そこになんらかの方向性や意志が介在しているかどうかってことは別にしても宇宙は進化してるし、結局のところ僕たちはその一部にすぎないんだ。」僕はウィスキー・グラスを置いて煙草に火を点けた。
「そのエネルギーが何処から来ているのか誰にもわからない。」

    *

 生徒である僕のガールフレンドは懐疑的にいいところを衝いてくる。僕は先生の立場にありながら、死=人類進化原因説はひとつの説にすぎないとはやばや逃げの手を打つ。また保留条項をつけて宇宙進化説へと原因をより大きなところへもっていこうとする。しかし肝心のエネルギーの出所は不明だという。原因を突き詰めていくほど根拠が薄弱になっていくのだ。彼女はこの説明に満足できない。「そう?」と念を押す彼女と「そう。」と断言する僕。彼女は自分の疑問が解消される気配がないのに気付く。問題が普遍的なものから等身大のものへと還元されて僕にぶつけられる。

    *

「ねえ、私が死んで百年もたてば、誰も私の存在なんか覚えてないわね。」
「だろうね。」と僕は言った。

    *

 またしても百年の孤独だ、と嘆息すべきだろうか。彼女が生存したという事実はまず彼女の死によって大半破壊され、彼女の生存を記憶する人々の死によって跡形もなく撤去されてしまう。このような個体の悲しみは、類の概念を背後に添わせることで薄められる。
 しかし、村上春樹の世界では、個体は個体の中にいることで充足しなければならない。個体は悲しみを一人で背負うことが義務付けられる。この義務の神聖さゆえに個体は自分の領域を不可侵な聖域として保持することが許される。
 個体とは楕円だ。それは個と類の二つの記憶を中心として位置させている楕円だ。村上春樹がやろうとしているのは、この楕円から類の方の中心点を取り除くことだ。そうすれば個体として完結できる円になる。ではどうすればいいか。類の概念が幻想だと示す必要がある。時間の取り方が違うだけだという必要がある。ハートフィールドの作品として引用されている「火星の井戸」がそれにあたる。

    *
風の匂い、太陽・・・・・・太陽は中空にありながら、まるで夕日のようにオレンジ色の巨大な塊りと化していたのだ。
「あと25万年で太陽は爆発するよ。パチン・・・・・・offさ。25万年。大した時間じゃないがね。」
 
    *

 個体の時間は経験的に百年と想定されることが標準となっている。これに対して、類の時間は伸び放題に伸び、ほとんど永遠の近似値となりかかっている。しかしその思考方法はあまりに楽観的に過ぎるだろうと村上春樹は釘をさす。
 人類にしたところでたかだか地球という惑星上の動物にすぎない。太陽が滅べば人類も滅びる。太陽の存亡と人類の栄華とは平行線をたどっていくのだ。だから、個体の時間が限られているように、人類の持ち時間も決まっているはずだ。つまり、いずれにせよ僕たちは滅びるのだ。滅びる者ならば滅びる者らしく、僕たちは少なくともお互いの領域だけは尊重しあうべきだし、不干渉のままでいるべきだ。
 村上春樹がわたしたちの目に倫理的な作家として映るのは、このような事情による。この倫理を押し詰めていくと理想郷は、『1973年のピンボール』に描かれる金星人の生活態度になるだろう。

    *

金星は雲に覆われた暑い星だ。暑さと湿気のために住民の大半は若死にする。三十年も生きれば伝説になるほどだ。そしてその分だけ彼らの心は愛に富んでいる。全ての金星人は全ての金星人を愛している。彼らは他人を憎まないし、うらやまないし、軽蔑しない。悪口も言わない。殺人も争いもない。あるのは愛情と思いやりだけだ。

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 一望のもとに置かれた個体の時間は、金星人たちを極めて倫理的にする。地球人が百年生きるように縮尺して三十年生きるのではない。彼らの時間はあくまで中断された時間として捉えられている。
 倫理が確かに過剰を節度あるものに保つには有効だろう。憎まない、うらやまない、軽蔑しない、悪口を言わない。これらのことは鍛錬できるかもしれない。だが、だからといって、そのことが思いやりと愛情になるには、別の何かが必要に思える。僕は金星人にその点を質問する。

    *

 「たとえ今日誰が死んだとしても僕たちは悲しまない。」金星生まれの物静かな男はそういった。「僕たちはその分だけ生きているうちに愛しておくのさ。後で後悔しないようにね。」「先取りして愛しておくってわけだね?」「君たちの使う言葉はよくわからないな。」と彼は首をふった。本当にそううまくいくのかい?」と僕は訊ねてみた。
「そうでもしなければ、」と彼は言った。「金星は悲しみで埋まってしまう。」

    *

 寿命の短さをそれとして甘受することは、できるようになるだろう。悲嘆を遠ざける方法として、しかし、愛情を発生するだろうか。かりに金星人にはそれが可能だとしよう。明白な死を覆い込むのに必要な悲しみと同量以上の愛情が可能だとしよう。地球人の僕はそれを先取りして愛しておくと表現するが、金星人は理解できないと退ける。その事情を、僕の表現の不正確さに由来しているということはできる。金星人にとっては先取りと言うように意識しないよう、晩年感覚がすでに作動しているからなのだと理解することができるから。
 では、地球上ではこの愛情と呼ばれる代物はどのようなものになるのだろうか。わたしたちがそれを地球に移植しようとするならば、それは視線としての愛情としか育成できないのではないだろうか。生きるという進行方向がすべて死ぬという終着を指しているのでしかないのなら、生きている者を見つめることは死に漸近していく無謀な試みを正視することにほかならない。
 目を背けても背けても視界に入ってくるのがそのような粗暴な運命を辿る者たちである以上、視線は慈しみを帯びていくだろう。ただ同時に、視線の無力にも立ち会わなければならない。個体の聖域を侵犯することができないとするならば、その事態を避けることはできない。ではどうすればいいのか。個体の聖域尊重と視線の無力の狭間で、方法なく立ちすくむよりほかにないのか。村上春樹はそうだと言う。耐えるよりほかにないのだと言う。だから彼はどのように耐えるかを題名としたのだ。風の歌を聴け、ただ風の歌を聴け、そのようにして僕たちの危機を乗り越えよ、と。

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