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『晩年感覚』村上春樹、復唱するドゥーブル(2/2)

障害児が生まれてくること題材とした
大江健三郎『個人的な体験』は、
「あなた-わたし」の勢力争いの中で
常にわたしを先行させてきた作家を
改めて問題のなかに突き落とした。

主人公の名前は、鳥<バード>。
鳥類は子供を背負って飛んだりはしないだろう。
飛ぶことが生きることであるというならば、
鳥類は一匹で生きる現在であるということもできる。

しかし鳥が鳥として生きるには
類として鳥のなかにいなければならない。

類のなかの個としてはじめて、
生きる形も可塑的なものでありうる。

だがまた、
類のなかに係累をもつとなれば話は変わってくる。
鳥<バード>はこう自問しなければならない地点を
旋回しなければならなくなった。

     *

しかし、かれが現実にアフリカの土地を踏み、濃いサングラスをかけてアフリカの空を見あげる日はおとずれるのだろうか? むしろおれは、この瞬間にもアフリカへ出発する可能性を決定的に失いつつあるのではないのか? すなわち、おれは、いま、自分の青春の唯一で最後の目ざましい緊張に満ちた機会に、やむなく別れを告げつつあるではないか?

     *

この自問は
断念の悔しさとともに閉じられるのだが、
それは被害を甘受する姿勢が
そのまま唇を噛ませただけのことだ。

とにかく、鳥<バード>は
二つの選択肢から一つを選びとらなければならない。
自分か赤ん坊のどちらかを。
そして彼は次のような意見で両方を生かすことを考える。

     *

「それはぼく自身のためだ。ぼくが逃げまわりつづける男であることを止めるためだ」

     *

自分という選択肢を選ぶことで、
自分と自分の子供の両方を救い出そうというのだ。

この子供は鳥<バード>という渾名を捨てさせ、
僕をわたしたちのなかのひとりへと連れ戻す。
鳥は自らの土地を空から地へと転移し、
地を歩む鳥として生きようとする。

鳥は人になる。
その歩行はぎこちない。

その不能性を補うかのようにドゥーブルが発生する。
そしてかれは、
熱い湯麺に上気した顔を風にさらして
自転車を漕ぎ帰りながら、
―イーヨー、
 排骨湯麺とペプシ・コーラ? と繰り返し問いかけ、
―イーヨー、
 排骨湯麺とペプシ・コーラおいしかった! 
と息子が答えると、
親子のあいだに完全なコミュニケーションが
おこなわれたと考えて幸福になる。

『父よ、あなたはどこへ行くのか?』と、
この小説は題づけられている。

もしわたしたちがこれを
問いとして受けとるならば、
ドゥーブルの鏡の間へとだ、と
答えることになるだろう。

この器官的な反復が、
大江健三郎のドゥーブルのもつ特徴だ。

あるときそれは
テープレコーダーから
鳥の声とその声の主をつぶやく
ドゥーブルの形をとるかもしれない。

あるときそれは
単に音声的な反復から、
身体反応の無意識的な模倣の
形をとるかもしれない。

どのような形をとろうとも
ドゥーブルは衰退とともにやってくる。

そうして僕が衰退の危機を乗り切るのを
最後まで見送って去っていく。

ドゥーブルの登場と退場だけに
視点を集めるならば
村上春樹は
『1973年のピンボール』の一作でそれを終了し、
大江健三郎は
『新しい人よ眼覚めよ』で
華々しくドゥーブルを
引退させたと理解することができる。

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