見出し画像

なぜエンタメを用いた死生観をカルチャーにする取り組みを行おうと思ったのか

なぜ

エンタメを用いた死生観をカルチャーにする取り組みを行おうと思ったのか。そのきっかけと経緯を綴っていきたいと思います。ちなみに、表紙の写真は新学社文庫の「枕草子・徒然草」の表紙です。


-----------------------------------------------------------------------------

死生観と聞くとどんなイメージがありますか。

悲しいこと、辛いこと、宗教関連なのではないか、怪しいのではないか、など沢山の意見があると思います。色々な意見があり、多様性があることは素晴らしいことです。是非その感覚を大切にして頂きたいと思います。一方で、死生観って何??死生観を持つってどういうこと??と興味を持って頂けると、我々としては少し嬉しいです。

何故死生観に関する取り組みをしたいと思ったのか

スクリーンショット 2021-12-05 16.43.46

きっかけは私の仕事でした。私の仕事は医師です。当時は田舎にある総合病院で内科医をやっていました。地域医療での内科の若手時代は、専門科としての役割以外に、救急外来における受診対応を担う場合が多くあります。例に漏れず私もそこで救急外来の医師としての役割を担っていました。救急外来という場は、軽傷者から重傷者まで多種多様な人々が沢山訪れます。
いつものように救急外来の当番として夜間対応し、仮眠をとっている時でした。夜も明けてくる時間、高齢者の心肺停止状態のかたが運ばれてくるという救急連絡がきました。患者はもともと、認知機能が低下し、日常動作には全て介助を要するような状態で、施設に入所中でした。連絡から10分後、患者は心肺停止状態で到着しました。救命隊が心肺蘇生行為を行なっています。我々も引き続き心肺蘇生行為を続けます。家族が到着したため、蘇生行為の継続について、本人の希望があったか確認しました。すると、長女が「死ぬとは思っていなかった、びっくりしている。どうしたらいいかわからない。とりあえず蘇生行為をして欲しい」と返答しました。長男は「本人は自然な形で最期を迎えることを希望していた、痛みが少ないようにして欲しい」と発言しました。死に直面していて生前に明確な意思表示がない場合にどうするか。こういった場合、本人は主張ができないため、本人の人格や人生観、今までの主張を参考にして、周囲の人が意思の推定を行い、意思決定を行うべきと言われています。大切なことは近しい人や家族がどういった希望がある、ではなく、本人ならば何を望んでいるか想像し決定するという点です。話し合いの末に、この高齢者は、長女の意見に促される形で心肺蘇生行為を継続することになりました。


また別の日に、

難病で延命治療を行うか否かの意思決定の支援をさせていただく機会がありました。その人は、「自分はこういう人間だ、だからこのような形で最期を迎えたい」と出会ってから半年程度で伝えてくださいました。最終的にその方は、自分らしい意思の決定を行なって最期を迎えることができました。周りには沢山の人がいました。また別の日、同じような難病で戦っている別のかたと延命治療を行うか否かの意思決定の支援をさせていただく機会がありました。この人は、生や死について考えてくることがあまりない様子でした。最終的には自分で意思の決定ができず成り行きでの対応となってしまいました。そして、最期は色々と問題が巻き起こり、1人になってしまいました。


さらに別の日に

20代のかたが外来を受診しました。様々な訴えがありましたが最終的には、「自分にとって何が楽しいのか、何をしたいのかどうやって生きていったらいいのか分からない。就職活動中なのだけども」と言って泣いていました。

これらの経験から、

全ての世代において(非高齢者、高齢者、死が予期されてる人など)死や生に対して、考えていく足場が不足していることに強い問題意識を感じました。この足場がないことが重要な意思決定を納得いく形で果す阻害要因となっているのではないか、もし足場が増え強くなることで、人生で重要な場面や死に直面した時に自分らしい判断を下す可能性が上がるのではないか、と考えるようになりました。それ以後、自分の内科の外来で、もしもの時(死に直面した時)、どう意思表示をしたいかということを地道に伺っていく活動を行っています。毎週行なっている外来で数人ずつ地道にやっていきました。しかし、これまで話したようなエピソードは簡単には減っていきません。現場で地道にやっていく以外に、何かできないか。

そもそも、

死のことや人生のことを考えること、話すことはハードルが高く、楽しいという印象がないことがヒアリングの結果わかってきました。加えて、「死生観」という言葉が、「死」のことだけを考えるものだという誤った認識があること、そもそも死生観や人生観の知識が不足している(私自身もまだまだ未熟ですが)こともわかってきました。知識を知らない間に醸成し、話すことが楽しくなるにはどうしたらいいか。模索していくと、ジェンダーや性教育の活動を参考にして、何らかのエンターテイメントの力を使ってやるといいのではないかという結論に行き着きました。

そう思った私はいくつかの企業へ声をかけたり、同僚と病院をあげて何かできないか挑戦しました。しかしこれも上手くいきませんでした。試行錯誤の過程で、チームで協力し問題を考え、エンタメを立案し、より多くの人に伝え考えてもらうことができれば問題が解決に近づくかもしれないという想いが強くなっていきました。

そのように模索する中で私は、

IHLヘルスケアリーダーシップ研究会に参加し、現在のメンバーに出会うことができました。

以上のことから、

スクリーンショット 2021-12-05 16.50.27

私はエンターテイメントを使って死や生に対する足場作りの活動をしたいと考えて、現在チームで取り組んでいます。幸せなことに、私以外のメンバーは自分の志に共感してくれています。そして、それ以上に各々の中にそれぞれの志の炎が灯っていて、私も彼らの志に共感しています。各個人の志に多少の違いはありますが、死生観をカルチャーにしたいという想いは同じです。我々はまだまだ道半ばです。この活動を通じてメンバーや皆さんと一緒に死生観について理解を深め、死生観をカルチャーにする一翼を担えたらと思っています。

-----------------------------------------------------------------------------

【追記】

*死生観
生きることと死ぬことに対する考え方、または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのこと。

*救急外来
通常の対応では間に合わない病態に対応するため、医療機関に設けられている外来です。本来的な意味合いとしては、明日までに命に危険がかかるような状態、その日中の医療的な介入を要する状態に対する緊急処置の場所ですが、非医療者では判断が難しい場合があり、軽傷者から重傷者まで多種多様な人々が受診します。夜間救急外来では、医療者が当直し業務にあたります。

*「心肺停止」
心臓も呼吸も停止して意識が消失、死が目前に迫っている状態のことを指します。人間の脳は心臓が停止して血液が流れなくなると、4~5分で回復不可能な障害を受けると言われています。

*心肺蘇生行為
心肺蘇生とは心臓マッサージ、人工呼吸、心臓に対する電気ショック、心拍再開のための薬剤投与を行うことです。

*エンターテイメントentertainment
人々を楽しませる娯楽やサービスのことです。ショー、楽しみ、息抜き、気分転換など。

*エピソードを通じて
心肺蘇生行為を行うことが悪い、周りに人がいるといいけど1人だから悲しい、生きがいがないといけないとか、そういった主張をしたいのではありません。具体例は匿名化し、一部改変してあります。

*表紙の写真
写真は新学社文庫の「枕草子・徒然草」の表紙を自分で撮影したものを使わせていただいております。無常観などを通じて、死生観について考えさせてもらえる書物と思って使わせて頂きました。

スクリーンショット 2021-12-08 6.12.15


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?