ep13 バス停のあの人

ケンタは部活を引退してから、暇を持て余していた。学校は四時には終わる。急いで変えれば五時頃には家につく。着いたってなんにもやることはない。もちろん宿題はあるのだけど、やる気になんてならない。おまけに夕方のバスはけっこう混み合っていて、ぎゅうぎゅうのバスで帰るのも嫌だった。

引退して数週間してから、五時頃に近くのターミナルが始発の空いているバスが来ることを知った。それからケンタは放課後、しばらく教室に残るのが日課になった。

漫画を読んだり、スマを見たり、たまに用事の無いサッカー部の友だちとしゃべったり。バス停まで一緒に帰るやつがいることもある。窓から見えるクスノキの緑が、きらきらと輝くように勢いを増していく初夏だ。

その日はたまたま残れるやつが誰もいなくて、ケンタは一人でバス停まで歩いた。昨日の雨がやってくる夏を押し戻して、川を渡る歩道橋を横切る風が涼しい。駅前のバス停につくと、腰の高さほどの植え込みに座る見知った顔があった。西洋台高校とは違う制服。中学まで一緒だった森さんだ。

あ、と思った顔を見つかったのか、森さんがこちらに手をふってくれた。小学校も違うし、同じクラスになったこともなくて仲がよかったわけではないから緊張したけれど、ここで無視しては感じが悪い。ケンタは笑顔で手を振り替えして、森さんの近くに腰掛けた。

「久しぶり。」
「うん、久しぶり。」
「ケンタくん、西高だっけ?」
「うん。」
「頭よかったもんね。」

森さんが自分を知っていることにケンタは驚いたし、頭がいいと言われても「まあね」というわけにもいかず、返事に困った。

「森さん、高校どこだっけ?」
「中央商業だよ。電車で通ってるの。」

中央商業高校は、隣の市にある。公立の商業高校で就職率がいいから、少し遠くから通う生徒も多い。真面目な西洋台高校とは違って校風も自由だ。森さんも髪を明るい茶色に染めて、短いスカートから白い腿が伸びている。ぱっちりとした目でいつも眠そうな顔をしている森さんは、中学の時からちょっと近寄りがたい感じがあった。3年のSさんと付き合ってるとか、大学生の彼氏がいるとか、男の噂がいっぱい。ケンタは、自分よりだいぶ進んでいるんだろうな、なんてことを考えてしまう自分が恥ずかしかった。

森さんはぼーっとして、どこを見ているかわからない。こういう時は、何か話をするべきなんだろうか。

「何してたの?」
「いや、別に。部活引退して暇でさ。空いてるバスが来るからそれまで学校で待ってた。森さんは?」
「私は電車がこの時間だから。けっこう遠いんだ。」
「そうなんだ、大変だね。」

体一つ分の隙間をからかうように風が通り抜けていく。ケンタの視界の端で、スカートの裾がひらりと揺れる。

バスがやってきて、救いとばかりにケンタは立ち上がって乗り込んだ。森さんはニュータウンのもう少し先の古い町に住んでいる。このバスはニュータウン止まりじゃなくて先まで行くから、森さんも同じバスだ。二人がけの席がいくつか開いていて、ケンタは後ろの方の席に座った。ほっとしたのもつかの間、森さんは静かに、ケンタの隣に座った。

バスの座席は狭い。女の子とこんな距離で時間を過ごしたことがないケンタは、バスに乗っている間も緊張しっぱなしだった。万が一手が触れて嫌われたらどうしようとか、エロいやつだと思われたらどうしようとか、そんなことばかりで、会話の内容がちっとも頭に入ってこない。

それでもバスが道ノ尾の峠を超えて、長い坂をくだる頃には、さすがに落ち着きを取り戻してきた。それどころか、わざわざ隣に座るということは、ひょっとして気があるんじゃないか?なんて下心もむくむく湧き上がってきて、今度は冷静さを装うのに大変だった。

「ケンタくん、大学行くの?」
「うん、そのつもり。」
「長大?」
「いや、できたら福岡に行きたいな。一人暮らししたい。」
「そうか、いいなあ。」
「森さんは?」
「私は就職かな。専門とか行きたいけど。」
「専門?なんかやりたいことあるの?」
「うん、美容師。」
「へー、そうなんだ。」

なんてバカみたいな返事だろう。でもそれがケンタの精一杯。美容師という職業は知っていても、美容師という職業になるということがどんなことか、ケンタにはまるでわからない。

給料はそんなに高くなさそうだな、土日も仕事なのかな。大変だな。そんな素朴で世間知らずなケンタの感想。でもそれは美容師になりたいと言っている森さんだって同じことで、彼女だって単純に夢見ているだけなのかもしれない。つまり彼らは同じ会話の中で、まるで別のものを見ているのかもしれなかった。

「でも、いいかもね。森さんおしゃれだし。」
「そう?嬉しい。」

森さんが好意的なリアクションを返すたび、ケンタは少しずつ自信を付けていった。これはひょっとしたら本当に、仲が進展することだってあるのかもしれない。

「中学の友達誰もいないからさ、嬉しかった。また会えたらいいな。」

そんな言葉もケンタを勇気づける。バスが国道を右に折れて、ニュータウンの入り口に差し掛かった。

「あ、俺ここだ。」
「ああ、ごめん。」

立ち上がるときに、肩と肩がふれた。バスを降りたケンタは、数十分前とはまるで違う自信のある顔で振り返った。森さんは相変わらずちょっと眠そうな顔で、笑って手を振っている。

バスを降りてから、ケンタは連絡先を聞かなかったことに気づいた。でも同じ時間のバスに乗れば、きっとまた会えるだろう。そんな希望的な予測は見事に裏切られた。

ケンタは何度も同じ時間のバスに乗ったり、ちょっと時間をずらしたりもしてみたけれど、結局高校を卒業するまでまた森さんに会うことはなかった。

森さんが結婚したという話を聞いたのは高校を卒業して2年後、成人式の時だ。相手は中学の3つ上の先輩。高校生の頃から付き合っていたらしい。今更ながらに当時の自分を思い出して、ケンタは恥ずかしくなった。

あの時帰りのバスで連絡先を聞いていれば、何かが違ったかな。どんな未来があったかな。意味の無い「もしも」が時々浮かんできたりする。
そんな自分をケンタは恥ずかしく思ったこともあったけれど、最近はむしろ、どこか懐かしくて愛おしい。

ケンタは福岡の大学を卒業して、そのまま福岡の企業に就職した。両親はニュータウンの家を売って、もう少し便のいい場所にマンションを買った。ケンタがニュータウン経由のバスに乗ることは、この先多分もう無いだろう。

森さんだってもうバスに乗ることはきっとないだろうけど、ケンタは駅前のバス停を車で通りがかるたびに、なんとなく探してしまう。白いポロシャツに、チェックのスカートをはいた森さんと、体一つぶん間をあけて、眉毛を細く整えて制服のズボンを腰まで下げた自分。その二人が目も合わせずに、緊張したまま話す姿を。



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