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台風

健一はテレビのニュースで、九州に接近する台風の情報を見ていた。台風の進路を予測する天気図に、記憶が呼び起こされる。彼が育った鳴海ニュータウンの、台風の夜。

内海に面した鳴海ニュータウンは気候も穏やかな町だったけれど、台風の夜となると話は別だ。90年代のうちは、台風が来るたびに短い停電も起こった。

その日も朝から強い風と雨が窓を叩きつけていた。学校は臨時休校。手持ち無沙汰に兄と遊んでいた午後、突然ぷつりと電気が消えた。健一の家は薄暗い闇に包まれ、兄弟たちは声を上げた。ギャーギャー騒ぐ子供たちを母親が宥めるあいだに、父が大きなろうそくを持ってきて、懐中電灯を点けた。ふわりと灯るろうそくの光が、部屋を暖かく照らし出した。

「お母さん、怖い」と弟が言うと、母親は優しく微笑みながら「大丈夫大丈夫、そのうちつくからね」と励ました。その言葉に、内心不安だった健一も少し安心した。

父親が「じゃあ、みんなで遊ぶか」と提案し、兄弟たちは喜んで集まった。「勉強しなさい」が口癖の父がそんなことを言うのは珍しかった。家族全員がリビングの真ん中に座り、トランプや影絵遊びを始めた。普段なら怒られるようなことも、この夜は特別な許しが出て、兄弟たちは大はしゃぎだった。

夜になると、外の風雨の音がますます強くなっていった。でも家の中は不思議と暖かく、幸せな空気に包まれていた。健一はその光景を思い出しながら、少しだけ目頭が熱くなるのを感じた。あの頃の自分たちは、不安と興奮が入り混じった停電の夜を楽しんでいた。それを楽しめていたのは、父と母の心づかいあってのことだということに、今になって気付かされる。

母親の膝の上で弟がうとうととし始めると、父親は静かに「そろそろ寝るか」と言った。兄弟たちは名残惜しそうに遊びを終え、それぞれの寝床に向かった。健一も布団に入り、懐中電灯が照らす天井を見つめながら、安心して眠りについた。

健一は台風の夜を思い出しながら、自分の子供たちにも同じような思い出を作ってあげられるだろうかと思った。安心感、幸福。自分にそれができるだろうか。わからないこともいっぱいある。どうしようもないこともいっぱいある。でも子供たちといっしょにに笑っていると、不思議と不安は霧消していく。

もしかしたらあの夜の父と母も、今の自分と同じように不安で、子供たちを励ます言葉は、自分たちにも向けられていたのかもしれない。そう思うと健一は、いじらしいような、恥ずかしいような、でも嬉しいような、そんな何かが体中に広がっていく気がした。

テレビのニュースは相変わらず台風の情報を伝えていた。健一は両親に「台風気をつけて」とメッセージを送ると、テレビを消して子供達が眠る寝室へ向かった。

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