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お金は、私が社会的に生きることを許可するためのもの

舞台でお世話になった方や友人知人から、食べ物をいただく。

有機の季節野菜や、毎年恒例でくださる筍や、酵母のジュース。米は実家がいつでも送ってくれるので困らないし、なんなら普段の生活より食卓は豪華なのではないだろうか。
応援の意味がこもっていることが、とても伝わる。
だいたい、高級なお肉よりも、季節の野菜って生命力に直結している。なんで春のものって、あんなにエネルギー高いんだろうか。とりあえず野菜があれば、生命力は維持できる。栄養以上に、生命力。これほんと大事。

その他の食品は生活クラブで注文している。
だから緊急事態宣言が出てから初めてスーパーに行ったのが昨日で、レジにビニールの区切りができていたり、整列の位置のシールが貼ってあったりするのに驚いた。でも田舎だし、駅からも遠くて駐車場も小さいうちの近所のスーパーは相変わらずのんびり。ほっとした。

そんなわけで、自粛生活はお金を使わない。電車代もかからないし、外食もしない。ふらっと寄れる本屋や雑貨屋がやっていないのはさみしいけれど、そんなわけでなんとなくの買い物も一切ない。コンビニも全然寄らない。そういえばお酒を飲みたいという気持ちにもあまりならない。そうすると、財布を出す日が一週間に一度くらいなんですね。びっくり。昨日のスーパーは、どうしても生姜とニンニクがほしくて買いに行っただけだし。

こう考えると、今心配しているお金って、全部形のないものばかり。
家賃・電話代・電気代・ガス代・水道代・通信費・保険料などなど、銀行からそのまま引き落とされて消えて、見えないものばかり。
そう考えると、お金って、「私を生かすもの」よりも、「私が社会的に生きることを許可するためのもの」のために、ほぼほぼ支払われるのだな。
私が欲しいもののためにじゃなく、私がここで生活することを許されるために、実際のお金を目にしないまま、口座から口座へと消えていく、実態のないお金。

なんだか、そんなことのために一喜一憂するのはあまりにもくだらない。

一人10万円給付されるらしいとか、自営業者は100万円かもとか、融資の連絡は全くこないとか、一応気にしてるけど、どうにも現実感がない。
今私は野菜を下処理して日持ちのするお惣菜を作って、一個も無駄にしないことに精一杯で、食べる優先順位を考えてるくらいでお腹をすかせている日は1日もなく、寒さに震えることもない。自由に使えるお金はほとんど手元にないのだけれど、そもそも趣味程度の買い物を自由にできる場所はもはや開いていないのだ。医療従事者のように命の危機に晒されているわけでもない。

恵まれているのだから我慢しようとか思っているのではないのだけれど、そのことに気づいて、あれれ?と力が抜けた。なんだかんだ社会生活に翻弄されているのだな、と思った春野菜まみれの1日。

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