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マルセルと人の善性

最近、ちょっと嬉しいことが続いていた。
本が読めるようになった。感動する映画で泣けるようになった。夜に押し寄せてくる不安からくる不眠症に、自分で見つけた漢方で対処できるようになった。家族の代わりに一晩だけ、ご飯を作った。メキシコの料理、Carnitas(カル二タス、豚ロースを長時間煮込んだ料理)が作れるようになった。父親が美味しい美味しいと言って、私の分まで食べた。

そして私は全部に「感謝」した。

上記の商品の受け売りではないが、「感謝ノート」または「自分を褒めるノート」を書くことは、精神疾患からのリハビリに実際に用いられる手法だ。私はノートとまではいかないが、毎晩スマホに1,2行感謝の言葉を記すようにしている。そうすると魔法にかかったかのように、「今日一日過ごせて良かったな」と安心でき、眠気が私を誘ってくれる。

私が1月に「適応障害」と診断されてから、もう少しで半年が経とうとしている。私はもう4ヶ月以上働いていないし、それでも7月からまた、新しい職場を自力で見つけ、働き始めようとしている。つい先日、私の親友からもらった「どう?働けそう?」という一言がとても嬉しかった。社会復帰を心配する親にも同じ言葉を貰っていた。「あんた戻れるの?」
だけどきっと、答えはYESだ。症状も寛解状態ではあるし、十分私は休み、そして人から生きていく喜びを貰ってきた。

そして今日、少し書こうと思うのは、人の善性がどれだけ人を救うかについてだ。

少し前から個人的に人の善意がもたらす経験を重ねてから、いつか書こういつ書こうと思っていのだが、今日まさにその瞬間が訪れた、そう思った。2年も前に、メキシコ行きの飛行機でPVを観た時から気になっていた「マルセル 靴を履いた小さな貝("Marcell the shell with shoes on")」を鑑賞してしまったのだ。

始めに声を大にして言うが、「人生に絶望している人」、「生きる意味が分からない人」、「自分の為に生きられない人」がいたのなら、全力でこの映画をお勧めしたい。孤独や悲しみとどう向き合うか、どう人とつながるか、何を頼りに生きていくのか、そのヒントが全編を通して散りばめられている。

冒頭に私は「映画を観て泣けるようになった」と記したが、つい最近まで私は、世の中の全ての事象に感情を通さない薄い膜が張ったようで、心が通常より動かなくなっていたことと、悲しい話や経験をしてしまうと感情が一気に悲しい方向に引っ張られることから、映画は全く観ることができなかった。だが2週間ほど前から、堰を切ったように、猛烈に映画を観たいという感情と、泣いてみたいという感情が湧き上がった。実際、2月以降笑うことはあっても、ほぼ泣くことはなかった。

それでも、人間の再生システムは不思議だ。
それが嘘のように回復していくのだから。
そんな訳で、この映画の後半40分間ずっと、馬鹿みたいに泣いていた。
寸でのところで嗚咽が漏れそうなほど泣き、間違いなく「人生で一番泣いた映画」になってしまった。元々自分自身が小さな生き物の健気な姿や、存在が未定義の不完全な存在、おばあちゃんとの心の交流に弱いところを、そのトリプルパンチと、感情を揺さぶるたどたどしい喋り方で、涙腺を刺激するのだから。

そして観終わった後、安っぽい言い方をすれば、「いつもの景色が違って見えた」。寛解のファンファーレが鳴り響き、目に飛び込む光がうすぼんやりとしていたのが、もっとはっきりと、眩しく見えた。(マルセルも、「孤独やつらい経験をした後の太陽は、いつもより眩しく見える」と言っていたように。)

「マルセル 靴をはいた小さな貝」の物語を簡単に説明すると、家族と生き別れになった小さな貝マルセルが、おばあちゃん貝のコニーと二人で暮らしていたところ、ドキュメンタリー作家のディーンが彼らの生活を動画に投稿し始めたところから始まる、実写とストップモーションアニメを掛け合わせたヒューマンドラマだ。(百聞は一見に如かず、是非観てそのストーリーを追って欲しい)

この映画を一言で表せば、「生きること」
もう少し長くすると、「主人公が喪失を乗り越え、愛を頼りに道を進み、挑戦する勇気を持って、生きること」。つまり人生そのものだ。
特に、誰かを失った悲しみから心が風邪を引き、今私を支えてくれる人達の存在の喪失を何よりも恐れる私の人生そのものだった。
そしてその主人公を支える「人間」ディーンの、不完全であるがゆえに弱きものを守ろうとする「善性」

ディーンの様子(https://animeanime.jp/article/2023/06/19/78023.html)

自身も奥さんと上手くいっていないディーンは、引っ越した先で「思いがけず」出会った小さな貝マルセル達を、我が子の成長記録のように動画に残し始める。この映画で私を本当に泣かせたのは、ディーンの「人間が生まれながらに持つ善性」だ。彼は、マルセルが抱える「新しいことへ挑戦する恐怖」へ立ち向かう姿、おばあちゃんを思いやる姿を、時に安らかな音楽を使い、時に彼自身の噴き出したような笑い声や、考える間に発生する沈黙を効果的に入れたりすることで、どれだけ彼らを愛していて、彼らを助けてあげたいのかが一切言葉を介さずに、画面のこちら側にいる私達にも痛いほど伝わってくるからだ。

マルセルが乗り気ではない時も、どんな小さな瞬間もカメラに収め、彼の言葉一つ一つを拾っていくだけで痛いほどに伝わる、「生きる力」。それを収める彼の姿に、頭が割れそうなほどに私達に涙を流させる、人間の善性があった。

そうしてこの映画を通して伝わった善性は、現実世界を生きる私達にも、今日から明日へと紡ぐ希望を与えてくれる。誰かが何かのために尽くす背中は、「私も誰かの為に何かができるかもしれない」とこちらの魂を震わせるほどに、物凄いエネルギーを持つ。

おばあちゃんとの共同生活(https://kyoto.uplink.co.jp/movie/2023/12523)

人は社会生活を営む生き物であり、孤独になることはがんや脳卒中の7倍も死亡率を高めると言われている。この映画でも、家族と生き別れになったマルセルがネットの力を使ってサポーターを得ようとするも、コンテンツとしてインプレッション稼ぎや売名行為に利用されてしまい、「ここはコミュニティじゃない、傍観者だ」と声を震わせながら呟くシーンが胸を打つ。だがディーンは決して傍観者では終わらない。マルセルを助ける為に奔走する姿は、息を呑んで見届けてしまうほどに緊迫感がある。そして人の善性は、行動に出て初めて伝わるのだと知る。それがこの映画の凄まじさだ。

身近なアニメの世界でもいくつか、名台詞と言われるものには、「誰かの為に」放った言葉が、登場人物達の心を入れ替えるスイッチとなることが多い。前の記事でも引用した「キングダム」では、主人公の信がボロボロの仲間達にかけて奮い立たせるシーンで効果的に使われている。

「苦しいんなら俺の背を見て戦え! 俺の背だけを見て追いかけてこい!」

それから、個人的に名言だと感じている台詞に、「あなたに救われた命だ、今度はあなたの為に使いたい」というものがあるが、最近では、春アニメの「転生貴族、鑑定スキルで成り上がる」でも登場人物2人が貧民として苦しんでいたところを主人公に命を救われ、仲間に加えてもらった際に言っていた。

私はこんなセリフ一言でも簡単に感動してしまうのだが、これは私が他人から受け取った善性のブーメラン(英語では "Kind Boomerang"という表現がある)の力を信じているからだと思う。

実写やアニメの世界だけではない。
最近では、体調が回復してきた5月に友人と行った旅行先でも同じ体験が強く印象に残っている。旅行先として選んだインドネシアでは、ほぼどこも英語が通じないのだが、目的地に向かう途中、タクシーの運転手の方が、本来のコースを思い切り外れて、Google 翻訳だけをお互い渡し合って言葉を理解しながら、市内を30分以上も無料で案内してくれた。初めてのインドネシアであることを理解し、若い女性二人だという状況をくみ取ったのか、Google翻訳でダメな時は何度もジェスチャーを使いながら根気強く伝えてくれた。

一銭にもならないわけで、全くしなくて良かったはずの行動を、言葉も通じない中試してくれた彼の「善性」は、死ぬまで覚えている旅行中の記憶だと思う。まだ彼に私は何も返せていないが、3日で覚えたインドネシア語の「ありがとう」を何度も伝え、別れを告げた。

人が人の為に居場所を作る行為や活動も、見返りを一切求めない彼らの善性だ。夜のニュースで流れるNPOや支援団体の活動は、今読んでも胸を打つ内容が多い。

最近では、難民申請をしている男性と同居することで不自由な体を支えてもらうかわりに料理を振る舞ってもらう、相互に与えあうことで生活をしている老夫婦と難民の男性の新しい家族の話や、

「NPOサンカク̪シャ」が営む、病気や生育環境などで事情を抱える若者の居場所として夜のみフリースペースを解放する「ヨルキチ」の活動などはメディアでも注目されていた。

私は今はまだ、個人の活動を見て密かに応援することしかできないが、いつか関わることもできると思っているし、何より、充電している期間に彼らの活動を知ることが出来たことに感謝している。精神病や誰かを失う悲しみ、居場所がなくなってしまうかもしれない恐怖や孤独は恐ろしく耐えがたいものだということを知っているからこそ、その気持ちに寄り添える居場所を作る活動がいかに人を救うのか、誰よりも理解しているつもりだ。だから知ったことでもう、私のようなニュースの受け取り手に、次への布石が穿たれているのだと思う。

最後に、ここまで自分語りばかりで申し訳ないのだが、途轍もない苦しみを味わっている方が目の間にいたのなら、最近気づいたことを、かけられたらと思っている。これは将来大切な人を亡くして茫然自失してしまうかもしれない自分へも。世界に目を転ずれば、戦争で日々尊い命が奪われていく中、相対的な苦しみの大きさにも日々思いを馳せる毎日だ。そんな中でも、まず自分が生きていく力をつけることで、大切な人達を悲しませないようにすることは優先しなければ、と思っている。まず自分を救うことで、他人を救うことが出来ることを今の私は良く知っている。

それは、一度全てをリセットする必要がある苦しみからは、途轍もないパワーが生まれることがあるということだ。音楽や文章などの作品になることもある。苦しんだ人だからこそ理解できる人の苦しみや、人を勇気づける言葉が生まれることがある。

もし、自分だけこれまでのコミュニティから外れたり浮いてしまったら、その場所で人を頼ったり、時に国の制度を利用したり、他の国に引っ越したり、一時的に居候したりと、自分なりに生きていく方法を見つけても何も間違いじゃない。その時に巡り合う人達が必ず見つかる。私の敬愛するアーティスト、cadodeはこんな素敵な言葉をかけてくれている。

「君も浮いていて 見つけられた」。

特定の経験をした人達にしか見えない世界がある、ということを肯定的に教えてくれている。年を重ねると分かってくる名曲だと思う。

風変りな生き方など 求めていたわけじゃないけど
君と会えた生き方なら この風に感謝したいな
知ってた?アプデ前からバグで浮かんでるらしいよ
世界はまた変わりだす 僕に変わりはなく

浮いちまった!って誰も知らない 僕の人生の一部始終
浮いちまった! 世界から外れた
段違いの景色が見えた
浮いちまった! 未来は藪の中
君も浮いていて 見つけられた


私は精神病と戦う中で、今後もどうなるかは分からないものの、第一に家族、第二に友達の存在があったことで、乗り越える力を貯めていくことが出来た。私は恵まれていたのかもしれない。家族は何もできない私を無言で面倒を見てくれたし、友達は、言葉を選んで私に話しかけ、変わらず付き合ってくれた。全てを失ったらあなたの側に引っ越すよ、とメキシコの親友に言った時、二つ返事で快諾してくれた。本当に感謝している。居場所がなくなったら、作ってくれる人のところへ行こう。そしていつか、形は何であれ、きっと自分も居場所を作れる人になろう。

マルセルとディーン。
インスタの反応。絵文字。ブログへのコメント。
今後の楽しみのためにと、「やりたいことノート」をくれた友達。
11時に起きてしまった時の朝の家族の「今日は良く寝たね」の言葉。
インドネシアの運転手。友達の「これからも変わらず遊ぼうよ」、
「あなたの文章が好きだよ」の言葉。

どれだけの善性を受けて、人は前に進むのだろう、と思う。
私はこれまでどれだけの善性を受け、どれだけを返してこれたのだと思う。そしてこれからどれだけ、私は救われ、人を救うのだろう。
その結果がどうであれ、私はこの半年で貰った人達からのエネルギーを元にこれから生きていく。

7月から再就職となりもちろん緊張もある。それでも、沢山の贈り物を受け取った私は、転び方も立ち上がり方も知っている。
もう前の私とは別人だと思う。

"There is always something new to know and get amazed."
――いつだって、(君が準備さえできていれば)新しく知ることはこの世の中に溢れていて、ワクワクすることだってできるんだから。

(メキシコの友人がくれた言葉)


トプ画引用元:


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