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「ファスト教養」の時代だからこそ、「心から好きなもの」を集めていくこと

前回、文章を書いてから、しばらく時間が空いてしまった。
その間、文章を書こう、という気が起きなかった。というより、内から湧き出てくる爆発的な感情が、生まれなかった。
転職活動がようやく終了し、心も落ち着いてきたところで、旧友に会いに行ったり、普段は読まないような厚い文庫本や上下巻のある長編小説を読んだりしているうちに、あっという間に時が経ってしまった。私は、至極健康的で真っ当な日常という"Whrilwind"(旋風)に巻き込まれ、内省的思考を失いかけていた。そんな自分に、焦りを感じていた。

前回、今の会社を辞めることに対して燻る思いも懺悔もやるせなさも、キーボードを叩きつけるようにしてnoteを投稿していた。

だが書き終わって残った感情は、達成感でも自己肯定感でもなく、「空虚」だった。じわじわと後味の悪い違和感のような感情が湧き上がってきたことに、焦りを感じていた。文章を書く知り合いにこの違和感は何なのだろうと相談してみた。あれは紛れもなく私の感情ではあったけど、やっぱり本当の私の気持ちではなかったのかもしれない、と。そうしたら、その知り合いはこう言った。

「本当の感情なんてそんな綺麗なもんじゃないからね」

と。その通りだと思った。私は常に読者を意識して、吐き出した言葉を、瞬時にnoteに相応しい言葉へと変換していたのかもしれない。つまり、バスる、とか注目される、とかそんな期待が、表層に出ていた、ということだ。

たしかに、世に溢れる「note記事バズり術」には、「何が何でもタイトルで引きつけよ」という超鉄板のハウツーが良く書かれている。より多くの読者に読んで貰うためにはまずテーマを決めて書け、というアドバイスも転がっている。英語学習に特化した記事や、就活の記事。あるいは、洋画のレビュー。いくらでもネタはある。それだけを書くこともできたはずだ。

だが私にはそれが出来なかった。取り繕った偽の感情には向き合いたくない、いつか書こう、そう思っているうちに日常に忙殺され、やはり文章が書けなかった。26歳を迎えた日から3ヶ月ほど、細々とだが、日記をつけ始めているのだが、そこにある感情や事実の羅列は紛れもなく本物であるし、私が偶に書く小説の語り口も、奇をてらったりすることはまず無い。読者の視線を意識し過ぎると、すぐに力が入っていることが見抜かれてしまうので、そういうのは嫌なのだ。

対私で完結する言葉は、「ナマモノ」以外の何者でもない。
そういうわけで、今日はとりあえず、文章を一度Wordに連ねてから、noteに書いてみている。実はこうやって、また書き始められたのは、少し最近思うところがあるからなのだが。


ここ最近のnoteで何度も書いてきたことだが、今年に入ってからのわたしの行動原理は、「社会からの受動的焦り」だった。

“FOMO”,又は“Fear Of Missing Out”、又は乗り遅れることに対する恐怖。
これが今、世の中に跋扈している。

私の中でも、つい最近まで、暴れ回っていた。
焦りは、時に人の正常な判断を大きく鈍らせる。

ここ数ヶ月間は、藁をも掴むように、自分が「知らない」ことで焦りを感じる分野をカバーしている資格の試験に敢えて、2,3個立て続けに申し込んだ。会社の経理を良く知らない。だったら、まずは簿記だろうか?転職活動を続けながら申し込んだ日商簿記3級は、見事に不合格だった。「AIを乗りこなせる人材になろう!」とデジタル広告に溢れる謳い文句のせいか、昨今の人工知能の第4次ブームとも言える潮流に乗り遅れてはいけないと、試験実施日の2週間前に「G検定」に申し込んだ。今は義務教育の必修科目となったプログラミングを始めようかと申し込んだ「基本情報技術者試験」は、後1ヶ月程なのに、まだ手を付けられていない。傍から見ても、哀れなほどに、軸が定まらない。

一体私は何がしたい? ああ、時間が溶けていく。焦る。
これはきっと、異常だ。

私の行動原理は探究心や好奇心に無い。
空虚な幻想。湧き出る場所もわからないのに、底がない渇望。
ゼルダの世界でいえば、地底に溜まって体を蝕む瘴気のようなものだ。
「なんとなく焦る」「時間がないから焦る」その2つに私は板挟みになっていた。

「現実の速度をコントロールしよういう幻想を捨てたとき、現実が本当の意味で自分のものに」なる。

(オリバー・バークマン「限りある時間の使い方」、かんき出版、p207)

オリバー・バーグマンの「限りある時間の使い方」に出てくる台詞が、脳内で再生された。


私は、そこで我に帰ったように、2020年代の風潮を象徴する2冊と言われる、レジーの「ファスト教養」と先に紹介したバーグマンの「限りある時間の使い方」を読み返していった。
作者の国籍は違えど、共通のメッセージがそこにはある。
「ファスト教養」の中の一番嫌いなページを、恐る恐る覗いた。
134ページの黄色マーカー部分に目を滑らせる。
なぜなら、そこに私がいるからだ。

「成長に囚われた」大手勤務の20代男性へのインタビュー。

「中田敦彦の動画は長いので見るのを辞めて」、「『サラタメさん
』(ビジネスパーソン向けの教養チャンネル)を、ついつい予定を詰め込んでしまうので、食事中とか移動中とか、スキマ時間で聴いています」

「ベンチャー企業に就職した友人や起業した友人の中にはすでに結果を出している人もいて、そういう姿をみるとやっぱり焦ります。最近職場でやっと副業が解禁されたので、会社勤めと並行してベンチャーから業務委託を受けて仕事をするようになりました」

(レジー「ファスト教養」集英社新書、p.134)

「中田敦彦の動画は長い」「スキマ時間で」
大手に勤めながら「業務委託」で副業。

まるで、とある有名な「リベラルアーツ」動画を投稿するインフルエンサーが語る金持ちの理想形のような生き方だ、私はそう思った。

「エクセルシートのA1からZ30くらいまでぎっしり自分の肉片を詰め込んで、それがはち切れそうな状態」だ、私は本気でそんな姿を想像していた。

この若者に、私は物凄い同族嫌悪というか、苦々しさを感じていた。「20代の頑張りが30代を造る」、外資やベンチャー勤務には耳にタコが出来るほど聞かされるこの言葉を自ら体現しにいくかのように、社会の歯車に巻き込まれてしまった彼の姿を見て、絶対にこうはなるまい、そう思っていた。

だが私は、既になってしまっていたのだ。

そんな私に、レジーの言葉が刃のように突き刺さった。

「ビジネスに役立つなど小賢しいことを言わず、大雑把に物事を知ることに満足せず、さまざまな領域に対して探究心を持って取り組む、それこそが、ファスト教養がはびこる世の中における本来あるべき知的態度である…。

というようにまとめることができたら、どんなに楽だろうか」p186

(レジー「ファスト教養」集英社新書、p.186)

厳しい言葉は、まだ続く。レジ―の凄い所は、この傾向に対して時代の革命児となったホリエモン、ひろゆき、中田敦彦、Newspicksの社長、映画や音楽、評論家の知見も十分に援用しながら、若者を目覚めさせるように、私達を諭しながら結論に落とし込んでいく所だ。「成長しなければ」と無駄に焦ってしまう若者に対して、優秀な人材になることに固執するのではなく、優秀な人材を下支えできるような人材になるためには、という文脈で、例えば下記のように落とし込んでいる。

「革新的な取り組みの意味を理解する一方で適当な仕事に対しては容赦ないダメ出しを返す土壌の一員となることに、仮に突き抜けた個になれなかったとしても、イノベーションを社会全体として生み出す上での重要な役割を果たしている」

ふわふわとしたファストな知識が、一体本物の教養と言えるのか、行きつく先はどこか、イノベーションを起こせるような個を磨くには…そんな彼の問いは、今の成長志向の強い若者に警鐘を鳴らす。実際、これを示す良い例として、これは5月の「東洋経済」に好例があったので、敢えて紹介したい。「アニメを教養」とする広告術だ。

5月22日号のアニメ特集刊では、「ビジネスパーソンが観るべきアニメ20選」が見開き2ページに高々と掲げられていた。

いつの間にか、「アニメは教養」になっていた。
私が直近で、唯一というか、最も義憤を覚えた瞬間だった。そこまでして、成熟社会の芸術作品の最高峰、日本のアニメを、商業科したいのか、ビジネスパーソン向けに吹聴して良いのか、一体、誰が「焦って」アニメを視始めるのだろうか、その思いが渦巻いた。日本のビジネスにおいて「相手を理解し、懐に入り込む」商習慣は、どこへ行ったのだろう。私自身も、外資営業を3年もやっていれば、流石に分かる。ビジネス上の商談であれば相手の話をよく聞いて、相手のことを良く調べて、もし機会があるのであれば、「このアニメが本当に面白いんですよ!!」と生身の体験を持って熱く語ったほうが、よっぽど興味を持ってもらえ、営業のネタになるのは、まず間違いない。焦って話題を合わせる為に見たアニメで、一体相手の心の針を動かす話をどうやってするというのだろう?

焦りからは、良い言葉も、文章も、作品も決して生まれない。

「結局、ビジネスに活かすために何が何でも吸収しようという態度ではなくて、作品づくりを心から楽しんでいる人の作品って、わかるんですよ。そういう人の作品を、皆買いたいと思いますからね

と、ある有名なデザイナー育成学校の20年の大ベテラン講師が、そう言っていた。私が15歳の時。「自分の音楽を書かせてもらえなくなった」そう言って、とある天才女性アーティストは、会社と契約した途端に自由な音楽が作れなくなり、活動を休止した。

泣きながら書いたような、思い入れの強い文章は、結局、人の心を動かすんだよ、そう言ったブロガーの言葉を思い出した。
私は、立ち止まって、大きく息を吸った。日々の行動を、その決断はどこから来るのかを、ゆっくりと、見直したくなったのだ。

前回、半年という長い期間を経て、転職を決意した、という内容のnoteを書いていたが、そこにも書いたことだ。

とにかく、転職活動においては、ワクワクを大事にした。
前にも書いた通り、それを出来るだけ自分が「ワクワクする場所」に変えた。結局、ここ数週間で複数社から内定を頂いた中で、私は9月からベンチャーのコンサルティング会社で働くことになったのだけれど、環境も職種も業態も確かにまだ社会的な成長を捨てきれていないような場所である気もしながらも、私は何度も現場の方々との対話を重ね、条件や環境ではない直感を大事にしてみた結果、有り難く"Shake Hands"をした。

些細なことだが、持ち物にも注意を払い始めた。
ちょうど最近、不具合が続いている私用のパソコンを買い替える為に、敢えて大都会へと繰り出してみた。"Amazon"がいい例だが、機械学習発展の産物であるECサイト上の「あなたへのおすすめコンテンツ」やレビューが商品購入の決定打になるこの時代において、秋葉原を5時間以上かけて回ってみた。ほとんどのお店が閉店してしまう20時近くになるまで、私は自分が本当に気に入った一台を目と足で選ぶ為に、目も耳も口も体も駆使して歩き回った。(そしてHPのVictusというとんでもない代物を見つけた…)無事購入した、まだ届いてもいない新しいパソコンに、既に愛着が湧き始めている。帰り道、総武線のホームから覗く、大きな駅ビルの看板を疲れた目でぼんやりと眺めながらふと、ああ、私は秋葉原という場所を自分の体を使って知ったんだ、自分の持ち物を選んだ「馴染みのある場所」になったんだ、と思うと、自然と笑みがこぼれたのを覚えている。

ところで、「G検定」の為に機械学習について勉強していると、この身体感覚がいかに大事かがよく分かる。

「シンボルグラウンディング問題」という機械学習の限界の例を示す有名な事例があるのだが、簡単に説明すると、これは例えば、人間は「しま模様」と「馬」を事前に頭にインプットしておくだけで、シマウマを見たことがなくとも、実物を見た瞬間、脳内でそれをシマウマだと認識できる、という私達の身体性に注目した大事な例である。いわゆる機械やシステムの「頭脳」を改善する部分には、プログラムがあるだけで、実体はないので、機械学習によって造られる人工知能にはこれが凄く難しい。人間の脳だから、出来ることの良い例だ。だから、体があってこそ結び付けられるこの「自分が選んだパソコン」という感覚は、今の時代には特に、何にも増して有り難く、かけがえのないことなのだと、私はふと思う。

趣味は言わずもがなだ。
私の敬愛する”Orihime”の開発者オリィ氏は、趣味の折り紙好きや開発が講じて、今の自分がある、と語る。「趣味は人を救うから、いくつも持っておいた方が良い」と。その言葉や、多趣味の友人にはだいぶ触発されて、私は最近再び洋画を観始めた。
飛行機にある洋画のラインナップが国内で公開される度に、映画館に足を運ぶこと。GW初日に観に行った、「ガーディアンズ・オブ・ザ・ギャラクシー Vol.3」。12年間待望した「インディ・ジョーンズ 運命のダイヤル」を、公開初日に観に行くこと。両作品とも紛れもなく映画史に残る集大成だ。

その結果、その紛れもなく何かを好きで感動した、率直な感想も感動も分析も、自分の中に溜まっていく。音楽も小説も、時間は一旦気にせず、好きなアーティストの作品、小説を何度も何度も聞き返し、読み返す。そうしていくと、本当に好きなものが、はっきりと見えてくる。「生きづらさ」について音楽で向き合う"Tsukuyomi"の「逆転劇」を300回以上再生する。「愛」と「内省」については並ぶ者がいない、作家三浦綾子の「氷点」に出会い、私では想像も経験もし得ない、登場人物が「愛を知り」「罪を抱え生きていく」姿に、人として生きていくことに、絶望と希望を見出す。

少しずつだが、私の生活に、「自分の感覚に注目して選んだ」ものが、増えていく。
まるで小学生の時、友達と遊ぶことに没頭して、あっという間に日が暮れているような、好奇心の塊を、少しずつ心にはめ直していく。
その感覚が嫌いじゃなかった。

勿論、焦って何かを勉強してみて、その切っ掛けが焦りだったとしても、結果的にそれが回り回って役に立つことも多い。

先ほど、「G検定」を例に出したが、ディープラーニングについて学び始めたことで、人工知能の加速度的な成長や、それを煽るメディア、インターネットで得られる情報への無駄な焦りを逆に緩和されている。簿記について学んだことは、対法人の営業でも、当月の支払いの遅延がどれだけ大きな影響になるのか、身を持って知ることにも繋がった。食わず嫌いを克服しようと読み始めた分厚い文庫本(ちなみに、京極夏彦の「姑獲鳥の夏」)も、読了後は、「人間への理解」という大きなものを残してくれた。

それに、最近「何食わぬきみたちへ」を出版した、16歳で文藝賞を実証した新胡桃さんは、「宇佐見りんさんに対する焦りがあって、作品づくりに繋がった」と言っている例もあり、焦りが実際に原動力になることも、やはりあるらしい。

焦りから身を固めることも悪くはないとは思うのだが、結局やはり、何か少し空虚な気もしている。その先に「本当にしたかったことって何だったんだっけ」、というアイデンティティクライシス問題が待っている気がする。

キャリアにおいても、人生設計においても。
「好きなものに少しずつ耳を傾けていって、その積み重ねが最終的にあなたが本当に進みたい道を作る」、私の職場の上司は、転職を決めた私に、最後にその言葉を送ってくれた。

私の文章が、社会に造られた虚構ではあってほしくない、そんな思いから、こんな文章を書いていた。悩んで、焦って、見直して、行きつく先に出会った言葉。貰った言葉。それらが少しずつ、私が記す文章につながる。その感覚は、日記とも、商業的な記事ともまた違う、noteの記事を書くことに、何よりも「楽しみ」を見出しながら、色々と試行錯誤していくつもりである。

自分で見つけること。
これはレジーも語っていた。

「小さな態度変容をバカにしないこと、自分自身への問いかけを忘れないこと。そしてそれが積み重なった先にある大きなウネリを信じること。それこそがポストファスト教養の哲学を駆動するために必要なマインドセットである」

(レジー「ファスト教養」集英社新書、p.224)

今しばらくは、社会のニュースや世論は注意深く見聞きしつつ、「自分自身への問いかけを忘れ」ずにいようと思う。

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最後になるが、グラミー賞アーティスト、"Jason Mraz" (ジェイソン・ムラーズ)の最新のアルバム、”Mystical Magical Rhythmical Radical Ride”に収録されている “Little Time” が、「焦り」や「迷い」にゆっくりと向き合うことを、教えてくれたので、ぜひ紹介したい。詩的な歌詞、彼の語り掛けるような歌声と優しいメロディは、愛とは何か、について多く歌う彼の作品でも群を抜くくらい時代性があり、美しい。

以下には、和訳したものを全文記載している。

(長いので、一旦文章はここで区切っている)

流れゆく時間と、自分を見失わないこと、
何か強い気持ちや夢が続いていくことへの憧憬を込めて、歌詞は流れる。

On the day you came into this world
君が生まれた日
That day was all the time in the world
その日は、君の世界のすべてだったんだ
Day one, a whole span of a life
その一日目が、命の全てだった
And only one sun had ever set on a night
夜に沈むことのない、たった一つの太陽が照っていて
Because we had no memories
だって僕らは、その時記憶がないんだ
At least none that I can see
少なくとも、僕が覚えている限りはね
We come here with a dream
僕達は夢をもって生まれたんだ
A little time is all we need
僕らにとって、ほんの少しの時間があれば良いんだねって

And on the day we turn twenty-one
僕達は、いつの間にか21歳になっている
We're now seven thousand, six hundred setting suns
太陽はさ、7600回、沈んだんだってさ
And each day seems to get brighter and better
毎日、僕達の日常は明るく、もっと良くなっていくんだ
And at that agе, I thought I'd live forever
21歳のときってさ、僕は永遠に生きられるって思ってた
Bеcause I was young, mhm
だって僕、若かったんだもの
And I was having all the fun for me
僕は自分を楽しませることに必死だった
Chasing my dreams
夢を追っかけてさ
It was a time for living free
あのとき、僕は最高に自由だったな

And on the day I turn forty-two
僕が42歳になった時
I start thinking about all I still wanna do
考え始めたんだ、僕がまだやりたいことってなんだろうって
I've had thousands of hours and chances to do them
何千時間も、それをやる機会ってあったんだけどさ
Do dreams disappear if I don't get to them today?
夢って、今日やらないと消えちゃうものなのかなって
Are these my best days?
ぼくは、胸を張って今最高に楽しんでいるって言えるのかなって
Or am I only halfway to living my dreams?
僕はまだ、夢半ばのまま進んでいるのかなって
Time, be kind to me
お願いだよ、流れていく時間、僕に優しくして欲しいんだ

Yeah, a little time is all I need
ああ、もう少しだけ僕に時間があればって

And if there's a day I turn sixty-five
そしていつか僕が65歳になった時
Will I be cashing it in?
僕ってお金持ちになってるのかな?
Will I finally retire and be who I'm supposed to be
もう引退してさ、なりたかった自分になれてるのかな
Or will I have to keep working to make my ends meet
それかさ、毎日生きるのにも必死に働いているのかな
With my aches and my pains to deal with
膝の痛みに耐えながらさ
I lost friends and I never found Jesus
僕の友達も無くなって、神様にも出会えなくて
Thank God I still have my dream
だけど、ねえ、神様、僕ってまだ夢があるんだよね?
Time is all I need
時間が、時間さえあったらさ

Yeah, a little time is all I need
ああ、ちょっと時間があればいいのさ

And if there's a day we get to turn one hundred and one
そして、僕はいつか101歳になるんだ
That'll be more than thirty-six thousand rising suns
その時に、36,000回も太陽が昇ってるんだって
And I'll rise if I can and I'll dance my old dance
その時にまだ、僕が昔好きだったダンスを踊れたなら、僕はまだ前を向いてる証拠さ
I imagine I'll probably hike up my pants
ぼくはきっと、ズボンをぎゅって上げていると思う
'Cause I've learned how death's always there at our ankles
だって、くるぶしを隠してたら、死が近づくって誰かが言ってたんだ
Teasing us, teaching us how to be grateful
僕達をからかいながら、見守りながら、僕達にどうやって感謝すべきかを教えてくれるんだ
'Cause days are now about how well we live them
だって僕、もう知っているんだ、大事な事は、今どれだけ毎日を良く生きようとするかだって
How much we've loved and how much we've given away
どれだけ愛を注いで、与えられたか
Before we're history
僕達が歴史になる前に
A day is now a century
一日は、今では一世紀分の価値があるんだ
And I'm ready to dream a new dream
ああ、僕はもう、新しい夢を持つ準備が出来ているよ
A little time is all I need
ほんの少しの時間があればいいんだ、ね?

https://genius.com/Jason-mraz-little-time-lyrics

彼のメロディに打ちのめされて言葉も見つからないが、これもまた、自分が心惹かれるものに出会えたおかげだと、しみじみとJason Mrazには感謝している。


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