日記:12歳の私とチョコモナカジャンボ

片手にチョコモナカジャンボを大事に抱えながら、月600円だったお小遣いを握りしめ、毎日1km離れたコンビニまで帰宅するや否や自転車で飛び出していった12歳の頃の自分を思い出した。600円等、まだ今よりは数十円ほど安かったジャンボでも5日で底を尽きるはずであるのに、祖母から貰ったお年玉を大事に分割してちまちまと使っていたのか器用にやっていたらしい。あの頃はいつも、無性に腹が減っていた。

小学6年生まで、ろくに友達も作らず「一匹狼」と呼ばれる始末。物語の空想ばかりして、昼休みは外へも出ずに公文の教材を解いていた。

その14年後に、嗜好は一切変わらず一人ジャンボを無心に食べているんだよと、12歳の私に言ってやりたい。営業としても3年目に突入し、妙に舌が肥えたせいか、あの頃はパリッとチョコレートの欠片を齧るたびに顔がほころんだものだが、最近はそこまでの感動もなくなった。ただ、最近スーパー等でジャンボを見つけると、自然と手が伸びている。運が良ければ、モナカもチョコもパリッとして、家に持ち帰る頃には絶妙にアイスも溶けてこの上ない絶品が出来上がるが、たまにしんなりとしたモナカにご対面することもある。だがそれも一興。人間にも個性があるように、工場で生産された
ジャンボにも個性があるのだ。最近は物質にも街中の小さな生き物にも、皆個性があるんだよなと思うようになった。冷蔵庫の中で惜しくて手が付けられないプリンでさえ、何時何分にこの私に選ばれたプリンなのだ、とか。偶然が為せる業には間違いないが「ペットショップ」の入り口から、鳩が出てきたり。彼は友人の見舞いにでも行っていたのだろうか、堂々と鳩胸を張って出てきた。何かと嫌われ者の野鳥だが、一匹一匹がそんなストーリーを抱えているかもしれないと考えたら、何とも愛しく思えてくる。

と、相変わらず空想や物事の自由連想法で何事も考えてしまう癖は、何年経とうとちっとも変わっていない。その、自分の最高の個性だと思う部分は、高校や大学じゃ失っちゃってたけど、また戻ってきたみたいなんだ。だからそこは安心してくれ、12歳の最高に尖っていた私。だけどさ、一個情けないことがあって。最近、「成長」だとか「社会の期待」に縛られて、身動きが取れなくなっちゃってるんだよ。情けないだろう、未来の私。


何かってさあ、最近辛くて仕方ないんだ。

夜は酷い時は5時まで眠れなくて、食欲もかなり波がある。外に出る気も起きなくなっちゃって、リモートの仕事も、午前は全く頭が働かなくて、半日ですらロクに稼働してない。上司には「体調不良」って言って心配煽っておいてさ。毎日毎日、衝動的にパソコンのスクリーンを閉じて突っ伏したい感情と常に戦いながら、遅々として進まないメールを打ってる。明日も朝からお客さんとミーティングなんだけど、資料は一つも作ってない。手が動かなくなっちゃったんだよ。今日も上司に相談しながら、オンライン画面越しでボロボロ泣いてた。真面目な私のことだから、精一杯働きたいと思う気持ちが、辛くて仕方がない気持ちに離反して自分を蝕んでるんだろうなって思ったよ。

なんでこんなに辛いかって、理由は明確なんだ。

やられちゃったんだよ、社会に。
小中高ってずっと優等生やってた自分が大学受験失敗してそこから起死回生してなんとかIT外資内定貰って、身内を喜ばせる為だけに「真っ当に生きて」きて、この情報の爆発しまくってるIT革命からAI革命への過渡期で、心をやられないはずないよな。働きながら勉強している人もいるんだとか、会社内で早期昇格を目指して日々努力している人に「比べたら」自分は会社の規模の大きさだけに甘んじて、虎の威を借る狐になっていたってことに気づいて、一気に自信喪失してる。

高い給料貰っておきながら、やれ社会的成功だ、やれ独立だ、FIREだ、に毎日心をやられている。若手の成功は目立ちやすいし、称賛されやすい。その情報から避けているより寧ろ、Forbesとか東洋経済は毎日のようにチェックして、社会起業家達の紹介コーナーに心をざわつかせてる。最近だと、海外向けに日本の和菓子のECサイトを始めた「株式会社いちご」の代表の女性の話が印象に残ってるな。それで今朝、幼少期からIQが150前後あるような早熟の天才達は、往々にして社会的地位が高くなる傾向にあるという研究結果を読んだけど、私はそうじゃなかった。だから相応に努力して点取り虫にはなったんだけど、どうしても他人の成果と自分を比べるようになっちゃったんだ。これも、全部半年以内に起きたこと。


悩んでいるよりも動こうと思って、転職活動も初めて見たんだよ。
いくつか簿記みたい会計、基本情報処理技術者みたいな技術系の資格も取得しようとしてる。勉強してる時は、心のざわつきって抑えられるんだけど、問題はその前と後なんだよな。これは、「社会が求める人材になるために自分を縛り付けている縛りプレイ」なんじゃないかって思って、寝れなくなる時があって。1ヶ月くらい前に、部屋に書いてたんだよ。「社会的に成功するためにはIT・会計・英語のスキル」って。何だよ、社会的成功って。誰がそんな定義決めたんだ、そう思って急いで消したけど、もう抜け出せないって訳。やりたいことも、やらなきゃいけないことも散らかってるし、望むものも多くて、本当、どれだけ高望みすれば良いんだって思うよ、時々。


色々試した結果、別に金持ちになりたいわけじゃないんだ。
本当は、そんなものとっくに超越して、少しでも人の救いになりたい。

だけど社会の枠組みから外れることを、もうどうしようもなく恐れている。この前、深夜に偶然、最強のペシミストと呼ばれるシオランの解説書に出会って、興味本位で読んでたんだけど、作者は20世紀前半の時点で既に社会のシステムに囚われることを忌避していたみたいで、世界の同調圧力に同調しない為の「怠惰」の美徳を説いてて、「行為や実現を拒否することで、行為の悪にも世界の錯乱にも同調しないことを示す」っていう意味での「怠惰」は「高貴」だって言ってる。坂口安居の「堕落論」に近しいところがあるけど、そう思うと、少しは楽になる部分も、無いこともないんだけどね。昔はそんな思想も救いに出来たんだろうけど、今は参考程度にしかならなくて。外資で頭をフル回転させて働く。働きながらもスキルをプライベートの時間割いて磨いて、数年後の未来に備える。生きているだけでお金がかかるんだから、将来的に金銭的にゆとりがあったほうが、「焦らなくて済むから」。自己実現出来る水準まで持っていければ、どうしても「成功」と「金」は密接に関わってるから、稼げる人にならなきゃって、ただ焦ってる。今世に渡るまで百年以上も人の心に刻まれ続ける作品を残した作家達だって、商業的に成功していた人達ばかりじゃない。時には恋人宅への居候、時には売血をしながら食いつないでそれでも時代を代表する救いの文学を残した作家達の作品に、もうそれこそ12歳になる前からずっと、感化されてきたはずなのに。

でさ、12歳の私、ここまで読んで、思ったと思うんだ。
「だらだらだらだら書いてないで、さっさと動いたら?」
「私は毎日ピアノの練習も公文もお手伝いもやって、それでも本を読んで日記書いてたよ」ってさ。

ありがとう。
「サプライズニンジャ理論」ってのがあるね。「あるシーンで突然ニンジャが現れて、全員と戦い始める方が面白くなるようであれば、それは十分によいシーンとは言えない」ってやつ。
君の言う通りで、これまで書いてきたこと全部塗りつぶして、その部分のコード全部消したって良いんだ。
悩んでると、動けないんだよ。悩んでいるってことは、動いていない証拠なんだよ。
わかってる。だけど、12歳の私、なにか、一つ、大事なことを忘れている気がするんだ。

それはさ、今私が書くことを選んだってことなんだ。


2時間前まで、簿記の勉強しようかと思って、ベッドから這い出てテキスト開いたんだよ。だけどそしたらさ、突然思考が爆発しちゃって。どうしても思いを書きおこしたくなったんだ。人間、落ち込んでる時ほどクリエイティビティが増すらしいから、そのせいか知らないけど。正直これ少し嬉しくてさ、高校時代は特にそうで、食事運動勉強睡眠って毎日忙しく繰り返してると、クリエイティビティが死ぬんだよ。心に余裕があるから考えすぎちゃうのもあるけど、やっぱり、色々想像して、物語とか考えて、世の中の事象と結びつけることが、私は根っから好きなんだなって、思うんだよ。それだけは、どんなに辛くても止めなければ、社会の圧力にやられようとも、自分を見失わなくて済むんじゃないかってね。今はまだそんなこと言えないけど、やっぱ小説は書くの好きだし、今後ももっと執筆を追求したい。

だからさ、転職先で激務のコンサルを選んで自分を成長させようとか、更に空いた時間でスクール通おうとか、資格詰め込もうとか、それ、本当の自分じゃないんだよな。現状維持するつもりも無いけどさ、自分の居場所は、今日考えた通りに、想像力も創造力も活かせる場所がいいなって思うんだ。それは、きっとどんな時代に生まれても変わらないはずだから、今の社会的圧力を恐れる必要ってないんだなって、もしこれを3年後とか、また12年後の自分が迷って戻ってきたら、言ってやりたいんだ。

最後に、私、人間は、ヤドカリみたいだなって、最近思って。
体に合わない家を見つけると、すぐに逃げ出す。選り好みして家から家へと移れば、体が衰弱する。自分がおっきくなれば、家は出て行かないといけない。誰がそうしろと言ったわけじゃない。生きていくためにそうなったんだ。私達は生きるヤドカリで、宿を取っ替え引っ替えしてばかりじゃ、体は摩耗する。「人間ヤドカリ」は生まれつき窮屈な宿に生まれてくる。頭でっかちなヤドカリはいつまでも同じ宿にいて、体ばかり大きくなっていくヤドカリは宿を漁って定住しない。宿はいつまでもそこにはない。壊されれば急いで引っ越さないといけない。そうして私達はどこかへ身一つ持ち運びながら生きている。誰も一つ以上の宿に住むことはできない。結局、私達は宿に縛られて生活しがちなんだなって、そんな空想をしていたんだ。


本当滅茶苦茶な考えでも、書いてみると、やっぱり楽しいよ。
ジャンボを食べ終わって手を舐めている12歳の私も、少しは納得してくれたみたいだね。
この場を借りて、今日は書いたよ。相変わらず朝の1時でも眠くなくて、笑っちゃうけど。書いて良かった。
12歳の自分は、何よりも純粋で自分勝手に生きてた。その自分に恥じないように、社会との距離を考えながら,生きていたいな。また転職したら、結果報告するね。

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