とじょりん論 007 『性的対象化』について

実はこの件が炎上した直後のタイミングで別の警察署が『へそ出し』の広告を行っている。
神奈川県警が横浜F・マリノスのチアリーダーを含めて、県内のスポーツチームに秋の交通安全協会キャンペーン動画に出演させたことは無視している。
調べてもらえばわかるが、彼らもへそを露出した衣装で広告に出演しているのだ。

戸定梨香が『へそ出し』で問題になるならば、当然これも抗議しなければ主張に一貫性が無い。
それについては、ある者は「物語性の違い」などと表現するが、ハッキリ言って屁理屈だ。
戸定梨香のへそ出しにどういうメッセージがあるのか?はわからない。
それ以上にわからないのは、何かメッセージが無いとへそ出ししてはいけないのか?
もしもそのメッセージが受け入れられないものならへそ出しを許してはいけないのか?だ。

これは”へそ出し”だけではなく”ミニスカート”も同様である。

正直に言えば、私は3Dモデルの専門家ではない。
特に、Vtuberが扱うリアルタイムで動かせる3Dモデルについての知識は十分とはとても言えない。
だからこれから述べる事が真実そうであるかは保証できない。
しかし、そういう可能性があることは考慮しても問題無いと思う。
Vtuberのスカートについてだ。

こういう意見があった。
ロングスカートを自然に見せるのは難しいからミニスカートが選ばれやすい、と。
それは物理演算の問題である。
現実ではスカートをはいた状態で動けば、当然それはたなびくことになる。
しかし、それをVtuberで再現しようとすれば、自然にたなびかせるのは難しいらしい。
さすがに風はバーチャル空間に吹きはしないとしても、重力と足による物理的な干渉は再現しなくてはいけない。
ただ、それに失敗してスカートから足がはみ出たりしたら大変だ。
仮にそこまでやらかさなくても、足に当たる度にスカートがぴょんぴょん跳ねたら、気になりすぎるかもしれない。
(もしもあなたがゲーマーなら『Havok神』を思い出したらいい。実際、他の3Dモデルの話だが、何もしていないのにスカートが小刻みに震えていて気になったものだ)
ゆえに、たなびかせるのを半ば諦めて、開いた傘のようにしてしまうことはできる。
だが、当然違和感が出るのは免れない。
そこで、仮に開いた傘にしてしまってもミニスカートの方が違和感は少なくて済むという話だ。

何が言いたいかというと、要するに「男に媚びるためにミニスカートを履いている」は思い込みによるとんだ見当違いかもしれないということだ。
そして間違いなく、ミニスカートを履けばその瞬間に『性的対象物』になるわけではない。

それでは話を『性的対象化』とやらに絞ってみよう。
全国フェミニスト議員連盟の公開質問状から引用する。
「本動画は、女児を性的な対象として描いており、女性の定型化された役割に基づく偏見及び慣習を助長しています。
戸定梨香というVTuber(アニメキャラクター)は、セーラー服のような上衣で、丈はきわめて短く、腹やへそを露出しています。
体を動かす度に大きな胸が揺れます。
下衣は極端なミニスカートで、女子中高生であることを印象づけたうえで、性的対象物として描写し、かつ強調しています。
国連女性差別撤廃委員会の勧告(2016 年)は、日本政府に対して「固定観念と有害な慣行」として「メディアが、性的対象とみなすことを含め、女性や女児について固定観念に沿った描写を頻繁に行っていること」に懸念を表明しています。
公共機関である警察署が、女児を性的対象とするようなアニメキャラクターを採用することは絶対にあってはならないことです。 」

しつこいくらい戸定梨香が性的であることを強調している。

「女児を性的な対象として描くキャラクターを採用することは、性犯罪誘発の懸念すら感じさせるものですが、採用決定過程においてどのような検討をされたかお答えください」

今回の動画が「女児はこんなに性的です!みなさん性犯罪をしましょう!」というメッセージを発しているという意味ならば「そんなわけないだろ」という話である。
それとも今回の動画を見た者が「おっ、このキャラクターはエロいやんけ。よっしゃ、ムラムラしたけんいっちょ性犯罪しにいったろ!」と思うのだろうか?
仮に思ったとしたら、私はその人の心に重大な問題があるとしか考えられない。
そしてこれが重要なポイントなのだが、女性を狙った犯罪はメディアが登場する前からあったということだ。

たしかにサンピエトロ大聖堂ならば、聖なる童貞の総本山だから止めれるのもやむなしの格好だが、ここはバチカンではなく日本だ。
市井の女性がへそを露出し、ミニスカートをはき、胸をどれだけ揺らしても違法にはならない。
ついでに中高生ではなく、18歳以上の女性がセーラー服を着たいと願うならば、私個人がどう感じるかはともかく、それは尊重されるべきだと思うよ。

全国フェミニスト議員連盟の公開質問状にて戸定梨香が「性的対象物」であると書かれている。
ではこの『性的対象物』とは何なのか?
この言葉をGoogleで検索すると結果として表示されるのは『性的対象化』である。
これは英語の「sexual objectification」の和訳で、『性的客体化』『性的モノ化』なども同じ意味である。

『性的対象物』を構成する7つの要素を箇条書きすると次の通りだ。
1 .道具性(instrumentality)。ある対象をある目的のための手段あるいは道具として使う。
2 .自律性の否定(denial of autonomy)。その対象が自律的であること、自己決定能力を持つことを否定する。
3 .不活性(inertness)。対象に自発的な行為者性(agency)や能動性(activity)を認めない。
4 .代替可能性(fungibility)。(a)同じタイプの別のもの、あるいは(b)別のタイプのもの、と交換可能であるとみなす。
5 .毀損許容性(violability)。対象を境界をもった(身体的・心理的)統一性(boundaryintegrity)を持たないものとみなし、したがって壊したり、侵入してもよいものとみなす。
6 .所有可能性(ownership)。他者によってなんらかのしかたで所有され、売買されうるものとみなす。
7 .主観の否定(denial of subjectivity)。対象の主観的な経験や感情に配慮する必要がないと考える。

さて、これを考えたマーサ・ヌスバウム女史は哲学者なので、一般化のために抽象的な表現になっている。
これを地道に噛み砕いて戸定梨香に当てはまるのかどうかを一つずつ見ていこう。

まず「道具性」について。
簡単に言うと「女性は男の道具に過ぎない」という表現は性的対象化ということになる。
これを戸定梨香に当てはめるとしたら「戸定梨香は、男性の性的欲求を満足させる事を目的に、戸定梨香(3Dモデル)を道具として使っている」という事になる。
もっともらしいようで、猛烈な違和感に襲われる表現だ。
これが許されないというのなら、一般女性が恋人と性行為をすることもアウトになってしまうのではないか。
ここでこんな反論が考えられる。
「現実の女性が自分の体をどう使うのかは勝手!しかし戸定梨香の体は作り物だから違う!」と。
だが、少なくとも板倉社長が嘘をついているわけではないのならば、戸定梨香の体は戸定梨香の希望に沿ってデザインされたものである。
よって戸定梨香は戸定梨香が望んだ通りの体を持っており、それは彼女にとって自分の体であると主張しても過言ではない。
だから一般女性が自分の体を男性の性的欲求を満足させるために使っても良いのならば、戸定梨香がそうしても良いと断言できる。
(そもそも前提として戸定梨香が「男性の性的欲求を満足させる事を目的に」しているかは怪しいが)
ところで、今回は戸定梨香の中の人が女性だから私の論が成り立っているように見えるが、もしも中の人が男性だったらこれはくつがえるのだろうか?
女性が戸定梨香(3Dモデル)を使うのが許されて、男性ならば許されないというのは、なにか男性差別のような気がするが…

次に「自律性の否定」について。
簡単に言うと「女に自己決定の能力なんてない」という表現は性的対象化ということになる。
これを戸定梨香に当てはめるとしたら…できない。
少なくとも問題として扱われた動画内では(当たり前だがそれ以外の動画を検証しても意味がない)、戸定梨香が何者かに自己の決定権を委ねている(要するに男に顎で使われるような)描写は無いからである。
強いて言うならば「戸定梨香は自分の意志とは裏腹に警察のルールを強制されている!」と主張できるかもしれないが、それは法律を遵守する我々のような市井の人間と何が違うのか?

次に「対象に自発的な行為者性や能動性を認めない」について。
簡単に言うと「女には自発性も能動性もない」という表現は性的対象化ということになる。
「自発性」とは、他の誰かからの影響や教えなどによらず、ものごとを自分から進んで行おうとすること。
「能動性」とは、他からのはたらきかけを待たずにみずから活動することである。
件の動画から「戸定梨香は他の誰かからの影響や教えなどに頼り、自分から進んで行動する姿勢に欠けている」と読み取るのは無理があると思う。
そして事実に着目すれば、戸定梨香は今回の交通安全啓発活動に、自発的かつ能動的に取り組んでいる。

次に「代替可能性」について。
簡単に言うと「どの女も同じだ、誰でもいい」という表現は性的対象化ということになる。
動画に登場する女性は戸定梨香一人なので、関係無い。
(一緒に登場するおばけのようなキャラ「ばけごろう」は男の子だ)

次に「毀損許容性」について。
簡単に言うと「女性を傷つけても構わない」という表現は性的対象化ということになる。
交通安全啓発動画は、むしろその真逆である。

次に「所有可能性」について。
簡単に言うと「女は男の所有物」という表現は性的対象化ということになる。
最初に検討した「道具性」に似ている気がする。
そしてやはりというか、戸定梨香(現実の女性)が戸定梨香(女性の3Dモデル)を所有物として扱うことは何も問題が無いとしか言えない。
そして繰り返しになるが、もしも戸定梨香の中の人が女性ではなく男性だったら許されないとしたら、私には男性差別のように思えて釈然としないのだ。

次に「主観の否定」について。
簡単に言うと「女の気持ちになど配慮しなくていい」という表現は性的対象化ということになる。
結局のところ戸定梨香は動画内でそのような事は主張していないので簡単に退けられるところだが、ふと面白い意見があったのを思い出した。
「戸定梨香は今はへそ出しミニスカセーラー服の姿が良いと思っているが、将来はその姿でVTuberをしていた事を後悔するかもしれない」だ。
たしかに、ジュニアアイドルのケースを考えてみたら頷けるかもしれない。
子供に際どい衣装を着せてパフォーマンスをさせる時、子供本人はその煌びやかさに憧れて、むしろ自ら進んで活動するかもしれない。
その子供が大人になって、実は自分が、自分が望んでいたイメージでファンから応援されていたのではないとわかってショックを受けることがあるかもしれないのだ。
(具体的に言えば、卑猥な目線を浴びていたと気づいてショックを受けるということ)
私から見ると、そういうのは知識の浅い子供を大人が搾取している例の一つだと思う。
だが、それを戸定梨香に当てはめるのは無理がある。
戸定梨香についての説明で、私は(たいへん野暮であることは承知の上だが)彼女が大人の女性であると考察した。
彼女が一人の大人である以上、その行動には自分で責任をとる必要がある。
実は板倉社長が子供に労働をさせているとか、戸定梨香の家族を人質にとっているとか、戸定梨香がスタジオから一歩でも外に出たら彼女の体内に埋め込まれた爆弾が火を噴くとか、そういう事情があれば別だ。
(一応、真面目に考察している)
しかし、大人の一人である戸定梨香が数年後くらいに「実は私は嫌々やっていたんですよ」と言い出したら、私はいくら戸定梨香が相手とはいえ「甘えた事を言うな」と思うだろう。
(注意してほしい。私は「かつてのファンがガッカリするから」という理由で非難するわけではない)

こうしてまとめていくと薄々感じずにはいられない。
『性的対象化』という言葉は現実の暴力に対する評価としては適切だとしても、表現物に適用するのは不適切なのではないか、と。
(当たり前だが、現実の女児に卑猥なことをさせて、それを記録した物は別だ。それは現実の暴力だから)

そもそも『性的対象化』という概念を考案したマーサ・ヌスバウム氏すら、女子が自らをセクシーに客体化して楽しんでいても、そこに不平等がなく、尊厳が保たれてる限り、べつに問題はないと考えているらしい。
なにしろ原文が英語なので私もまだよく読めていないのだが、しかし考えてみれば当然だ。
ミニスカートを履くことを強制されるのも、ミニスカートを履きたいのに禁止されるのも、どちらも女性の自由を奪うという意味では間違っている。

だいたい性的なモノが性犯罪を助長するというのは本当だろうか?

そもそも戸定梨香が性的か否かと、性的なモノが性犯罪を誘発するか否かはわけて考えなければいけない。
というより、まずは性的なモノが性犯罪を誘発することが前提となってはじめて戸定梨香が性的か否かを議論するのが正しい順番だ。
なぜかそれがアベコベになっているのである。
もしかしたら全国フェミニスト議員連盟とその擁護派は、性的なモノが性犯罪を誘発するのは議論の余地もなく当然だと考えているのかもしれない。
しかし、それが十分に説明できているとは考えにくい状況だ。

実際のところ性犯罪の動機は各人毎に異なり、かつ複雑なメカニズムが働くため「性的対象化によって性犯罪が起こる」と断定するのが危険であると同時に「性的対象化で性犯罪が起こるわけがない」と断言するのも危険である。
だが、もしも性的対象化されたモノによって性犯罪をした者がいるのなら、その人はメディアの被害者であり当然減刑されるべきだ、という理屈も成り立つ。
しかしそれを主張するフェミニストは見たことが無い。
個人的にはそれに同意するが、それは私が「フィクションと現実を混同して実在する他者に迷惑をかけるのは自己責任の問題」だと考えているからである。
しかしフェミニストはどうだろうか?

以上、よくよく吟味あるべく候。

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