手紙


 冬の花が好きで、先日新宿御苑に水仙を見に行きました。よくそこらに咲いている、中心が黄色の二ホンスイセンと、ペーパーホワイトという青白い水仙がありました。どちらも見ごろで、茎の先端に花が四つも五つも咲いていて、毬のようでした。
 近所にも水仙がいくつか咲いています。花はいつも懸命にお日様を追いかけているので、花に対して北側にある自室の窓からは花の背中を見ることになります。朝、その水仙たちを見るのが好きです。昼、吹きすさぶ寒風に煽られ、夕方には斜めになってうなだれていても、どういうわけか朝にはしゃんと背筋を伸ばしているのです。お日様を仰ぎ見て、昨日一日を生き延びられたことに感謝しているようです。その背中があまりに健気で、毎朝ため息の出る思いです。
 ところが先日、雪が降りました。午前中に順調に積もり、午後には雨になりましたが、翌朝まで雪は残っていました。残っているといっても日陰や土の上がうっすら白くなっている程度で、私がいつもの窓から水仙をのぞいたときには、水仙の葉の雪は溶けてなくなっていました。しかし、水仙はうなだれたままでした。茎がそれぞれてんでばらばらの方向に、今にも倒れそうなほど傾いていました。かろうじて折れていないといった具合です。雪の降らぬ街に咲いた花の、寂しき姿でした。

 元気で、ございます。健康であるとはとても申し上げられませんが、浅ましいほど元気であることは確かです。もう文字の一つも書けなくなったのではないかと恐ろしくなり、このような手紙を苦しまぎれに書いているところです。水仙が咲くようになり、水仙を見るとなぜかあなたを思い出すので、あなたに宛てて書いています。あなたから水仙の話を伺ったことはないはずですし、あなたが水仙に似ているとは露ほども思いませんし、いったいなんなのでしょう。しかし、もし私が画家で、あなたの肖像を描くとなったら、必ず背景には水仙を咲かせるでしょう。水仙は、お好きですか。いいえ、やっぱりお答えにならないでください。あなたは水仙のことなど気にも留めていないはずですから。

 八百屋で白菜を一玉買いました。普通の白菜の二回りほど小さな一玉でしたので、ついひょいと持ち上げて、お会計を済ませ、片手に抱えて帰ってしまったのです。小さいとはいえ白菜を一玉丸々買ったのは初めてです。葉を外側から一枚一枚剥き、適当に刻み、鍋いっぱいになったら水と醤油を少し入れ、ふたをして煮込みました。五分もするとかさが半分以下になり、ぐだぐだになりました。野菜はなんでもぐだぐだになっているほうがおいしいと思います。ぐだぐだの白菜をお椀によそっていただいていると、こうしてどこまでも生きていくのだろうな、と思って嫌になりました。一人でこんなに生きるつもりではなかったのです。一人で暮らし始めてもう一年になりました。せいぜい一か月、長くて三か月だと思っていました。三か月もすればにっちもさっちもいかなくなり、また誰かと適当に暮らし始めるだろうと思っていました。それがどうでしょう、浅ましくも元気に一人で図太く生きているとは。


 私はここまで書いて急に嫌になった。二度読み直して、千々に破いた。悲しかった。もう私は文字の一つも書けない。ここでどんなに寂しくても、誰に泣きつくこともできない。





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