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詩誌「光」企画②河津聖恵〜連載 若冲連作詩第1回

「霏霏」

河津聖恵

霏霏といううつくしい無音を
とらえうるガラスの耳が
多くのひとから喪われつつあった時代
ひとひらふたひら
空が溶けるように 今また春の雪は降りだし
この世の底から物憂く絵師は見上げる
見知らぬ鳥の影に襲われたかのように
煙管を落とし 片手をゆっくりかざしながら

雪片ははげしく耳をとおりすぎ
ことばの彼方に無数の廃星が落ちていく
ひとの力ではとどめえない冷たい落下に
絵師は優しく打ちのめされる
愛する者がはかなくなって間もない朝
この世を充たしはじめた冷たい無力に
指先までゆだねてしまうと
庭の芦の葉が心のようにざわめき
この世はふいにかたむいた
雁がひとの大きさで墜落し
風切羽を漆黒に燃やして真白き死をえらんだ

笑うように眠りかけて指先はふるえる
乾いた筆が思わず
共振れする 霏霏
「見る」と「聞く」 「描きたい」と「書きたい」
ひえびえと裂かれていく深淵に雪はふりつむ
眠りに落ちた絵師は
ついに胡粉に触れた
骨白に燦めく微塵の生誕を見すごさなかった筆先

*伊藤若冲「芦雁図」

詩「霏霏」をめぐって
            
            河津聖恵


 ここ二、三年、江戸時代中期の絵師伊藤若冲の絵をモチーフに、連作詩を書いている。
二百数十年後の現在、若冲の絵をめぐって詩を書くこととは、どのようなことなのだろう。自分はなぜそのような試みを続けているのか。
最初から連作を意図していたわけではなかった。一作一作作りながら、なぜ若冲なのかを考えて続けている。それは、鮮やかな「神気」あふれる絵に詩を触発されようとする自分自身にひそむ欠如とは何か、という問いでもある。つまりこの今だから、この私だから若冲なのだ。

思えば始まりは、ある日曜日、家のインターホンが鳴った時だったかも知れない。かなり前のことだ。休日の昼下がりのこんな時にと思いながら、ドアを開けると一人の見知らぬ初老の男性が門扉の外に立っていた。野球帽にリュック。服装の記憶は曖昧だが、史跡巡りだなと一眼で分かる律儀な印象の軽装だ。背はぴんと伸びていた。「何でしょうか。」「この辺りに伊藤若冲のお墓があるそうですが、どこでしょうか。」伊藤若冲? あの絵師の? 最近テレビで特集番組をやっていて、京都のどこかのお寺にお墓があるのもそれで知った。でも南の方だなと思った記憶がある。この辺りでいつもお墓を訊かれるのは、隠遁後文人として名を馳せた某武将だ。もしかしたら間違えている? だが若冲だと主張する。まだ若冲をよく知らなかった私は、「もっと南の方ですよ」と言うしかなかった。「えっ、南なんですか」律儀に礼を述べて踵を返した男性は、その後無事伏見区にある石峰寺に辿り着いただろうか。しかしなぜちょうど石峰寺と南北を逆転した位置にあるここに、その人は迷い込んでしまったのか。まさかと思うが、地図を上下逆さまに読むまま辿って来た? 確かに手にしていたのはスマホではなく地図のだったと思う。「南ですか」と驚いたその人は落胆の色もなく、ぴんと伸ばした背中のまま元来た道を戻って行った。
いずれにしてもその時が、生誕三百年のブームの前に、「伊藤若冲」の名前が私に、特別なものとして刻印された最初だった。

初めから連作を意図したわけではなかった。男性が訪ねて来てから、どのくらいが経った頃だろう。最初に書いたのは今回アップした「霏霏(注:「ひひ」とは雪が絶え間なく降るさま)」。ある個人誌から作品の依頼があり、部屋で何を書こうか思い悩んでいた冬の朝、ふと後ろを振り返ってみて、あっと思った。いつしか窓の外に暗い空からぼたん雪が降りしきっている。隣地の廃された果樹園から塀越しにこちらへ伸びる雑木の枝に、もう湿った雪がふりつもっていた、湿って柔らかに枝におおいかぶさる雪は、輪郭が不定形で、練ったもののようにところどころ穴がひらきーこれは、あれだ、と思った。あれ、あれと思うと、やがて記憶の奥から像が浮かび上がって来た。伊藤若冲の絵の雪だった。形態としては最も「雪中錦鶏図」の雪に近かったが、なぜか芦に積もった雪を散らして、落下する雁を描いた「芦雁図」のほうが思い起こされて来たのだ。そもそもいつ自分がその絵を見たのか。その頃は生誕300年を控え、あちこちで若冲の名が喧伝されていたがまだ展覧会は始まっていない。私はもうポケット版の画集を買って、来るべき本物との出会いに備えていたのかも知れない。いずれにしても有名な鶏の絵や象の絵より、「芦雁図」につよく心惹かれたのは事実だ。

「 画面のなかに実物以上に大きく描かれた雁は、ほとんど墜落しているとしか思えない。この異様な描き方に対して、若冲の「死の不安」を見いだそうとする研究者もいる。若冲が「動植綵絵」二十四幅を相国寺に寄進する直前に、末弟の宗寂(そうじゃく)が急死した。それ以後に描かれたと考えられる本図には、そうした若冲の心の動きが反映していると見るわけである。芦の葉や茎のうえに降り積もった雪は、「雪中鴛鴦図」より、その粘液性が徹底されている。」
(狩野博幸『目をみはる伊藤若冲の『動植綵絵』』77頁)

拙詩「霏霏」もまた、「画面のなかに実物以上に大きく描かれた雁」の、「墜落しているとしか思えない」落ち方に受けた衝撃が、私の無意識にずっと鈍く残っていたことを証しているのだと思う。背後を振り返って目に飛び込んで来た「若冲の雪」がその感情のわだかまりを触発して浮かび上がらせた。それを詩の言葉が一つの情景へとほどいていったのだ。「感情のわだかまり」とは、恐らく雁がその大きさで見せつける「死の欲望」である。私にも人並みにとうぜんあり、若冲にはもっと肌身に迫るものとしてあっただろう。それが、二百数十年の時を越えて、雪の質感を介してそくそくと伝わって来た。詩はそのふるえから生まれた、と言ってみたい。


河津聖恵(かわづきよえ)
京都で詩を書いています。詩集に『アリア、この夜の裸体のために』『新鹿』『夏の花』など。評論集に『パルレシアー震災以後、詩とは何か』『闇より黒い光のうたを』など。京都新聞文化面「詩歌の本棚」、しんぶん赤旗文化面「詩壇」を担当しています。

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