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ンモラケしたモケでできたズニがわからない(小説を書くこと)

大好きな人を残酷にいたぶり無理心中する話は書けるのに、ンモラケしたモケでできたズニは書けない。

創作の話ですけど、「恋愛とは幸せな婚姻が最終目的」って「ズニを作るならンモラケしてモケ」みたいな異文化の料理レシピを提示されてるようで、ずーっと苦しんでいる。

恋愛モノは創作で王道だし、書けないより書けた方が絶対に料理の幅は広がる。

でも、私にとってズニはすごく苦手な虫に似ていて、日常に馴染みがあるものでもないし、味がうまく理解できないし、食べたいと思うものでもなくて、「食べなきゃだめ……?」な感じだから、お腹の奥がモギュ……てなる。

そう思っているズニを作ろうとするのもなかなか一歩がしんどいし、ンモラケしてモケしたらいいと頭では分かっていてもンモラケしてモケってなんだよわかんねぇよ、わかんねぇものに共感したりデコレーションしろって無茶言うなよって思う。
そのへんにあるポヨッペを添えたらおいしいんか? ポヨッペてなんだよ。私がよく知る「生まれ持ったスティグマ」や「漠然とした絶望」とか「孤独」「執着」「救済の死」を盛ったらいかんのか?(いかん)


ハッピーエンドの大衆向け恋愛小説を読むと、甘くて美味しいスイーツを食べて満たされた気持ちになれる(ちょっと胸焼けするけど)

そこでは、主人公をちゃんと救ってくれるひとが現れる。その人は裏切ったり失望させたりしない。
あたたかな安心できる場所と、未来への希望がどっしりと寄り添ってくれる。
やさしい世界がある。
めっちゃいいじゃん……。

キャラクターも読み手も、みんなを幸せにできる話じゃん。いいじゃん。 

書こうよ、こういうの。
そう思うのになあ……。

読めると作れるはどうして違うんだろう。
いや、レシピあるんだから「おいしいかはともかく、やれば誰でも作れる」のは間違いなくそうなんだけど。


気がつけば、作りたいものを作っていて、結局は執着と支配欲による性と暴力と、噛み合わない価値観の会話と、相互不理解の上での受容、傷ついた魂同士のなぐさめの時間、死による救済、世界は変わらなくても自分は一抜けしたもんね、それらを書いてホッとしている。

書きたいものを書ききれることがまず幸せなのだから、それじゃいかんのかとも思うが……

それじゃいかん気がしてきたのだ。

だから最近、知らんぷりしてきたズニ題材と向かい合っている。
そして脳みそがパンクしてこの日記に至る。


 ■


小学校のころから大なり小なり創作を続けてきた。
根本にあるのはずっと、自分のいる世界から飛び出しての冒険、つきまとう孤独感、世界に共感できない憎しみ、生きづらさだった。

誰にも伝えられない、伝え方のわからない、伝えてもわかってもらえない怒りをエネルギーに変え、ままならない物語、答えのないものに苦しむ人間を書いた。

「ほら、やっぱりこの世界で生きるのってつらいよ」そう語るものをひり出して、「そうだね」と自分に返事をする日々だった。

人と人との対話から得る虚しさが耐えきれず、現実での関わりを避けて本や映画、創作に逃げ、作品を通した空想の対話だけが「正直さ」を感じて心地が良かった。


大人になるにつれ、自分の内声を言語化する力が高まるのを感じている。
快く感じたこと、不愉快に感じたこと、許せていないこと、わだかまっていた混沌の感情、いつも頭のどこかにある漠然とした苛立ち、焦り、ひとつひとつ拾い上げられるようになってきている。

そのおかげでTwitterでのつぶやきは愚痴が増え、自分でも嫌だなあと思っている。

そしてさらに、自分が創作してきたものへの「これってさぁ……」みたいな部分がどんどん増えきた。
それがヤバイと思ったことのひとつだった。


「これはやはり私から出てきたキャラだ。私から出てきた物語だ。私を切り分けたものだ」と強く感じる部分が増えた。
つまり私にしか作れないものだという誇りを得る一方で、あけすけさに恥ずかしくもなった。

「私の生きづらさの擬人化たち」「私の苦しみが煮詰まった世界」……自分すぎる……そう思ったことがショックだった。
みんなは見抜いているだろうか?これも何かの投影だと思われるだろうか?私はまたワンパターンなのか。
変な意識が芽生えて、生み出すときに妙な窮屈さを感じるようになってしまった。

創作はオナニーだ。みんなよく言ってる。私もそう思う。なのに今更どういうことだ。

自分が今まで言葉にできなかったものの正体を見てしまい、なんだか冷静になってしまいつつある。


そして、「私は自分を切り分けて創作している」そう改めて実感してみると、切り分けきったら、自分を出し尽くしたら、どうなるんだろうって思った。
書きたいものが無くなってしまうのだろうか。
似たり寄ったりなものばかり生産し続けるのだろうか。今以上のマンネリを感じたら?

私にとって創作は、生きるための力を燃やす機関でもある。
猫とか、作品鑑賞とか、生きてれば良いことがあると思えるものがあっても、実際に今を生きる意味を生み出すのは創作しかない。
さみしい人間である。

そんな人間なのに、書きたくても書くものがない、つまらないと思う日がくるかもしれないと考えたら怖くてたまらない。しにとうない。


書くことが好きで、なんでもいいからロボットのように書き続けていたいとよく思う。
なのに蓋を開けてみれば選り好みがあるというのはアンバランスだ。

のびのびと書くためにも、書き続けるためにも、自分から離れた題材も料理できるようになりたい。
ならなければならない(強迫観念)


多数派はンモラケしたモケでできたズニが好き、という事実は受け入れた。

多数派の人は透明な人の話を読みたいわけではない。多数派の人たちのための話が読みたい……という当たり前のことも受け入れなければならない。

そしてそれは、透明な人たちやその創作を無視することではないということも。
都合の良い世界に「自分や、自分のような人たちが無かったことにされている気がする」ことへの被害者意識、それからくる嫌悪感、捨てろ。やめろ。それはそれ、これはこれを楽しめ。

「読んだ人が傷つくようなどん底、絶望、ままならなさを書いてやる」という攻撃性を一度横に置ける器用さを持て。

「わからない」「書けない」と嘆くのは、書けるほどに見ようとしていないだけだ。馴染みのないもの、わからないものも書いてしまえるのが創作なのだ。書けない道理はない。
書いてみて、おいしくない料理になってしまうから向いてない、楽しくないからやっぱ書かない、そう言うのは自由だ。

ンモラケをモケすること、結果的なズニ、自分の領域以外も書けなければずっと井の中の蛙だ。
ズニを食わず嫌いするな。卑屈になるな。憎むな。それは敵じゃない。

一皮剥けたい。

ただ幸せな話を書きたい。希望や暖かさ、奇跡やポジティブな運命を否定しない話。

ズニを、書く。



たぶん。
がんばる。