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#10 書きたい人たちのユートピアとしての「note」

noteを始めてついに10日目。

わたしは人付き合いがまめなタイプではなく、Facebook はオンラインステータスがついて懐かしんだ人から連絡がくる妄想と恐怖からもう何年も開けていないし、日本の年賀状制度に疲弊して海外移住したような人間なのだが、noteで匿名(部分的プロフィール公開)の人たちとゆるく繋がるのは、それはそれでなんかいいなと思っている。

匿名といえど、文章を書いてる人たちには、モノクロコーデで行った東武動物公園でマレーバクを見た時に感じたような妙な親近感がある。

わたしのうちには、書きたくて書きたくてうずうずしてしまう気持ち、書いたものを誰かにちょっと見てほしい気持ちがあり、多くのnoterさんにも、それを垣間見るのである。

自分で掘った穴に落ちる人

今は「自称・元々作家でもシナリオライターでも何でもないのに、筆が握れなくなった演出してるただの人」だが、かつては詩、小説、シナリオ、なんでも趣味で書いていた。

出来上がった時には、いつも「うん、たいへんよくできた」と思った。

賞などに応募して結果が出ずにそれなりに反省をしても、時を経て見直すと「うん、やっぱりたいへんよくできた」と思った。

誰かに「あの作品はちょっとなぁ…」と言われて自信を喪失しても、半年後に読み返せば「うん、これはこれでやっぱりたいへんよくできた」と思った。

ただのあほの自画自賛にしか聞こえないかもしれないが、その通り、あほであり、あほである。

「こうして反省がないからデビューできなかったんだ」と言われればもうぐぅの音も出ず、恥ずかしさと失意のうちに奥多摩の山に引き篭もりたい気持ちになる。
しかし、わたしがここで言いたいのは、そのような客観的な評価を受け入れられる・られないの話と対立する話題ではなく、「ただ、書くことが好きで、自分が文として表出したものを大切に思っている」ということだ。

繰り返される「や り な お し」

小説にかぎった話ではないが、何かひとつ作品を作り上げるには、自己満足の世界であれ、莫大な時間と、試行錯誤が必要だったりする。
自分が表したいこととその文章に乖離がないか、何度も自問して、推敲する。
それは、長い長い旅だ。

そうしてようやくひとつの形になったものを、仮に人から「つまんね」と投げ返さても、自分くらいは「これでよし、よしよし、いい子」と、あいしてあげてもいいんじゃないかと思うのである。
まさに、自分こそがその作品の生みの親なのだから。

(もちろん、これは個人が何のしがらみもなく創造した作品の話で、商業的な価値を求める作品かつ自分以外にも評価基準があるならば、関係者と対話しながら作り上げていく必要があるだろう)

今朝はふと、そんな書くこと、書いたものを大切にすることを再考し、そのための場を極めて温かいムードで提供してくれるプラットフォームとしてのnoteにありがとうの気持ちを抱いた。

つまり、最近、娘にも飼い犬にも相手にされなくなりつつあるわたしは、投稿10日目にしてnoteに、(キープムービングの東京にあってデパートのトイレ近くに設置された椅子のような)「居場所」を見出したのであった。

つづく

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