【短編小説】初夏を聴く #シロクマ文芸部
「初夏を聴きたい」
今際の際にそうつぶやいたハルコの細い手を握りしめ、寅吉は皺の寄った妻の顔を真上から覗き込んだ。
「初夏ってなんだ、ハルちゃん。何が聴きたいって!? もういっぺん言ってくれッ」
しかし。寅吉の呼びかけはもう彼女には届かない。
ゆっくりと瞼を閉じたハルコの呼吸はしだいに遠くゆるやかになってゆき、小さく吐きだされた最期の吐息が真っ白な病室に吸い込まれてったところで、彼女は65年の生涯を終えた。
「イヤだ、おいてかないでくれ。ワシに一人暮らしは無理だ、ハルちゃんッッ」
一緒に連れて行ってくれえええ!!と叫んで泣き崩れたあの日から1年。
無事ハルコの一周忌を終えた寅吉は、深夜、ひとりで仏壇の前に座り込んでいた。
悲壮な顔つきでハルコの遺影をみつめる寅吉が物言わぬ彼女に語りかける。
「ハルちゃん、答え合わせだ。見事ハルちゃんの初夏を当てたら迎えにきてくれ。ワシもそっちに行きたい」
もちろん返事などないが、寅吉は彼女と一方的に約束を結んだ。
何かをたしかめるように「うむ」と頷いてから仏壇に手を伸ばし、チーンとひとつおりんを鳴らす。もう一度ハルコの遺影に手をあわせ、キチンと姿勢を正した寅吉がおもむろに口をひらいた。
「ハルちゃんの聴きたかった初夏は‥‥蝉、やな? どうだ。正解か?」
シーーーーンと静まり返った仏間にゲロゲロと蛙の合唱が木霊する。
「くそ、蛙だったかも‥‥。仕方ねえ。ハルちゃん、また来年だ」
こうして二人の‥‥というか、寅吉の孤独な闘いは翌年に持ち越された。
「蛙!」
「花火か?」
「ビールあける音ッ!!」
「えーっと、今年はーーー」
と、そんなやりとりをハルコの命日に繰り返すこと十年。奇しくも寅吉はハルコと同じ病を患った。
身体はどんどん瘦せ細り、痛みを和らげるための鎮痛剤で頭がモーローとする。うつらうつらとしながら寅吉はある初夏の夜のことを思い出していた。
ハルコはビール片手に枝豆をつまみ、茶の間に転がった寅吉はイカをくわえて野球中継をみていた。
『随分暑くなってきたわね~~。おかげでビールが美味いのなんの。‥‥そうだ寅ちゃん、あれ歌ってよ。夏といえば寅ちゃんのーーーー』
『ああ、えーよ。えーけどまずはサブローが1発かましてからな。今イイとこなんだ』
寅吉の両目がカッと見開かれた。
そうか、わかった!
わかったぞ!
「ーーーせっ、せーこちゃん・・・・」
乾いた唇を動かして、寅吉が小さく呟く。するとそれを聞き漏らさなかった耳ざとい長男辰男が枕元で眉を吊り上げた。
「はあん!? せいこって誰だよ、そこは嘘でも『ハルコ』だろ!!」
「うるせーなあ。耳元で怒鳴んじゃねえ。せーこちゃんなモンはせーこちゃんなんだよ。ああ、これでやっとそっちに行ける。ハルちゃんーーー」
「なに言ってんだ父ちゃん、おかしくなったんか!? ーーーハッ、もしや‥‥薬のせい?」
辰男にジロリと一瞥くれてやってから寅吉はそっと目をとじた。
ちゃうわい、ワシの頭は正常じゃい。
正常だからこそハッキリとわかる。ハルちゃんの聴きたかった初夏はせーこちゃんのあの曲で間違いない。
な? そうだろハルちゃんーーー
満足そうに微笑みながら、寅吉は静かに息をひきとった。
「くっそう、せいこって誰だよ。父ちゃあああんッッ」
寅吉の腹に顔をうずめて泣き崩れていた辰男だったが、突如むくりと頭をおこすと、彼は病室の窓のむこう側にジッと目を凝らした。
「今、そこの松の木で父ちゃんと母ちゃんが笑ってたようなーーー」
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