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もっと軽率に、「傷ついた」って言ってもいいよね


高校生くらいだっただろうか。
「つらい」って言っていいのは、大切な人を亡くしたくらいの大きな悲しみがあった時だけ、
「傷ついた」と言っていいのは、本当にひどいことをされた時くらいだ、と思っていた時期があったように思う。

自分の中に湧いてきた"つらい"を、"世界にはもっとつらい人がたくさんいる"と打ち消す日々。
よくもそんなに忍耐力があったなと思う。
おかげさまで、まだ「つらい」「傷つく」は苦手ワード。別に得意である必要はないけど、やっぱり本当に何かあったときにだけ言っていい言葉、のような認識がある。

だけど最近、毎週金曜日、わたしの心はじわじわ溶かされているのだ。

それが、ドラマ「スナック・キズツキ」。
ドラマは、こんなナレーションからはじまる。

誰かに騙されたわけじゃない。
誰かに裏切られたわけでもない。
泣きたいほどひどい目に遭ったわけではないけれど、ほんの些細な出来事に、心が傷つくことがある。
なんでもないような顔をしてやり過ごしても、少しずつストレスは溜まっていく。
まるで、箪笥の裏の綿埃みたいに。

とある町の路地裏に、傷ついた者がたどり着くスナックがあるらしい。その名もスナック・キズツキ。


そうなのだ、別に、特筆すべきなにかがあったわけではないのだ。それなのに、疲れているし、なんだか苦しい。

そんな日のことを、「傷ついている」って言ってもいいんだと。
誰かに明確な悪意を向けられた訳ではなくても、
人と人との間に生まれる摩擦に疲れてしまうことを、「傷つく」って表現してもいいんだなんて。

心の中にもやもやがあることも、「傷」なのかもしれない。
それは切り傷のような、ささくれのような、ときどき痛いと思っても、放っておけば治るようなものなのだろう。
だけど、そんな些細に見える傷も、ちゃんと絆創膏を貼ってあげる温かみを求めているのだ。
いや、些細な傷だからこそ、かもしれない。

きっと、こういう傷は、自分や誰かからのやさしさを向けられたら、途端に治ってしまう。
でも、多くの人は、こんなかすり傷、放っておけば治るよ、とそのままにしておいているような気がしてならない。

それは、傷を傷だと思っていないからかもしれないし、自分の小さな傷よりも大事なものがあるからかもしれないし、そんな些細なことに構っている余裕がないからかもしれない。
もしくは、傷だと思ってはいけないと、無意識に決めてしまっているからかもしれない。

もう、到底それを傷とは感じられないほどに、傷に慣れてしまった人も多いのではないだろうか。
だから自分は、傷ついているとは思わない。

でも、やっぱり、誰しも、生きてるだけで、傷を受けているはず。意識していても、していなくても。
だって、人と人が一緒にいれば、どんなに相性がよくたって、摩擦が起きるから。
しかも、明確な悪意よりも、誰かの善意やどうしょうもないすれ違いに傷ついてしまうことの方が、実はタチが悪い。

誰かの悪意は、悪意だと非難できる。
でも、善意にもすれ違いにも、悪者はいないのだ。
誰かの「良かれと思って」を無碍にした挙句、非難するなんて、罪悪感が優ってしまう。
もしくは、こんなことを思う自分が悪いのだろうかと、自分を責めてしまったり。
そうこうしているうちに、受けた傷は見過ごされ、かさぶただけが残っていく。
でも、傷はまだ傷として残っていて、不完全なかさぶたは、いともたやすく剥がれてしまう。
そんな、傷。

わたしだってたぶん、傷ついている。
そして、人と関わっている以上、誰かを傷つけている。
しかも、大切な人から順番に傷をつけているのだろう。

でも、同じように、人の傷を癒す力も持っていると思いたい。
そして、できるなら、癒す方の力をたくさん使いたい。

人の傷にこっそりこっそり絆創膏を貼ってまわれたらいいのに。
きっとそんなことはできないから、まずはわたしも含めてみんなが、傷を傷だと、傷ついたと、感じられるようになったらいいと思う。

傷つけられたから謝れとか、癒やせとか、すぐさまに要求するわけじゃなくて。
ただ自分の中にある、いつ受けたかもよくわからないけれど、たしかに残っている「傷」を、ちゃんと認めてあげられたいし、それぞれが認めてあげてほしい、と思うのだ。

そうしたらきっと、自分や誰かが、治そうとしてくれるから。癒してもらえるから。そっと寄り添ってあげられるから。

そういうあたたかい循環がつくれたら、どんなにいいだろう。
せめて自分の周りだけでも、そんな関係を、巡り合わせを、つくりたいなと思った。

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