街の姿

素敵な街の写真を見たら、自分の街の今の姿も撮っておきたくなった。

天気が良かったので散歩ついでに懐かしい建物だとかを写真に撮っていた。気付かぬ間にかなりの建物が新しいものに置き換わっていて、嬉しくもあるし寂しくもある。今の風景は今しか無いから、街の姿を撮っておきたい。


街の観察

子どもの頃の街を見たいな。あの頃はスマホなど手軽に写真を撮れる物が無かったから、記憶の中にしか無い。記憶をプリントアウトしたい。でも記憶は記憶でしかなく結局主観なのだ……。写真は撮れるうちに撮っておかなくてはならない。今その瞬間を焼き付けるために。

昔の煤けた街も好きだし置き換わってきた今の街も好きだしどちらも残っていてほしい。
地元、最近の建物とはいえどれもギラギラしていない。むしろ昔よりも童話っぽい街並みになってきた。
一昔前の家は生活感があったので現実みがあるというか。良い物、悪い物含めて古いものは無くなっていくのだ。無落雪の家が増えてきて滑り止め付きトタンの三角屋根なんかも無くなってきたな。

何気ない街並みの古い写真が残っていたから歴史考証のピースが一つ埋まった話だとか、断片的な古い街並みの写真を集めて当時の街並みをほぼ正確に再現した作品だとか、何気ない景色一つとっても後世どうしても必要とする人が出てくるようで、何気ない「今」って大事です。

「この世界の片隅に」で当時の街並みが再現されていて懐かしむ人がいたという話を聞いた。生活を描いた映画だったから、生活を再現したんだなあ。

考現学

これって考現学みたいなものだろうか。
考古学が昔の資料から考えるものに対して、現代の物を通して考える考現学。人のファッションだとか街並みだとか、道具類だとか、そういうものを記録していた人を思い出した。今和次郎という。
(話は逸れるが先日、今和次郎の兄弟である今純三の絵を見た。精緻であたたかな線だった。まじまじと見つめてしまう。その絵は街の記録にも一役買っている。)

郷土館だとか歴史資料館だとかもそういう意味で過ぎ去った現代を保管してくれていたりするので、影が薄くなりがちなんだけれど実は大事だったりする。

考古では今の自分を知ったりルーツを明らかにするために保存するという考え方があるみたい。また、過去とは保存しないと失われるだけだから誰かがまとめて記録しておかないといけないのだとも。
未来を向いて新しい物を作り続ける仕事はわかりやすいのに対し、過去に向いた「保存」の仕事はなかなか理解されなかったりする。

積み重ねてきた「安全」の話

やや違う方面の話。
生活に関わる「安全」は何世代にもかけて積み上げられてきた財産なのだが、当たり前すぎて忘れがちで、また何事かが起こらないと話題に上がらなかったりもする。食だとか作業だとか機械だとかの話を聞きながら、危ないよという警告を小出しにしていく重要さを噛み締める。

街並みにしても安全にしても、薄れるままにしておくには惜しいことがたくさんある。当たり前に存在してそして過去となっていく「今」や「記憶」を記録していきたい。
これまでも記録していくことや残していくことについて書いてきたが、これからもこういったものに目を向けていく。

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