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人生

過去の話をする
思い出になんてしてやらねえぞ、という強い気持ち

保育園が嫌いだった。妹が入ってくるまでの年少、年中は毎日泣いて通った。お昼寝と給食が苦手だった。寝れないのに横にさせられてとなりで先生が手でポンポンした。敷布団の頭の方にはカビゴンのアップリケが付いていて、それをお母さんだと思ってね。と言われていたので手を添えて時間が過ぎるのを待った。
給食を食べきれない。時間がくるとまだ食べ終わってないのに、白米が入ったお弁当箱に麦茶が注がれる。私は勉強がしたかった。家では足し算引き算のドリルを解いて遊んでいた。
発表会などが苦手だった。振り当てられたセリフが言えるか不安で家でも泣いた。当日には手や腕にセリフを書いていった。字が書けて、読めてよかった。
学校への苦手意識はここで生まれた。

小学校は泣かずに通った。
怒られたくない、という感情に支配されだした。
親の機嫌をうかがうようになった。
小2のとき、死にたいと思うようになった。漠然と。
母親に話したらびっくりしたせいか叩かれた。
第1波はこれだ。
希死念慮はそれからうっすらずっと続く。
小4、小5になると毎日鼻血が出た。1時間止まらないことがざらにあった。恥ずかしくて嫌だった。マスクをするようになった。寝る前には枕元にあるぬいぐるみの腕を握り、「明日鼻血が出ませんように。怒られたりしませんように。」と50回くらい繰り返して祈った。
小6では保健委員会の委員長をした。今までも学級長になりがちな私だったので当たり前のことだった。保健室は落ち着く場所だった。

私の中学校には色んな小学校から集まる。
部活を始めて、勉強もそこそこがんばった。
3年になると希死念慮第2波が来た。心療内科へ通った。潔癖症が酷くなった。すぐ手を洗う。バスタオルを敷かないと家の床に座れなかった。色んなこだわりが強くなった。
いつでも死ねるように私のものを捨てた。雑貨屋さんのような部屋からなにもない部屋に変わった。
今でいうミニマリストだ。
受験のプレッシャーだったのか、合格したら落ち着いた。

高校は楽しかった。マスクを外して過ごせるようになった。5年間のマスク生活終了。
一目惚れした先生のことしか考えてなかった。目立つ為に成績1位を目指して勉強を頑張った。生徒会も楽しかった。
高2のとき、調子が悪そうだった友達に声をかけた。
自分自身心が弱いせいか、レーダーが働き、そういうのに気が付きやすくなった。
その子は家庭に問題があるらしかった。私ひとりで解決するのはまず無理だった。大人に頼ろう、先生に話してみようと動き出した。
でもその子は落ち込んでいくばかりだった。すぐ死のうとした。私の持つ語彙力最大限発揮して引き止めることしかできなかった。
夜、お風呂から上がってドライヤーをしているとその子から電話が掛かってきた。死にそう、だった。
薬を沢山飲んだらしい。
現代っ子、友達のLINE以外全て知らない。家どこだ…住所わからないので私が救急車を呼べない
息絶えだえなその子に、救急車呼ぶんだよ!必ず!と言った。返事は聞こえなかった。
電話を切り、担任の先生に電話する。事情を話し、住所を教えてもらう。
救急車の音がした。それでありますようにと思った。
家へ向かうと誰もいなかった。

次の日、私は普通に学校へ言った。担任の先生に呼び出された。その子は無事らしい。
しかし、記憶を無くしていた。自分以外の記憶を。
親のことも、私のことも。

その子は学校に行きたがった。勉強をしたいらしい。
担任の先生からの計らいで、リハビリとして私が最初に会うことになった。
自己紹介をして、色々話した。
クラスメイトの似顔絵を描いたりすると、笑ってくれた。
その子はたまに母親と学校に来るようになった。
その日、その子は、テストを別室で受けていた。
総合学科だったので、みんなが同じ科目を勉強する訳じゃなかった。私はその日テストが無く、ホームルームに出席して帰るところだった。
先生に呼び止められ、その子の話をした。
その途中、電話が掛かってきた。私と先生はその子の教室へ走っていった。
たくさんの先生とその子のお母さん、私、保健室。心臓マッサージ。救急車を呼ぶ先生。私だけが立ち尽くしていた。なにもしなかった。その子のカバンには私に宛てた手紙があった。遺書。
救急車には私とお母さんが同行した。
病院に着いた。無事だった。部屋に私だけ来るよう呼ばれた。
その子は、死にたかったと泣いた。なんで助けたの?と聞かれた。
なにも答えられなかった。
お母さんと待合室で2人きり。お母さんはその子の愚痴を私に話した。
担任の先生が私を迎えに来てくれた。学校へ戻る帰り道にパンを買ってくれた。職員室でパンを齧ったら涙が出た。

そこから数日が経った。一目惚れした先生に呼ばれた。
「君は頑張りすぎた。もうなにもしなくていい。この事は大人でやるべきことだった。巻き込んでしまった。担任の先生はあなたを頼りきっている。それは間違っている。僕が叱る。君は今元気にしているけれど、嘘だ。休んで。」
と言われた。いきなり言われて訳が分からなかった。
後日、担任の先生は私に謝った。
私の好きな先生はまだその時28歳で、私の担任の先生は定年退職目前だった。
本当に怒ったんだなあ、と思った。
それから私は先生の信者だ。

その子と連絡しなくなった。お母さんから連絡が来ることも無くなった。
私は事切れたかのように調子を崩した。
精神科に通い始めた。学校に行けなくなった。拒食症になった。拒食症のせいで親と仲が悪くなった。私の母親は毎日機嫌が悪くなった。苦痛だった。
高校3年の9月に高校を辞めた。通信の学校に通い、幸い半年で卒業できた。

親は進学のため、県外に出ることを許してくれた。
心配しかなかっただろうに、私を想って決めてくれた。母親はその頃から考え方が変わったらしく、あまり怒らなくなった。

大学は楽しかった。住みたかった京都。知ってる人が居ない場所。楽しく過ごした。頭痛が酷く、梅雨は授業を休んだりしたが、成績はよかった。
先輩と沢山遊んだ。
2回生になるとコロナが流行りだした。オンライン授業は苦手だった。私は大学でもうまくやれなかった。学校は向いてないとつくづく思った。行くのを辞めた。
バイト三昧の日々が始まった。大ブラック企業である。おまけにパワハラ上司ときた。
私は人生で初めて嫌いな人ができた。2人。初めての経験に不安になって母親に電話した。
しかし選んだ職種はよかった。葬祭業。今の職場も同じ職種である。
私はこの労働環境で性格が悪くなった。自分を責めていたら耐えられないと気づいたのだった。すぐ嫌いな人間のせいにした。
遊びまくった。人には言えない。

バイトを辞めた。大学を休学することにした。
先輩とまたいっぱい遊んだ。あまり仲良くもない先輩に誘われた。フッ軽な私は夜中にも関わらず顔を出した。酔っ払いすぎて布団を借りた。先輩も横になっていた。ふと、死にたい。という話をした。私は何故か泣いていた。先輩はいきなりチューしてきた。
今の彼氏である。

地元に帰ってきてバイトを探した。幸せなことに葬祭業にまた携わることが出来た。

復学を決めた。京都に戻ってきた。
私は自殺未遂をした。ほかで書いているのでここで詳しくは書かない。
結局大学はまた通えずに、辞めた。

今は地元のバイト先で雇ってもらい、働いている。
調子の悪い日も多々ある。相変わらず死にたい。
死に憧れていることに気がついた。歳をとることが怖いことにも。

私はこの22年をあと何回繰り返すんだろう。80歳が平均寿命だと聞く。

私は、私は

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