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ただ生きているだけで感じる息苦しさ

 四連休中に美容室や買い物に行った話をnoteに書こうとして、ためらう自分に気づいた。地域によっては感染者数が再び増加しており、外出自粛を呼びかける自治体もある中で、能天気に外出の際の感想を書いてもよいのだろうか。そんなことを思った。

 美容室や買い物は県をまたがるどころか、徒歩30分圏内の話で、マスクもつけているしアルコール消毒も店に入る度におこなっている。そもそも、最近は会社での在宅勤務すらほとんどしておらず出勤しているような状況だ。それなのに、何を今更気にしているのだ、とも言える。

 一方で、私がこんなふうに人の目を気にしてしまうのには、思いあたる理由がある。それは、第一波のときの出来事である。私の勤務先の営業所で発熱した社員が出たときに、その社員がちょうど疑わしい時期にかなり遠方へ旅行をしていたことが発覚し、それについて糾弾している人の発言を偶然耳にしたのである。

 なんでこの時期にわざわざそんなところに行ったんだ?
 それは予定されていたことなのか?

 同席していた別の方が話を進めようとしても、それらの質問はきつい口調で執拗に繰り返された。社員の落ち度を明らかにし、糾弾しようとしているようにしか聞こえない発言の数々。思い出すだけで、胸がキュッとなる。

 企業によって、PCR検査の陽性者が出た場合の方針や、そもそも出勤しないとできない業務であるかどうかは様々であると思う。私の勤務先は、在宅勤務でできる業務はあるけれど、出社しないとできない業務もあるようなところで、PCR検査の陽性者が出て仮に営業所を全面封鎖するという判断がなされれば、支障をきたすのは間違いない。影響は小さいとは言えず、それを考えれば旅行をするのは軽率ではある。

 しかし、だからといって糾弾してどうなるのだろう? 私は思ってしまう。それは周囲を萎縮させ、他に発熱者が出たときに素直に申告が出ないような事態になるのではないか。そもそも、状況が状況とはいえ、社員の私生活を会社が制限するような指示を出すのは、行き過ぎではないのか? それを素朴にあたりまえなこととしている自分の感覚を疑わないのか? もはや気をつけていても誰が感染しているかわからないような状況の中、どういうケースなら感染しても致し方ないと、このケースは許しがたいと、その人が個人的な基準で判断をくだすことに私は我慢がならない。

 心の中で思うだけ思って、私は、みじめにも、自分が第一の陽性者に万が一なってしまったらどのような恐ろしい事態が訪れるのか想像して震えあがり、とりあえず外出は自粛しようと考えた。

 ただ、それでも生活は続いていく。もはや政治の方針も、感染の実態もわけがわからないような中で、いつまでも髪をだらしなくのばし続けるわけにもいかない。服がなさすぎて着る服がないから、買いに行くのは許してほしい。

 許してほしい。私は、何に許してほしいのか。何を怖がっているのか。

 何をしに外出するのなら許されて、何なら許されないのか、その線引きすら人によって異なる。人によっては外出自粛に反対している場合もある。自分なりの価値基準を持って行動を選択していくしかない。それ自体は常に求められていることではあるけれど、多くの場合、人は他人の価値基準や言動に無関心だ。今は、関心の強い人も少なくない。

 ただ生きているだけで感じる息苦しさ。

 東京オリンピックが何事もなかったかのように開催される世界を恋しく思う。

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