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死にたいんじゃなくて、本当はつらい原因をとりのぞきたい

 先般、痛ましい事件が発覚し、尊厳死や安楽死についての議論がやおらTwitterで沸き起こっていた。わたしはその流れの中で、「人が死にたいと思ったときに、そのまま死ぬことを援助するのではなく、どうすれば生きたいと思えるか支援することが大事なのではないか」「多くの人は完全無欠に死にたいと考えているのではなく、多くの場合何か原因があって死にたいと考えているのだろうから、その原因に対してアプローチしたほうがよいのではないか」といった意見を目にして、それらがスッと自分の中に染みこんできたのを感じた。

 上のnoteでも、生きているのがつらい、それは会社が嫌だからだ、と情けない言説をつらつら書き連ねた。じゃあ死ねばいいじゃん、と思う人もいるだろうが、わたしはどうやら本心から死にたいと思っているのではなく、嫌なことさえ取り除ければ生きたいと思っているようだ。

 人から見ればちっぽけな積み重ねかもしれないが、それまで勝ち得たものを捨てて、死のうと思ったことがあった。しかし、わたしは死ねなかった。首を吊ろうと思ったホテルの一室で、電気コードで無理やりつくったワッカの前で、あ、だめだこれ、とわたしは思った。わたしには無理だ、と。ホテルじゃなくて山中だったら、とか、そういう舞台設定の問題ではない。わたしには首を括れない、自分で死を選択できないというどうしようもない事実をそのとき認識したのだ。

 もう死ぬために社会的なものは捨てるようなことをしたから、会社や家族、一部では警察にも迷惑をかけた。たまにわたしはもうここにいるべき人間ではないのにどうしてまだしがみついているんだろうとおかしくなるときもある。それでも、わたしは生きている。心の底で、生きていたいとわたしは思っているんだとあのホテルの一室でつきつけられたから。あそこまで大騒動を起こして死ねなかったわたしは、もう死のうとするだけ無駄だな、という諦めもある。

 生きるのは嫌だと思う。そう思うくらい、会社が嫌なんだけれど、一方でその会社にしがみついているのは、今の会社から受けられる金銭的対価や福利厚生には満足していて、自分の感じるつらい人間関係は転職によって解決されるか不明瞭で、より状況が悪くなるのではないかという恐怖を感じているからだと思う。

 一緒に仕事をしている人間関係が自分にとって最高な状態なら、自分にとってやりがいを感じられる仕事をできているなら、わたしは生きるのが嫌なくらい会社を嫌うことはないと思う。そして、それを実現するか、現状を受け入れるかどちらか、あるいは双方のアプローチを実行していくのが肝要なのだろうと思う。

 まあ、ただ、正直なところをいえば、そんな正攻法をとれる元気すら最近は乏しいというのが現状で。いざ休日になればとにかく寝たいし、平日は寝つきの悪い日となんとか寝られる日を行き来しているし、なんとかこの状況はどう転んだっていつかは変わるというのだけを支えに頑張っている感はある(人が入れ替わる職場で働いているので、否が応でも必ず職場の人間関係が変わる)。

 どっかでどうにか打破しないと、と思う。その打開策がうまく思いつかない。何かしら手足を動かし続けるしかないんだろうけど。

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