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てちは尾崎豊だったのかもしれない

備忘録 #2

いまから10年以上前、東京で就職活動していた頃、テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」を終いまで観てから寝るのが日課だった時期がある。ニュースの中身にはほとんど興味はなかった。エンディングで東京の夜景を空撮した映像が、福山雅治の「Freedom」に合わせて流れるのが好きでずっと観ていた。力強いのにとても切なくて、地方から東京に上がった者の哀愁を表しているように思えたから。

欅坂46のラストアルバムになった「永遠より長い一瞬〜あの頃、確かに存在した私たち〜」TYPE-Bの特典Blu-rayに、平手友梨奈のソロ曲「夜明けの孤独」のLIVE映像が収録されている。

譜面を丁寧に目で追うように、ピアノソロを弾くてちの横顔が、驚くほど幼く穏やかなのだ。「不協和音」や「ガラスを割れ!」で髪を振り乱しながら猛り狂ったように踊る姿のそれは対極にさえ思えるほどに。発表会の一幕を見ているような、懐かしい気持ちになってしまう。

過大な評価を背負い、過大な期待に応え、自分たちにとって結果的に諸刃の剣だった強烈なパブリックイメージと闘い続け、ほとんど満身創痍の状態で、ひとときの安らぎに満ちた時間を小さな指先で追い求めるように、僕の目には映った。


いつだったか、平手友梨奈を尾崎豊になぞらえたメディアがあったけれど、その表現はあながち間違っていないように思う。そう思うか思わないかは受け手の判断であり、僕は少なくとも前者だ。

先の「夜明けの孤独」で、歌詞の中にハミングする部分があるのだが、透き通るような、ちょっとハスキーなハミングは、小さい頃にテレビドラマのテーマ曲で聞いた尾崎豊の歌を思い起こさせた。似ている似ていないではなく、”思い起こさせるかどうか”が僕の重要な判断基準だから、僕の中では解決されたのだ。

大切なのは、雰囲気なんだ。

てちがステージや、僕らの耳に残して行ったものは、今も残響のようにこだましている。これだけは間違いない。その価値を自分が自分なりに捉えられていれば、それで十分だと思う。誰が何をどう言おうとも。

これから10年先、20年先、もう語られることさえなくなっても、音楽そのものが消え去るわけでは無い。きっと、誰かが、ふとした時にもう一度出会うのだろうと思う。あるいは、10年、20年に見合うだけの労苦と成長を経て、音楽に再会するのだろう。ステージの上で孤独にハミングをしていた色白で純朴な少女の姿をそこに発見するのだろう。

そうか、ずっと、そこにいたのか。

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