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いのちの話

※当記事は、命についての私的な考えを記載しています。


人は本当に追いつめられると、死にたいと思うまでもなく死に方を考えるし、ホームに入ってくる電車に吸い込まれそうになる。

自分の意思とは違うところで、足が一歩を踏み出そうとする。
その感覚を味わうと、外出するのが怖くなる。

自分には生きる理由があるのだ。
生きたいんだ、と、常に確認していないと、そちら側へと流されそうになる。

きっと、本当に死にたいと思っている人は、いないと思う。
様々な原因があり、これ以上つらい状態が継続するだけの生を終わらせたい、と思うのと、積極的に死にたいと思うのとでは全く違う。

つらさが解消されるのであれば、その方が良い。
けれども、どうしたって解消されない問題だから、苦痛を終わらせたい。
そう思う気持ちはとてもよくわかる。

苦痛を感じないように、もう少し生きていても良いかもしれない、と思えるように、一日一日をなんとか繋いでいく。
そういう人たちにとっては、何気ない言動がとても大きな打撃になったりする。

明確な理由や原因がなく、つらい状況が続く。
良い時もあるけれど、次の瞬間には気分が落ちていたりする。

食事の最中、何気なく同席していた誰かが話していたことに、ひどく傷ついたり、心が痛んで、食べる気が失せてしまうことがある。
そういうことは、どんな人にも起こりうるだろう。
わたしの場合だが、身体の力が抜けて箸やスプーンなどを落としてしまうことすらある。

過去、度々、小康状態の時に、健常者を装って、装いきれずに崩れ落ちてきた。
そうして慢性化して今に至る。
気分の浮き沈みは自分でも本当に理解不能だ。

「死にたい」と言う状態に至るほどつらい状態にある時。
どうしたらつらくなくなるだろう?
全くつらくない状態になるのは難しくても、少しでもつらさが軽減するように、何をしたらいいだろう?
なにか、手伝えることがあれば、手伝うよ。
と、寄り添ってくれる人は早々いないのだ。

そして、本当にすがるような気持ちで相談ダイヤルにかけた時、話し中で繋がらなかった時の絶望感は半端なかった。
けれども、わたしは、自分がそうしてすがるような気持ちで電話をかけたという事実に気が付いた。
自分は、生きようとしているんだ、と。

誰かに助けてほしいと思う気持ちがあるのなら、それは、助かりたい、生きていたいという思いが根本にあるからだと思う。

今もなお、そういう日はある。
どうしようもなくつらくなる時。
理由もなく、苦しくて涙が出てくる時。

心の中で「助けてください」と唱えるだけで、気持ちが変わることがある。
見えない存在は、常にそばにある、と信じている。

この手の話をする時には、常に注意書きとして添えるようにしている。
わたくしは無宗教だ。
敢えて言うなら八百万の神信仰。
付喪神は在ると思うし、西洋で言う妖精や天使と、日本で言うところの妖怪は、似たようなものだと思っている。

そして、神経という言葉から、神は神経がある全ての生き物の中に存在する、と考えている。
「助けてください」と言葉にすることで、自分が自分を助けようとするという考え方が出来る。
その「助けてください」は、少なくとも自分自身には届くはずだからだ。

人は一人では生きていけない。
「助けて」と言っても、誰も助けてくれなかったから、言うだけ無駄だ。
と、諦めてしまった人もいると思う。

それでも、「助けて」と言い続ければ、いつか誰かに届くかもしれない。
声をあげなければ、まず誰にも気づいてもらえないから。
助けてほしくても声を上げられない人を救おうと、積極的に探そうとしている人たちが、たまたま偶然見つけてくれる奇跡が起こる確率はとても低いです。

だから、声をあげられる人は声を上げ続けてほしいと思います。
自分にを助けたい、助けてほしい。
その願いを、ためらうことなく言葉にしてほしいです。

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