【サムウェアー・イン・ザ・ガイオン・ナイト】

アンダーガイオン第七階層。強化コンクリートの天井部に留まった化学スモッグと、上層部から染み出した汚水とが混ざりあいできた重く穢れた水滴が垂れ、陰鬱に空気を湿らす。

その一区画、廃工場地帯。揮発した廃油にベッタリと覆われたとある社屋に大勢のヨタモノが屯している。その建物内、元は会議室であった部屋に一人の娘が監禁されていた。椅子に縛り付けられ、口にはガムテープ。痣だらけの顔、その両目いっぱいに涙を溢れさせ、俯きながら嗚咽を漏らしていた。乱雑に開いた穴から紐を通された証明写真を首からドッグタグめいてかけられており、そこにはイチノゼ・ミャンコの名が記されている。

「イヤーッ!」「……」ヨタモノの一人が娘の顔を無意味に殴りつけた。娘は僅かに身じろぎするばかりだった。

「泣き疲れちゃったかな?ンーンー言わないや。もうちょい待っててね、交渉終わったらいっぱい前後してから、帰してあげるからね」「シャカリキ・パーティかZBRフィーバーしよう」「オハギもあるよ!」「カラダニキヲツケテネ!」

悍ましい言葉が飛び交い、彼女の心を恐怖に染め上げる。もう囚われてから何日経つのだろう?数日か、数週間か……イチノゼにとってそれは永遠に思える苦痛の時間だった。


イチノゼ・ミャンコはアッパーの住人で、女子高生だ。普通の暮らし、普通の人生を送ってきた……間違いが起きたのは数ヶ月前。イチノゼは両親と激しく口論し、対立した。将来のためにといって課せられた塾やチャの作法、学校教育より上のランクのハイク講座……それらによって削られるプライベートの時間、交友関係への苦言……それら全て、幼少期の頃より強いられてきた鬱屈な戒めであり、彼女はずっと心に蟠りを溜め込んだまま生きてきた。それがほんの些細な注意で爆発した。イチノゼ・ミャンコは両親が初めて耳にするような口汚い罵詈雑言をめいいっぱいに浴びせ、家を飛び出した。

当然学校には行かなかった。友達にも頼らなかった。匿ってもらったとして、彼らの家族がイチノゼの両親に連絡するだろうと思ったからだ。

そうして無軌道に一人彷徨い歩いていたが、行き場がわからず、路地裏で蹲り泣いていた彼女に優しく声をかける人物がいた。アッパー出身らしい爽やかさと奥ゆかしさを兼ね備えた、端正な顔立ちの好青年だった。マギバラ・シマタを名乗った好青年はイチノゼに手を差し伸べ、そして彼女はその手を握った。

公園でベンチに座り、マギバラの買った暖かい缶コーヒーを手に、イチノゼは自身のことを語った。その苦痛の境遇にマギバラは深く共感し、自分のことのように心配し、憂いてくれた。そのうえで、両親の娘を想う気持ちを汲んであげてほしい、と言った。イチノゼは拒絶し、絶望し、彼の元を去ろうとし……その手を引き止められた。マギバラは優しく微笑み、彼女を匿うと言った。両親とは自分から話してみると、そう言った。彼はカチグミの家系で、ガイオン市警や色々なところにコネがあり、イチノゼを一時的に保護することに何ら問題はないと、そう言ってくれた。彼女は安堵し、マギバラに縋りついた。

彼の自宅に招き入れられ、イチノゼは人生で初めて安堵を覚えた。幸福の予感に胸を高鳴らせた。マギバラは紳士的な態度で彼女に接し、イチノゼの全てを受け入れてくれた。イチノゼは彼と共に過ごす時間の中で、幸せな将来を思い描いた。

ある時、マギバラが彼女をアンダーガイオンの上層区画へとデートに誘った。イチノゼは初め困惑したが、最上層なら観光客も多くタノシイであると言われ、その言葉を信じた。実際彼に誘われて向かったアンダーガイオンは活気にあふれ、アッパーでは味わえない刺激的な文化、娯楽があった。イチノゼはそれを享受した。それから何度もアンダーガイオンでデートした。第二階層に降りてみたり、第三階層で服を買ってみたり……アンダーに訪れる頻度はどんどん高くなっていった。

そんなある日のこと、マギバラは彼女にもっと下まで降りてみようと誘った。イチノゼはより多くのスリルと退廃的娯楽に胸を躍らせ、彼に従った。彼はどんどん下に降りていった。ゴウン、ゴウン、ゴウン……奈落の底に堕ちていくかのようなリフトの音にイチノゼは不安を覚えた。マギバラ・シマタは優しく微笑み、後ろからそっと彼女の肩を抱き、「ダイジョブだよ……」と甘く語りかけた。

リフトが停止し、ゲートバーが開かれる。イチノゼは先導してもらおうと彼の方を振り返った。張り付けた薄ら寒い笑みを浮かべた男の顔があった。マギバラ・シマタは彼女の背を突き飛ばし、手を振った。無機質な金属の床に倒れ込んだイチノゼは何が起きたのかわからず、彼を呆然と眺めるばかりだった。マギバラは別のゲートバーからリフトを降り、どこかへと去っていく。

イチノゼはやっと自意識を取り戻し、立ちあがろうとした。その肩を誰かに掴まれ、強引に引っ張られた。振り返ると、残忍な目をした見るからに野蛮そうな男たちが下卑た笑みを浮かべて彼女を見ていた。恐怖に泣き叫び、逃げようとし……そこでイチノゼは意識を失った。

「……だ殺……よ……」「……ギ……ラ=サン仕込みが遅……」

後頭部に受けた痛みと共に、声が遠ざかっていく。そしてイチノゼ・ミャンコは人生で一番の不幸と絶望を味わうこととなった。


酷い暴力があった。『ほどほどにしとけよ』とIRC通話越しにマギバラがヘラヘラと笑いながら宣っていた。『両親とは俺が話しとくからさ!……オイ、殺すんじゃねぇぞ?前後もまだするな!これはビズだ、ビズ』「アイ、アイ」

イチノゼは己の不幸を……否、己の無知と愚かさを呪った。後悔した。アッパーの人間なら優しく、クリーンで安全だと思っていた。マギバラ・シマタは邪悪な人間だった。彼女にはそれがまったくわからなかった……。

マギバラ・シマタ。アッパーガイオン出身で、カチグミ。そこまでは事実だ。より詳細に言うなれば、カチグミ家系の三男。家督は長男が内定し、その補佐は次男。彼はただ放蕩の堕落に耽る人間であった。

イチノゼのような不幸を気取った娘を絆し、アンダーガイオンの手勢のヨタモノを使って攫い、その家族に身代金を要求。ガイオン市警はアンダーの上層まではまだ対応するが、中層から下層に関してはろくに捜査せず、未解決事件として早々に切り上げられてしまう。それに加え、マギバラは腐ってもカチグミ家系に連なる者であるため、不都合の隠蔽などチャメシ・インシデントだった。頼れるものがない家族は要求を呑まざるを得ない。

そして要求が跳ね除けられれば、殺すか、闇カネモチに売り払い、応じれば身柄を返還する……ただし、重篤の薬物中毒に染め上げたりトラウマを患わせるなどをした状態で、だ。そうした娘は結局家庭内や社会での居場所を失い、自ら命を断つか、或いは……マギバラがスポンサーの一角を担う非合法オイラン商業施設にスカウトされるかすることになる。ナムアミダブツ……あまりに悍ましく邪悪な手口であった。

(((お父さん……お母さん……)))

イチノゼの胸中を染めるは悔恨。あれほど嫌悪していた両親のことが今はあまりにも愛しく、恋しい。マギバラの甘言に絆されて着たことのない扇状的な若者ファッションに身を包み、アウトローぶって高揚感に浸っていた自分がなんと愚かであったか。実際にアンダーの……本当のアンダーガイオンの空気は重たく、眼を開くのも辛い。喉も焼けてしまいそうだ。

(((身代金……払ってくれるのかな。それか、あんなバカ娘は知らんとか言って、勘当して……あぁ、そっちのほうが……いいかな……合わせる顔なんてないし、もう迷惑かけたくない……ゴメンナサイ……)))

段々と意識が薄らいでくる。激しい暴力と絶望感で、イチノゼ・ミャンコは心身共に衰弱してしまっていた。

「……騒……!……ア!?」「なん……!……オイ……」「誰……バッ……」「……ェエエ……ニン……」

何やら騒々しい。外から聞こえてくるヨタモノの声のようだ。薬物で錯乱しているのだろうか?これから訪れるイチノゼの末路を嗤っているのか……。

「アァー?なんだよ、オイ……?」

ヨタモノのリーダー格らしき者が首を傾げ、周りの部下に目線をやった。頷き、その者達が窓の方に近づいていく。そして外を見下ろし……眼を丸くした。ツキジめいたブラッドバスが広がっていたからだ。社屋外に待機していたヨタモノ達が無惨なネギトロと化していっている!

「何……何だこれは!?」「襲撃な!?」

動揺する部下たちを訝しみ、リーダー格もイチノゼを一瞥してからそちらに向かう。『ア?なんだよ、騒々しいな?』現場にいないマギバラの呑気な声には耳も貸さず、リーダー格は部下達を怒鳴りつけながら、窓から見える光景を目の当たりにする。

何か、異常な事態が起こっていた。恐慌するヨタモノたちが、悲鳴を上げながら不自然に宙に舞い上がり、鮮血を散らしてバラバラに引き裂かれていっているのだ。リーダー格は心中に尋常ならざる恐怖を感じた。それはこの光景を視界に入れた部下達も同様だった。何人かは口を手で抑え、ガクガクと震えている。その恐怖は、アブナイや死、そういったものへの恐怖ではなく、もっと深淵的な……闇の奥底から来る恐怖。もしや。もしや、アレは。姿の見えぬ殺戮者。もしや、もしや……!

……ニン、ジャ……?

誰かがそう言った。途端、確定した深淵の恐怖が伝播した。

「「「ア……アイエエエエ!?ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」」」

荒くれた暴徒たちが一斉に恐慌に陥り、ある者は嘔吐し、ある者は失禁!ナムサン、急性NRSだ!

『ハ?ニンジャ?……マジ?』空気感のズレたマギバラの声にリーダー格は舌打ちし、手の震えを堪えながらハンドヘルドIRCデバイスの通話を切断、ZBRを静脈注射して部下達に怒声を張り上げる……。

(((……え?ニンジャ?……何の話……大の大人がこんな……そういうノリ?変なの……)))

衰弱したイチノゼのフワフワとしたニューロンは現実的な思考を放棄していた。周りの喧騒も朧げだった。

(((ニンジャなんて、いないのに……)))

「ア、アイエエエ!!」

ヨタモノの一人が恐怖に耐えきれず会議室の入り口のフスマへ逃走。釣られて何人かが追従する!リーダー格が怒鳴るも聞く耳持たず。フスマに到達し……「イヤーッ!」

「「「グワーッ!?」」」

突如ヨタモノ達がフスマごと吹き飛ばされた。リーダー格と、辛うじて正気を保っている者達がゴクリと息を呑み、その光景を凝視する。何者かがフスマを乱暴に蹴り破り、室内にエントリーしてくる様を。

剣呑なアトモスフィア漂う陰惨な監禁部屋に侵入したるは……華奢で小柄な、美しい少女。彼女は空色の瞳に獲物を狩る獣めいた鋭い眼光を宿し、室内を睨みつけた。

(((え?……女の子?……ナンデ?)))

イチノゼは朧げな思考に明確な困惑を認めた。自分と同い年か、若しくは歳下に見える少女を見つめる。現実感が湧かなかった。

少女はクセの強い波打つ黒い髪を後ろで一つ結びにし、アーミーキャップを被っている。薄灰色のブラウス、ダークグリーンのカーゴパンツ。栗皮色のレザーブーツ。前を開けた、マントめいた丈の長い黒のケープコート……そして両手には……クナイ。返り血に濡れたクナイ・ダートだ!

そして、おお、見よ。彼女の背後、会議室に通じる廊下を。壁や床、天井に跳ねた悍ましい血の跡、斃れるヨタモノ達を。その死体には何れもクナイが突き刺さっている。ナムアミダブツ……その光景を作り上げたのは侵入者たる少女。只の少女に斯様な芸当が出来る筈も無し。然り、彼女は常人ならざる存在……ニンジャだ。ニンジャである!

「ウゥ……ッ!?ヤッ、ヤッチマエーッ!!」

動揺と恐怖を薬物投与の高揚で覆い隠し、引き抜いたカタナを少女に差し向けながらリーダーが叫んだ!

「「「ウ、ウオオーッ!!」」」

配下達もZBRやシャカリキ、各種違法ドラッグを投与し、血走った眼で手に手に得物を構え、少女に襲いかかる!

「イヤーッ!」「「アバーッ!?」」

少女ニンジャが肉薄するヨタモノ二人の額に躊躇なく正確にクナイを投擲し殺害、死体が崩れ落ちるより早く彼らが取り落とした手鎌とドス・ダガーに手を伸ばし掴み取る!

「イヤーッ!」手鎌水平投擲!「「「アババーッ!!」」」

手鎌は複数人の首を刎ね飛ばし、会議室の壁に深々と突き刺さった。少女はドス・ダガーを逆手に持ち、ヨタモノ一人の横腹を掻っ捌いた。

「イヤーッ!」「アバーッ!」「イヤーッ!」「「「グワーッ!」」」

別の敵へ向けて死体を蹴り飛ばす。腑を撒き散らしながら吹き飛んできた死体に押し退けられ、雪崩崩れになるヨタモノ集団。

「イヤーッ!」集団に飛び込み、辛うじて体勢を崩さずにいたヨタモノ一人の肩に飛び乗り、その頭頂部に逆手のドス・ダガーを突き刺す。「アバーッ!」刃先は喉奥まで貫通し殺害。少女は死体の両肩を踏み台に天井ギリギリまで跳躍した。

マントめいてケープコートをはためかせ、翻った黒地のコート裏に両手を伸ばす。その小さな手に掴みたるはクナイ・ダート。猫手めいて構えた手に握られる3本のクナイ。右左、合わせて6本。響めく敵達を見下ろし、決断的に投擲!

「イヤーッ!」「「「アバーッ!!」」」

殺害、殺害、殺害。骸の山に着地。刹那的な静寂。残すはリーダーのみ。

「イ……イヤーッ!!」

ヨタモノリーダーがカタナを構えヤバレカバレめいた突撃を……BLAM !!! BLAM !!!

「グワーッ!?」

炸裂する銃声。少女のコートの袖からスライドした二挺のデリンジャーが火を噴いたのだ。両肩を抉られた男がたたらを踏む。少女は敵意に満ちた眼でズカズカと歩み寄ってくる……。

「チ、チクショ……!」

リーダーは踵を返し、拘束されたイチノゼを見据え、決死の表情で駆け寄る。人質にとるつもりだ!呆然と彼を見上げる娘に近づき……CRAAASH !!!
突如窓が、いや壁が外側から打ち砕かれた!

「GRRRR !!! 」

「アバーッ!?」

迸る鮮血!ヨタモノリーダーの体が宙に浮かび上がり、振り回される。あなたが優れたニンジャ視力を、或いは優れたニンジャ第六感をお持ちであれば薄らと視認できるやもしれぬ。空気が微かに揺らぎ、朧げに輪郭が……透明な、巨獣めいた輪郭が浮かび上がり、リーダーを蹂躙する様を!

「殺すな!」

少女が声を張る。透明の獣は痛めつけた荒くれ者を床に吐き捨てた。「アバーッ!!」ボロ雑巾めいてべチャリと血みどろの男が床に打ち付けられる。「ア、アバッ……」不可視存在の気配が空間に溶け込み、消えて行く。少女ニンジャは息も絶え絶えの彼のもとへと足を踏み出した。

処刑人の歩みのように音を鳴らすレザーブーツ。少女が屈み込み、リーダーのズタズタになった腕を強引に引き上げ、ハンドヘルドIRCデバイスを引き剥がそうとする……「イ、イヤーッ!」嗄れた叫びはリーダーの発したものだ。彼は少女の手を無理くり振り払い、腕ごとデバイスを床に叩きつけ破壊したのである。カジバヂカラ!

少女は舌打ちし彼の胸ぐらを掴み上げるが、「モハヤコレマデ!」言うが早いか、ヨタモノリーダーはセプク用の隠しカタナを懐から取り出し、自らの喉笛を掻っ切った上、喉をカタナで貫いた。「アバーッ……」そして果てた。顔を顰めて少女は破砕したハンドヘルドを懐にしまい、屍を床に放り捨てた。

何か違和感がある。彼女はそう感じた。配下はともかく、リーダー格のこの男からは只のヨタモノからは感じられぬアトモスフィアがあった。何か裏がある。ただの誘拐事件では無い。確証はない。直感だ。そして彼女は自身の直感を疑ったことはない。動機、理由は後から幾らでもこじつけられる……少女は顔をあげ立ち上がった。椅子に縛り付けられたイチノゼの方にスタスタと歩いて行く……。

(((あぁ……本当に、最高に最悪だ。顔が良いだけの悪人に騙されて、誘拐されて、暴力を振るわれて……そのうえニンジャ。ニンジャ……ナンデ?……ニンジャに殺されるんだなんて。最期に、お父さんとお母さんに……謝りたかったな……)))

イチノゼは自嘲気味に笑い、少女の姿をしたニンジャを見つめる。視線が合う。彼女が一歩踏み出した。イチノゼは眼を瞑った。

「……?」

ガサゴソと物音がするだけで、痛みも何も訪れない。恐る恐る彼女は瞼を開けた。少女ニンジャはイチノゼの拘束を解いていた。

「……え」

口を塞ぐガムテープを丁寧に剥がされ、唖然とする彼女に対し、少女は少し表情を緩ませて言葉を紡いだ。「ドーモ。アズールです。イチノゼ・ミャンコ……で、合ってる?」

「アッ……ハイ、ド、ドーモ。アズール=サン。イチノゼです。イチノゼ・ミャンコ……で合ってます」

「立てそう……にないね」

アズールと名乗った少女ニンジャは暴力の跡が色濃く残ったイチノゼの姿を見やり、彼女を助け起こした。背丈はそう変わらない。まだ実感を得られていないであろうイチノゼの身を案じたか、アズールは気遣うように声をかけた。

「私はあなたを助けに来た。帰るよ、アッパーへ」


アッパー・ガイオン、居住区の一角。アンダーとはまるで別世界だ。基盤目の如き整然とした街並み、煌びやかでありながらも奥ゆかしい風景。陽は地平に沈みかけており、夕暮れと夜のグラデーションがアズールとイチノゼを迎えた。

そして、イチノゼ・ミャンコは両親と再会した。幼児のように泣きながら、彼女は二人に抱きついた。両親もまた、泣きながら抱きしめた。

……「本当に、ありがとうございます」イチノゼ・テバナとハイエはアズールに何度も何度も感謝の言葉を述べ、頭を下げた。二人とも、若干笑顔を引き攣らせてはいた。当然だ、ニンジャ存在感を濫りに振る舞いはしないが、アズールはニンジャであり。それもつい先程荒くれ者達を虐殺してきたばかりなのだ。纏うアトモスフィアは実際危険であり、不穏。故に常人は畏れる。だからと言って彼女はそのことに腹を立てはしない。慣れているからだ。

それでも、イチノゼ夫妻は誠意を持って応えた。その意味を彼女は心中に刻み、汲み取る。彼らの声に耳を傾ける。

……「もっと話し合うべきでした。こんな事になるまで気づけなかった……」「ありがとうございます、本当に……本当に、ありがとうございます。家族の時間を取り戻そうと思います」……。

様々な言葉をかけられた。アズールは最低限の相槌をうち、あまり話を長引かせないようにした。いま彼らが話すべき相手はニンジャではなく、自分たちの娘なのだから。

会話をほどほどに切り上げ、少女ニンジャはイチノゼ一家に別れを告げ、帰路についた。ケープコートが風に靡き、結んだ髪が揺れる。彼女は月を見上げた。イン・ヤン模様めいて二つに砕けた月を。


「ニンジャ……ニンジャ、ナンデ?」

マギバラ・シマタは自身の邸宅で顎に手をやりながら、忙しなく自室をぐるぐると歩き回っていた。

「俺の……俺の名前、バレてないよな……ログはこっちから消してるし……ダイジョブなはず……そもそも俺はカチグミなわけで……」

ブツブツと独り言を発しながら思案する彼の耳に、IRC通話機の通知音が届いた。急いで向かい、緊張した面持ちで受話器を取る。

『ドーモ。デクスタリティです』「ド、ドーモ、マギ、マギバラ、シマタ、です……」

通話の相手……デクスタリティと名乗った男の声音はひどく穏やかだった。対するマギバラは喉を枯れさせかけながら辿々しく言葉を発する。カチグミらしからぬ応対だ。物理的に離れ、音声通話越しにあっても常人にとっては恐怖の対象なのだ。ニンジャ……然り、通話相手は当然ニンジャ!

『シマタ=サン。何かありましたね?随分と声に覇気がない』「アッハイ、そのう……ニ、ニンジャがですね……」『ほう、ニンジャ!僕以外のニンジャと接触な?』

デクスタリティの声音は穏やかではあるがしかし、擬似餌を構える深海魚めいた危険さを孕んでいる。マギバラは端正な顔を深淵の恐怖に染め、歯がガチガチと噛み合うのを最小限に抑え込むよう努めながら会話を続けた。

「せ、接触はしていない!……です。いつもみたいにガキ攫って、それで……ガキの親に身代金要求しようとしていたら……」『ニンジャに襲われた』「アッハイ、アッ、俺は襲われてないです」

『それはそうでしょう。襲われていれば君は死んでいる。無駄な言葉を吐くために知性を割かないでいただきたい』

冷たい色をした声だった。マギバラは失禁し、意識を失いかけた。だがなんとか耐えた。ここで意識を失い会話を断ち切るシツレイを犯せば間違いなく自分は死ぬ!

「スミマセン!襲われたのは俺の部下連中で、その、通話ログ!ログは全部消したし、証拠も……俺の関わった証拠は残さないようにしているし、あのガキの証言だけなら警察にオハギでもやれば余裕で握り潰せるし、俺のことはバレない!全然問題ないです」

『君の関与が露見しようがどうでもいい。非ニンジャのカスはつくづく知性が乏しいね』「アッ……!アイエ、ンッ、ンンッ……!スミマセン!あなたのことはもう絶対!絶対に、バレませんので!」

本当に死んでしまう!マギバラはあまりの恐怖と緊張に引き攣った笑い顔を浮かべ捲し立てた。デクスタリティの穏やかな声が返ってくる。

『フム。このところ、どうも不快な。何か、嗅ぎ回っているネズミがいるようです』「ネ、ネズミな?」

その声音に若干の安堵を覚え、マギバラ・シマタは胸を撫で下ろした。だがまだ通話は終わっていない。受話器を持つ手はずっと震えたままだ。

『噂に聞く私立探偵か……しかし死んだという話も聞く……』「し、私立探偵」『シマタ=サン。君はどこの家柄?』「え」『エド戦争、戦いましたか?』

唐突に切り出された話題に彼は困惑した。返答に窮したが、しかし答えねばならなかった。

「……た。戦って、ないです」『三、四十年ほど業績を積み上げ、のしあがった。実際その程度のカチグミですね。マギバラ家は』「ハイ」『それが僕の考え事にいちいち余計な口を挟む。おかしいですね?』「ハイ、おかしいです」『卑しいですね?』「ハイ、卑しいです」

涙を流しながらマギバラは言葉を返した。何も言わず無言で話を聞いていたとしても、デクスタリティは気分を害していただろう。ニンジャとはそういうものなのだ。遺伝子レベルで刻まれた恐怖に身震いし、カチグミの三男は慄いた。

『まぁ、いいでしょう。僕は寛大で慈悲深い。許します』「ありがとうございます」『フム。まぁしかし……私立探偵が存在しているのなら……君に探りを入れてくるかもしれない。気をつけたまえよ』「気をつけます」『君が死のうがどうでもいいが、君経由で僕の元にネズミが来るのは不快だ。いいね?』「ハイ」『では。カラダニキヲツケテネ』

マギバラの応答を待たず、一方的に通話が切断された。ガチャンッ。彼は受話器を叩きつけるように置き、震え……ナムサン、眼を剥き、泡を吹いて失神した。


「これ、お願い」

アンダーガイオン中層部の鄙びた裏通りにかまえるキンギョ屋。小汚いランニングを羽織って番頭台に座るガンジーめいた風貌の老人に、アズールが破砕したIRCデバイスを差し出した。老人は眉根を寄せ、それを手繰り寄せる。

「お願い、たッてなぁ……こんなスクラップみてぇな……」

「直せないの?」

老人は丸眼鏡でスクラップ状態のデバイスを注視しながらおもむろにキンギョ鉢に手を突っ込み、中の五重塔を回す。アズールはカーゴパンツのポケットからクレジット素子を取り出し、番頭台に置いた。

「ログの解析もお願い。私にはできないことだから」

「つくづく人使いの荒いお嬢さんだ。老人は労われよ」

ガゴン。店の奥で音が立ててシャッターが開いた。老人は「今日は閉店だ。実際時間かかるぜ、こいつは」と言い、キンギョ屋のシャッターを閉めにかかった。その途中、彼は手を止めアズールの方を振り返る。

「ああそれと、コケシ=サンの方はまだわからん。進展あればまた連絡するよ」

言い終えると老人は閉店作業を再開した。アズールはペコリと頭を下げてから踵を返し、探偵事務所へと向かう。主を喪い、時の止まった私立探偵事務所へと。


埃っぽい空気が彼女を出迎えた。玄関扉を施錠し、ガラクタの山のような調度品たちを通り抜け、照明を点ける。アズールはケープコートとアーミーキャップを壁に掛け、ヘアゴムをほどき、髪を下ろした。肩下まで伸びる、黒く長い髪。彼女は応接室の机の上にファイルを開け、簡易的なレポートを書き残す。

その後、シャワーを浴び、軽く髪を乾かしてからラフなルームウェア姿になったアズールは、事務所奥の古い医療用パイプベッドへと向かった。簡素なフートンを敷き、寝転がる。

クリーム色の塗装が所々剥げた使い古しのパイプベッドが微かに軋む。僅かな安息感と焦燥感……その狭間に揺られながら、少女は瞼を閉じ……眠りについた。

サムウェアー・イン・ザ・ガイオン・ナイト 【終】

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