アーカイブ:【イン・リタリエイション・フォー・ハーシュ・リアリティ】
1.
POWPOWPOW……重金属を含んだ酸性雨が降り続く猥雑な街をサイレンが飾る。また、喧騒の声や上空を飛ぶマグロ・ツェッペリンの欺瞞的広告音声も連なっている。 その光景をボンヤリと見る浮浪者の側を大衆は通り過ぎて行く。脇目も振らずに。
「ザッケンナコラー!」「アイエエエ!!」誰か不運なサラリマンがヤクザに因縁をつけられているようだが、人々の流れはモーゼの海割りめいて分かれ、通り過ぎていく。大衆は皆、電子の小窓を覗き……あるいは音を聴き……目前の現実をシャットダウンしている。
喧騒。無関心。欺瞞。ここはネオサイタマ。電子的・物理的に鎖国された日本の首都。有り触れた光景。
「満足しています」「今あなた!」「よく仇」。雨に濡れボヤけたネオン光で彩られた胡乱な看板が明滅する。混沌が蔓延るこの街は、いつまでも明るく、騒々しい……表通りは。
酷く明るい表通りの毒々しい光は絶えることことが無い。一方、路地を一つでも入れば、そこに待ち受けるものは闇。闇だ。その闇に導かれるようにして歩く男あり。身なりはだらしなく、風采の上がらぬ男だが、所々にサラリマンの特徴が見て取れる。
男は半ば夢遊病めいて何か呟きながら路地を歩き、歩き……やがてゴミ捨て場に辿り着いた。そして座り込んだ。何を捨てるための物なのかわからない程巨大なゴミ箱が男を見下ろす。彼は疲れ果てているようだった。
「ナンデ?降格ナンデ?」男は涙を流しながら、壊れたテープレコーダーのように同じ言葉を繰り返していた。「ナンデ?降格ナンデ?」彼はすぐ側に落ちている廃棄UNIXの破片を掴み、壁に投げつける。小さな音を立て、破片は再び冷たい地面に落ちた。
「ナンデ?メアナマ=サンが昇格ナンデ?……賄賂な?」悲壮感に溢れていた彼の顔は段々と醜い憎悪に変わってゆく。「畜生……俺の方が優秀で実直で、家族も居て」彼の脳裏に浮かぶは最愛の家族の笑顔。今日は妻との記念日であった。
「畜生、畜生!帰れないよなぁ……帰りたくないよなぁ……」男は泣き崩れ、誰に向けるわけでもない罵詈雑言を喚き散らし、俯いた。「疲れた。もう、やめだ。やめよう。何もかも」彼は俯き、黙り込んだ。
泣き疲れた男は今、微睡みの中にいた。現実と夢との境界線が曖昧になっていく。家族の姿がボンヤリと浮かぶ。暗い顔をしていた。「やめろ」家族は霧散した。次に浮かんだのはメアナマの顔だ。ハッキリとしている。男を侮蔑するような顔だった。「やめろ」メアナマは霧散した。
微睡みを彷徨う男のニューロンに、過去の幸福体験が押し寄せる。かつては喜ばしいと思えた体験も、今この時は鋭いカタナとなって男を刺し貫いていた。「やめろ」制止をする度、カタナは鋭さを増していき、彼の心を抉っていく。
ソーマト・リコールめいて浮かぶ想い出達。家族。メアナマ。同僚。社長。家族。メアナマ。ニンジャ。同僚。家族。ニンジャ。ニンジャ……ニンジャ?うつらうつらと、男は目前に立つ者を見た。ニンジャ。「ニンジャ?……やめろ」男は自嘲気味な表情をしながら言った。
疲れ果てて、有りもしない存在すら認め出したか。男は笑った。哀れな笑みだった。「起きよ」想像存在は彼に話しかけた。「やめろ」男は言った。ニンジャは霧散しなかった。「起きよ」「起きたくない」男は泣き、笑い、震える声で言った。現実に帰りたくはなかった。
「やめろ。やめてくれ。消えてくれ」男は懇願した。有り得るはずの無い存在は、依然としてそこにある。「起きよ」男は首を横に振った。「いやだ」「起きよ」男は首を横に振った。「やめろ」「……起きよ、無力な非ニンジャよ!」「アイエッ!?」男は目前の存在を仰ぎ見た。
ナムサン!おお、見よ、男が不確定存在であると思っていたそれは確かな現実として存在しているではないか!ニンジャ。ニンジャである!ニンジャは、男の目の前に!「アイエエエエ!?ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」当然男は失禁!
ワインレッドの装束に身を包んだ長身のニンジャは男を見下ろし、「落ち着きたまえ」と言った。「アイエエエ!アイエエエ!ニンジャ!ニンジャ!」男は錯乱している。「落ち着きたまえ。息を吸い、吐くことを思い出せ。君はそれを実行することができる」 「アイエエ……」
男は言われるがまま、荒い深呼吸を繰り返した。ニンジャはそんな彼を慈悲深い目で見ていた。最も、それは人に向けての目ではなく、小動物や昆虫に向ける類の目であったが……男に、そのような事を確認する程の余裕は当然無い。
「落ち着いたかね」「……ア、アイエエエ……」男は地に座り込み、嗚咽する。逃げようかと思ったが叶わなかった。まるで地面が強い磁力を帯びているかのように感じた。恐怖で身動きが出来ないのだ。「落ち着いたかね」「……アッハイ」男はくしゃくしゃになった顔で答えた。
男の返事を聞くと、ニンジャは両手を胸の前で合わせた。そして、尊大なオジギをした。「ドーモ。はじめまして。リタリエイションです。名乗りたまえ」「ド、ドーモ……マゴイ、マゴイ・シューです」男は、マゴイは怯えながら、この恐るべきニンジャに名乗った。
「マゴイ=サンか。君は、ミヤモト・マサシのコトワザを実践しようというのかね?」「エッ」マゴイは唖然とした。言葉の意味が理解できなかったからである。「ふむ?その様子から察するに違うのか。いや何、寝ているとうまくいった、の実践を試みているのかと思ったのだよ」
マゴイはリタリエイションとの間に確固たる壁を感じた。そして改めて恐怖した。ニンジャ。ニンジャは実在している。目前にいる、その事実に恐怖した。彼の視線は、リタリエイションから外れない。視線の先には、均整の取れた秀麗なメンポが鈍い光をたたえていた。
2.
「寝ているとうまくいったとはミヤモト・マサシのコトワザであるが、まぁそういう時もある。しかし……この様な、うらぶれたゴミ捨て場で寝ても何も起こるまい」リタリエイションは芝居掛かった口調でマゴイに語りかける。マゴイはそれをただ聞くことしかできない。
リタリエイションはマゴイに上半身を前に曲げ、顔をグッと近づけ、「何もしなければ何も変わらないぞマゴイ=サン。しかし君は実際無力な非ニンジャ。やりたくてもやれない、そういう事もあるだろう。だが私はニンジャだ。その意味がわかるかね?」と言った。
「わかりません」「そうか。素直だね、君は……このマッポーの世において素直であるということは誇りに思っていい。けれども君はそんなだから、あらぬ不名誉に汚されてしまった。そうだね?」「アッハイ」蛇に睨まれたカエルめいてマゴイは答える。その声はとても弱々しい。
「君たちサラリマンという生き物は、無力者の多いこの世界の中でも最底辺の存在と言っていい。現に私は今しがた、ヤクザに因縁をつけられたサラリマンの依頼を受けてきたところだ……そう。依頼。依頼だ。ここまで言えば、私がどういう目的で君に接触したかわかるだろう?」
リタリエイションの言葉をマゴイはよく聞き、理解した。このニンジャが何を為さんとしているのかを。つまり、「復讐の肩代わりだ。私のニンジャ聴力は、君が壊れたテープレコーダーめいて怨嗟の声を漏らすのを聞き逃さなかった。君は誰かに強い憎悪を抱いている。そうだろう」
「私はリタリエイション。ウチイリ・モンガーという慈善事業をしている……あぁ、見返りなど求めていないよ。ボランティアだ。慎ましく生きる事が、ニンジャになる前から持っていた信念だからね。だから君達のような無力な者の気持ちをよく理解することができるのだよ」
マゴイは少しの安堵を覚えた。依然としてリタリエイションとの間に絶対的な壁があるのを感じてはいるが、不思議と彼の言葉や話に聞き入ってしまうのだ。ニンジャは凶悪なものであるという、本能が告げた認識が塗りつぶされようとしている。「やっと安心してくれたかね」
「はい。実際安心です」マゴイは答えた。自分でも驚くほどスラスラと言葉が出た。引き摺られるかのようだった。「いい返事だ。やはり君はマジメなのだな。故に苦しめられた。その事実に私は憤りを覚えるよ。君の気持ちはよく分かる。私もかつて苦しめられた者だったからね」
リタリエイションは直立態勢に戻り、大きく腕を広げ「昔話でもしようか。私は人と話すことが大好きなのでね、付き合ってくれるかい」と芝居掛かった口調でマゴイに言った。その両目は淡い紅色をしている。「……?」マゴイは何か違和感を覚えた。
彼の目はこんな色だっただろうか?……わからない。何しろマゴイは急性NRSにより、リタリエイションとの遭遇時彼の顔をよく見ていなかったからだ。「あれは三年前、いや四年前だったか?ハッキリとは覚えていないのだがね」それにしてもよく喋る男だ、とマゴイは思った。
良く喋るそのニンジャは自身の過去をマゴイに語り始めた。「私は力無きモータルの研究員であった。毎日、命の危険と隣り合わせだったよ。上の命令は絶対だからね。ある日、私は事故により死んだ……死んだというのは語弊を生むか。死にかけた。しかし私は選ばれたのだ」
「ニンジャ……」マゴイは無意識の内に呟いた。「ああそうだとも!ニンジャだ!私は選ばれた!力を得た!それから私は暴力を振るい続けたのだが、ある時自身の信念を思い出してね。天啓的だった。私はこの力を、かつての私のような者達の為に使おうと、そう決意したのだ」
マゴイの中でのニンジャ概念がどんどん書き換えられていく。このリタリエイションというニンジャは、邪悪な存在などでなく……むしろ、善良な存在なのでは?と。「あなたはニンジャなのですか?」「そうでなければ何だと?」
「確かに私は君に対してカラテやジツ……そう、ジツだ、ニンポはフィクション……そういったものを見せていない。だが、アトモスフィアがあるだろう?」リタリエイションの憐れみと紅の色で染まった目がマゴイをジッと見つめる。彼は思わず安堵の声を漏らした。
「憩っているね?」「アー……憩っています、実際……アー」マゴイが覚える安堵は、カイシャには無かったものだ。この安堵は言うなれば家族の温もり……彼はそう思いかけたが、その考えを廃棄した。家族の温もりに勝るめのは、ない。目前にいるのはニンジャだ。
「……憩っているね?私に安堵を覚えている。そうだね?そうだろう」「アー……はい」マゴイが抱く違和感が増長していく。本当にリタリエイションはこんな目をしていたか?自分は本当に安堵を覚えているのか?彼の思考が揺らぎ出したその時、ニンジャの目が光った。
「アイエエ!?」マゴイが悶える!やはりニンジャは邪悪な存在だっ「憩っているね?」ニンジャの声、やはりニンジャは「憩っているね?」頭の中をぐるぐる回る邪悪なニン「憩っているね?」ニンジャは邪「憩っているね?」ニンジャは……ニンジャは……「憩っているね?」
「憩っているね?」ニンジャは……「アー……憩っています、実際……アー」このニンジャは善良だ。マゴイがリタリエイションに覚える安堵は、カイシャには無かったものだ。この安堵は言うなれば……言うなれば?何だろうか。わからない。
マゴイの思考と視覚が揺らいでいく。リタリエイション、そこら中に散らばるUNIXの破片、巨大なゴミ箱、雑誌、生ゴミ……目に入るもの全てが歪んで見えていく。頭に浮かぶ考えは全て歪んで行き、新たな発想を得ることはない。
「そう、それで良いんだ。そういう、フラットな思考で。そして思い出すのだ。私と出会う前、君はどんな感情を抱いていた?そうだ、憎悪だ。そうだね?」マゴイは力無く頷いた。「メアナマ=サン……」 「そうだ!」リタリエイションは力強く頷いた。
「では問おう、無力な者よ!」リタリエイションはエンターテイナーめいて両手を大きく広げる仕草を取りながら、マゴイに言う。「いつ、どこで!誰を!どうしたいのか!」「アイエエ……い、いつ……」ニンジャの両目の光がどんどん増していく。「さぁ答えたまえ!」
リタリエイションの両目には最早憐れみの色などありはしない。そこにあるのはニンジャの目!残忍嗜虐たるニンジャの目だ!「さぁ、さぁ!いつ、どこで、誰を、どうしたい!?マゴイ=サン、決断の時だ!君は非ニンジャで私はニンジャ!君に不可能な案件であっても私には!」
「アイエエ……」マゴイの希薄な自我にリタリエイションの声が響きわたる。水面に広がる波紋めいて。「私は実際辛抱強い方だ!それなりに待ってやろう!さぁ!いつ!どこで!誰を!どうしたい!」 「……今」
リタリエイションが片眉を吊り上げ訝しんだ。マゴイは訳も分からず、その声を聞いていた。第三者の声を。ジゴクめいた恐るべき声を。「今、ここで」「……何者だね?」 リタリエイションは辺りを見回す。
「ニンジャを……」そのジゴクめいた恐るべき声は、エコーめいてくぐもっているようだった。リタリエイションは不審がって辺りを見回すが、声の主は見つからぬ。「姿を現したまえよ、第三者よ」「……ニンジャを殺す!」
刹那、「Wasshoi!!」赤黒の影が巨大なゴミ箱を突き破って飛び出したのだ!「何、グワーッ!?」反応が間に合わず、リタリエイションは凄まじい一撃を喰らいキリモミ回転しながら吹き飛ぶ!そして地面に激突!「グワーッ!」埃とUNIXの破片が宙へ舞う!
「アイエエ!?ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」朦朧としていたマゴイを現実が起こす!(ニンジャ!ニンジャはいないのに!二人!?ニンジャ!コワイ!ナンデ!?ニンジャ!)ナムサン……連続して二人のニンジャに遭遇すれば当然の反応!強いNRSを発症してしまった!
(もういやだ!やっぱり現実なんてクソだ!二人!ニンジャ!) だが彼は現実を突き放した。もう一度、眠りについた……もとい、気絶した。寸前、マゴイの脳裏に、忘れていたものが浮かんだ。忘れてはいけなかったものが、ニューロンの隅に置いてはいけないものが。家族。
◆◆◆
赤黒の殺戮者は一人のサラリマンが意識を失う姿を一瞥する。その目はどういう思いを抱いているのだろうか。「イヤーッ!」カラテシャウトを響かせ、ワインレッドの装束をはためかせながらニンジャは復帰した。両者の距離はタタミ二枚分ほどだ。
赤黒のニンジャのメンポには恐るべき字体で「忍」「殺」 と刻み込まれている。「そのメンポ、その装束……まさか君は」「ドーモ。リタリエイション=サン」赤黒のニンジャは威圧的にオジギした。「……ニンジャスレイヤーです」
「ふはっ!そうか、実在していたか!常々噂は耳にしていたよ……ドーモ、ニンジャスレイヤー=サン。リタリエイションです」リタリエイションもオジギをし、「会えて光栄だ」と言いながら顔を上げた。両者のアイサツが済み、うらぶれたゴミ捨て場がサツバツに飲まれる。
「いや、不幸か。会えて不幸だな私は!何しろ君に纏わる噂は恐ろしいものばかりなのだから!ベイン・オブ・ソウカイヤ、ザイバツ潰し!……ソウカイヤを潰したのはザイバツで君は関係ないという噂も聞くが、君のその漲るカラテを見るに、そちらは間違いのようだ」
「その三文芝居とよく喋る口はアノヨの土産にとっておくがよい。ニンジャ殺すべし」ニンジャスレイヤーはジゴクめいた声で宣告した。リタリエイションは動じない。「すまないね、お喋りなのは性分なのだよ。それよりも、だ。私に構う必要が君にはあるのかね?」
リタリエイションは笑いながら死神に語る。「つまりだね、君は私のような野良ニンジャでなくもっと大きな別の物を倒すべきなのでは、と。そういうことを言いたいのだよ。君はこれまでニンジャ組織を潰しているのだから次は……アマクダリを倒すべきでは?」
死神は答える。「オヌシはニンジャで。私はニンジャを殺すニンジャだ」「殺生な!私は邪悪でない、むしろ善良なニンジャ!先程も無力なサラリマンの懇願を聞き入れようとしていたところだったのだよ?」均整の取れたメンポの奥でリタリエイションは笑みを浮かべている。
「聞き入れようとしていた?脅迫していたの間違いであろう」死神は威圧的に言った。「故に私はオヌシを殺しに来たのだ」ニンジャスレイヤーがジュー・ジツの構えを取る。リタリエイションは……リタリエイションは紅色の目を輝かせながら死神を見ていた。
3.
「君のアトモスフィアは実際スゴイ。ソウカイヤ、そしてザイバツを滅ぼしたという素っ頓狂な話に納得がいく程にね。だが私も、今この時まで野良で生きてきたのだ。それなりのカラテはあると、そう自負しているよ」リタリエイションが油断なきカラテを構えた。
そして、「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーに飛びかかった!「イヤーッ!」ニンジャスレイヤーも飛びかかる!空中でワインレッドの影と赤黒の影が交差し激しい火花を散らす。常人にはまず間違いなく色つきの風にしか見えぬであろう!これがニンジャのイクサなのだ!
幾度となく交差し、火花を散らす……ニンジャスレイヤーは顔をしかめた。 確かにリタリエイションは油断なき強敵といえよう。しかし……「イヤーッ!」「グワーッ!?」赤黒の影が地に落ちる。地面に蜘蛛の巣状の亀裂が走る!ワインレッドの影は体操選手めいて着地!
「どうしたね、ネオサイタマの死神よ。ブザマに地に寝転がって……何かインシデントでもあったかね」リタリエイションは淡い紅色の目を輝かせながら悠々とニンジャスレイヤーに近づく。「……イヤーッ!」ニンジャスレイヤーはネックスプリングで復帰し、ジュー・ジツを……。
「イヤーッ!」「グワーッ!」リタリエイションが中腰の姿勢から強烈な正拳突きを繰り出した。ポン・パンチ!これをまともに貰ったニンジャスレイヤーがタタミ三枚程吹き飛ぶ!地面に激突!「グワーッ!」蜘蛛の巣状の亀裂が走る!
「ヌゥーッ」ニンジャスレイヤーはネックスプリングで復帰する……はずであった。彼は違和感を覚えた。自らのムーヴに。「そう急ぐことはないだろう。ゆっくりと起き上がりたまえ、私は見ているから」リタリエイションの声が響く。赤黒の影はのっそりと起き上がった。
死神はジュー・ジツの構えを取ろうと試みた。だが、うまくいかぬ。彼の構えるそれは、カラテの心得のない者が巫山戯て、あるいはヤバレカバレに構えるそれと大差ない。「ふふ、なんだねその構えは。それがソウカイヤとザイバツを潰したカラテ?不思議なものだな!イヤーッ!」
ニンジャスレイヤーはリタリエイションのケリ・キックを防ぐべくブリッジ回避を試みた。だがうまくいかぬ!「グワーッ!」タタミ四枚分吹き飛ぶ!蜘蛛の巣状の亀裂!「はっははは!君は実際無力だ、ニンジャスレイヤー=サン!自らのカラテが失われていく気分はどうだね!?」
「なんだと」よろめきながらニンジャスレイヤーは立ち上がった。メンポの隙間から血が噴き出している。「これぞ我がジツよ!ムナシ・ジツ!あらゆるカラテもジツも私には効かぬ!虚しく無効化され我が力となるのだ!イヤーッ!」「グワーッ!」
タタミ五枚分!亀裂!「グワーッ……グワーッ!」カラテモンスターは仰向けのままもがく。ブザマ!「はっ、ははは……ノー・カラテ、ノー・ニンジャ!最早君はニンジャではない!カラテとはニンジャの人生そのもの!それを失ったのだ君は!」リタリエイションが邪悪に笑う。
リタリエイションの声を耳に聞き入れながら、ニンジャスレイヤーは……フジキド・ケンジは想起していた。己を。カラテを。これまでの戦いの日々を。
マルノウチ・スゴイタカイビル。ソウカイヤのニンジャ。暗黒の七日間。センセイ。ダークニンジャとの決戦。別れ。ユカノ。ラオモトとの激戦。炎上するネオサイタマ。キョート入り。タカギ・ガンドー。ザイバツ・シャドーギルド。ロード・オブ・ザイバツ。ニンジャキラー。
「ならぬ」フジキドはカラテを構えた。素人のような胡乱な構えである。「ならぬ。消せはせぬ」その目に絶望の色は無い。決断的な目がニンジャを睨み付ける。「ふむ、中々のニンジャ耐久力。そしてセイシンテキ。だが長くは持たないだろうね」ニンジャもフジキドを睨む。
「イヤーッ!」フジキドがスプリント!「悪足掻きは実際ブザマであるぞニンジャスレイヤー=サン!ハイクでも詠んでおけばよかったものを……イヤーッ!」「グワーッ!」タタミ六枚分吹き飛ぶフジキドにリタリエイションは追走する!そして油断なきカラテを加える!
「イヤーッ!」「グワーッ!」一方的なイクサ!だがフジキドの目には依然として並々ならぬ戦意の炎が燃えている。彼は諦めぬ。諦めぬわけにはいかぬ!「イヤーッ!」「グワーッ!」リタリエイションに苛立ちの色が見え隠れする。「存外しぶとい!イヤーッ!」 「グワーッ!」
「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」「イヤーッ!」「グワーッ!」
フジキドは再び地に落ちた。赤黒の装束は所々破れているが肌は見えぬ。血に塗れているからだ。「ハァーッ、ハァーッ……本当に君は……流石ニンジャスレイヤー=サン、だな」荒々しい呼吸をしながらリタリエイションはフジキドを見下ろす。
「ハァーッ、ハァーッ……ふふ。私は組織に所属することをこれまで拒んできたが……君の首級を手土産にアマクダリ・セクトに帰順するのも悪くはないかもな。君の死にはそれ程の価値がある。知っていたかね?」リタリエイションがフジキドを蹴り飛ばす。「グワーッ!」
「まだ……まだ死なないのかね?……君はオバケなのか?」「……」フジキドは何も答えない。彼は今、ニューロンの奥底に沈んでいっている。ニューロンの奥底に。邪悪なる声の元へ。口煩い同居人の元へ……。
◆◆◆
フジキド・ケンジはニューロンの闇の中で浮遊していた。邪悪な哄笑が闇を飾る。『グッグッグ……フジキドよ、実際情けない……長き怠惰がオヌシを腑抜けにしおった。レッサーのニンジャ風情に遅れをとるとは!』
『黙れナラク!あのニンジャのジツ……ムナシ・ジツとは何なのだ。教えろ』フジキドは明確な決意と自我を持ってニューロンの同居人に問うた。ナラク・ニンジャへと。『なに?ムナシ・ジツ、とな……?』 ナラクは沈黙する。
闇が静寂に包まれる。『……ナラク?』『グッグッグ……ムナシ・ジツ……グッグッグ……グッハッハッハ!ムナシ・ジツ!ムナシ・ジツとな!?』静寂は邪悪な哄笑によって瞬く間に切り裂かれた。『何が可笑しい』
フジキドは苛立たしげにナラクに言う。『あらゆるジツやカラテを吸う強力なジツ。何か対策はないのか』ナラクは依然として笑い続ける。『グッハッハッハ、愉悦、愉悦!これが笑わずにいられようか!ムナシ・ジツ?斯様なジツなど存在するはずも無し!』『なんだと?』
『道理を考えよフジキド。あらゆるジツ、カラテを吸い無効化する。斯様なジツがあるのであれば、何故!彼奴に宿るニンジャのクランは世界を支配できなんだ!ムナシ・ジツなどあるはずもなし!彼奴めに宿るはコブラ・ニンジャのレッサー、実際サンシタよ!』
『では奴のジツは』『左様!カナシバリ・ジツよ!裸眼の直視で非ニンジャすら殺せぬほどの弱小のニンジャ故、キンボシは譲ってやろう……その弱小ニンジャに苦しめられるとはオヌシも随分と腑抜けたものよ。先日の贋物めいた若造とのイクサを想起せよ。カラテだ!』
ナラクが意識下に沈んでゆく感覚をフジキドは感じ取った。カラテ。先日の激しいイクサを思い出す。ニンジャスレイヤーを名乗り、最後は己のニンジャ性に呑まれた若者とのイクサを。それだけではない。これまで歩んできた血と屍の道を。カラテを。想起した。
◆◆◆
リタリエイションは淡く紅色の光をたたえる目で赤黒の殺戮者を見下ろす。殺戮者はピクリとも動かない。「……君のハイクを聞いてみたかったよニンジャスレイヤー=サン。同じ、復讐に生きる者としてね。最も……その様子では無理そうであるから、カイシャクをするがね」
均整の取れたメンポの奥で少し残念そうな顔を作りながら彼は足を振り上げ、そして「イヤーッ!」振り下ろす!その瞬間、「……イヤーッ!」赤黒の影が勢いよく跳躍したのだ!地面にストンピング!蜘蛛の巣状の亀裂!「何!」リタリエイションは目を見開く。
赤黒の影は勢いを殺さず連続バック転!リタリエイションとの距離が大きく開く。タタミ六、七枚ほどだ。リタリエイションは驚嘆する。「君は……やはりオバケだな。底が知れぬ。段々と恐怖心が湧いてきたよ」そして油断なきカラテを構える……否。ニンジャスレイヤーは睨む。
油断なきカラテではない。ただ形を似せただけの贋物。偽りのカラテ。ニンジャスレイヤーは目を閉じる。これまで歩んできたイクサの日々を、瞼の裏に描く。暗黒の七日間。センセイとの出会い。ドラゴン。チャドー。「スゥーッ!ハァーッ!」
(目を閉じた?もしや、気づいたか)リタリエイションは目を細める。しかし直ぐに口元に弧を描く……メンポの奥で。(イディオット。もう君は手遅れなのだ。この目を見ようが見まいが、 最早君はこの偽りのジツから逃れられない)
ナムサン……彼のカナシバリ・ジツは実際弱い。だが彼はそれを利点として捉え、認識の歪みを目的として己のジツを鍛え上げたのだ。直接の殺傷能力は皆無であるが、その分燃費も良く持続性も高い。三十秒でも彼の目に睨まれれば、ジツは解けぬ。
(長かったイクサであったが、もうそろそろ終わりにしよう)リタリエイションは偽りのカラテの構えから、跳躍しようとした。「……?」彼は訝しんだ。何故か?「スゥーッ……!ハァーッ……!」彼のニンジャ聴力は、ニンジャスレイヤーの呼吸音を聞き逃さなかったからだ。
「スゥーッ……!ハァーッ……!」独特の呼吸音にリタリエイションは不審感を覚える。(何だ?何をやっている?)「スゥーッ!ハァーッ!スゥーッ!ハァーッ!」空気を揺るがすようなその呼吸に気圧されそうになるのを、彼はグッと堪えた。(ジツを隠し持っていたのか?)
リタリエイションは迷った。ニンジャスレイヤーの奇妙な行動が何を意味するのか。彼は幾つかの可能性を探る。(ジツの予備動作か?あるいはカラテ?それか、単なるモージョー?) 「スゥーッ!ハァーッ!」リタリエイションが思考する間、呼吸音は響き続ける。
(……今の奴は隙だらけだ!この隙にトドメを!)自分の答えを導き出したリタリエイションは、ニンジャスレイヤーに向かって飛びかかった!(仮に予備動作だとしても、中途であれば耐えられるはず!耐えられれば良い、そうすれば、その奇怪な行動を君は忘却する!)
「ニンジャスレイヤー=サン!君は今ここで死ぬ!イヤーッ!」リタリエイションは右手を勢いよく突き出す。拳がニンジャスレイヤーに迫る、迫る!直撃の寸前……ニンジャスレイヤーは目をカッと見開いた。 「イヤーッ!」リタリエイションの拳をその胸板で受け止める!
轟音が響く。「な……」リタリエイションは驚愕した。そしてまた迷った。(ニンジャスレイヤー=サンは確実に認識を歪められているはず )然り。赤黒の死神の胸板には歪んだ認識によるダメージが、偽りのダメージが確かに通っている。無傷ではない。だが彼は。
彼は地を踏みしめ、リタリエイションを強い意志を孕んだ目で睨んでいる。燃えるような目で、瞳で。(私のジツが解けたとでもいうのか?)……否。解けてなどいない。だが死神は耐えた。不屈の精神で。チャドーによる精神統一による、頑健なる意志で。
リタリエイションは己のジツに絶対の自信を持っていた。だが今、彼は揺らいでいる。己のジツが破られた、と、そう認識してしまっている。だが彼は迷うべきではなかった、万に一つでも。 ニンジャのイクサにおいて、迷いは一瞬であっても。「……イヤーッ!!!」
死神は億劫なサミングを突き出した。普段のイクサであれば、まず当たらぬであろう惰弱なサミング。だが、動揺しきったリタリエイションは。「グワーッ!?」彼の両目が抉り出される。死神はそれらを地に放り投げ、踏み潰した。途端に、彼の全身に圧倒的なカラテが漲る。
ニンジャスレイヤーは腰を沈め、踏み込み……正拳を繰り出す!「イィィイヤァァァーッ!!」ポン・パンチ!「グワーッ!!」リタリエイションは大きく吹き飛ぶ、吹き飛ぶ、吹き飛ぶ!壁に打ち付けられる!当然巨大亀裂!「グワッ、アバッ……」
ニンジャスレイヤーは何度も何度も拳を握り、開いた。やがて彼はリタリエイションの元へと進みだした。
◆◆◆
「ア、アバッ……」リタリエイションは闇の中に居た。ニューロン内ではない。幻でもない。ただ、見えるものが、見るための手段が失われた。闇。(判断を誤ったか)彼のニンジャ聴力は、自らの元へと向かってくる足音を捉えている。無慈悲な死が、すぐそこまで迫っている。
彼のニューロンに様々なイメージが可視化されていく。それがソーマト・リコールであろうことを彼が理解するのに、そう時間はかからなかった。貧しい家庭で過ごした幼少期。成人し研究職に勤め。理不尽な命令で動かされ。事故。ニンジャ。復讐。力。殺戮。殺戮。殺戮……。
(……インガオホーよな。無力な者達の救済、復讐の肩代わりなぞ……殺戮衝動を。ただただ殺したいという欲を、正当化したかっただけに過ぎなかったのだろう、私は。でなれけば……無力な者にジツを使うなどはしなかったはずだ) ザッ、ザッ、ザッ。足音が迫る。
足音が止まる。殺気がリタリエイションを刺し貫く。「……ハイクを詠め、リタリエイション=サン」ジゴクめいた声で死神は言った。「ハイクを?……ははっ、は。それは、また。問答無用で殺すのかとばかり」リタリエイションは自嘲気味に呟く。メンポの隙間から血が漏れる。
「ハイクの前に……ニンジャスレイヤー=サン。君は何故ニンジャを殺す?……ああいや。わかるさ。憎しみだろう。私にはよくわかる」死神は沈黙している。「私は憎悪のままに生き、憎悪のままに殺した。だが私は私に、ニンジャの心に殺された」
「私の憎悪は、復讐は。ニンジャ性に導かれただけの、偽りのものだった。君は……君は、どうなんだね」血を吐きながら彼は聞く。 「君は何故ニンジャを殺す?」
ジゴクめいた声で死神は答えた。「私は、私の意志でニンジャを殺す。他の誰でもない、己の意志で。ニンジャの意志ではない。誰にも折ることの出来ぬ、己の意志だ」その答えを聞き、リタリエイションは静かに笑った。
「はは……エクセレント。では……ハイクを……詠ませてくれ」リタリエイションは一呼吸おき、そして。口を開いた。「復讐の/果てに待つのは/インガオホー……君へのハイクではないよ。私へのハイクだ。ニンジャスレイヤー=サン。君の人間性に幸あれ」
「……イヤーッ!」死神は、ニンジャスレイヤーはチョップを振り抜いた。リタリエイションの首が切れ飛び、スプリンクラーめいて血が噴き上げる。そして。「サヨナラ!」 リタリエイションは、爆発四散した。
ニンジャスレイヤーはリタリエイションの爆発四散跡を見つめていた。……暫くしてから弱々しい声が彼に届いた。ニンジャスレイヤーはそちらへ目線をやる。あのうらぶれたサラリマンだった。かのジツから解放されたであろうことは間違いないだろう。
意識を取り戻した直後にニンジャを認識すれば、あのサラリマンは重篤なNRSを発症することだろう。良くて自我崩壊、最悪死亡……。「Wasshoi !」死神は去った。赤黒の影がドクロめいた月に照らされる。彼はネオサイタマの闇へと消えていった。
◆◆◆
「うう……ここは?」マゴイは目を開き、辺りを見渡した。うらぶれた路地裏、ゴミ捨て場。散らばったUNIXの破片、大きく破損した巨大ゴミ箱。「どこだここは……俺は何を?」
何も思い出せない。まるで脳が拒絶しているかのように。何か、悪い夢を見た気はする。とてもとても、悪い夢を……マゴイは憂鬱な気分になった。途方に暮れる彼の端末に通知が来る。 IRCメッセージだ。送り主は……家族。
何かを少しだけ、思い出せた気がした。家族。悪夢の中で、強く強く光り輝いていたもの。マゴイは頬を伝う涙に気づいた。「現実はクソだ。けど……家族は、大事だ。クソじゃない」言ってから彼は大泣きした。大泣きしながら駆けた。帰るべき場所へと。
……ネオサイタマは今宵も眠らない。騒音とネオン光は絶えず存在を誇示し続け、多くの人々は個々で生き、他者を顧みることは無い。他者との間に深い絆が生まれることは、まず無い。ここはネオサイタマ。
マゴイは騒音にもネオン光にも注意を払わず、駆けていくのだった。
イン・リタリエイション・フォー・ハーシュ・リアリティ
【終】