【タイム・ウェン・ザ・シグナルファイア・ライゼス】 ④

「アイエエエエ!」

悲鳴を上げながら走る若い女あり。ラフな装いをした黒髪の女は涙で顔をくしゃくしゃにしながら必死で駆けていた。彼女の名はリンセ・イノハラ。人生の常識外から突如襲い来たニンジャへの恐怖に支配されたリンセはただただ走る。

「ハァーッ、ハァーッ……ンアーッ!」

途中、足がもつれ転倒した。電撃的な速度で背後へ顔を向ける。追いかけるものはいない。膝よ笑うなと己を奮い立たせ、立ち上がろうとするが力が入らない。その時リンセは、道路傍に人ひとりは入れそうな錆びれたダストボックスを目にした。

「ハァーッ……!ハァーッ……!」

苦心しながら這うようにしてそちらへ向けて移動し、蓋を開ける。幸い、生活ゴミが細々とあるものの、スペースには余裕がある。ブッダ!彼女は迷うことなくダストボックスの中へと身を滑らせ、蓋を閉じた。真っ暗な視界の中、リンセは目を瞑り、両耳を手で抑えながら震える。瞼の裏に浮かぶは、紺色装束のニンジャの姿。それへの恐怖。そして……置き去りにされたユーリ・マキシモ。

「ゴメンナサイ……ゴメンナサイ……」

カタカタと震えながら涙声でユーリへの謝罪を繰り返す。
私は、バカだ。愚かだ。
自責の念が彼女を苛む。暗闇の中で。

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「チ、チクショウ……!」

肘から先を無くした己の左腕を抑えながら後ずさるクロームギッチョ。断面からは黒々とした煙が噴き上げている。汗が滝のように流れ落ちる。

「覚悟、できた?まぁできてなくても殺すけど」

欠伸混じりに言ったのはシグナルファイア。全身の至る所から黒煙を上げる彼女の姿にクロームギッチョは慄く。灰色の瞳が彼を見据えている。燃焼された木炭めいてじわりと赤熱色が広がるその瞳。

「……か、勝った気かあーッ?……エエッ?……へへ、へ……サイバネ技師なんざそこら中にいる……いくらでも腕の代用は効く!」

放たれた彼の声は、無自覚に喉から絞り出されたものだった。精一杯の強がりだ。クロームギッチョは思考の整理を図った。眼前の敵に何をされたのか、それが理解できない。突然サイバネ腕が崩れ落ち、脱落した。煙を噴き上げながら……煙!彼はシグナルファイアの姿を眼に焼き付ける。ボシュッ…….ボシュッ……全身から噴き上がる不吉な黒い煙。一歩、女が足を踏み出す。反射的にクロームギッチョは後ずさった。近づかれるのはマズイ!

「イヤーッ!」

常人の3倍の脚力で地を蹴り、敵との距離を取る。タタミ5枚分。

「イヤーッ!」

そして右腕でスリケンを投擲。一連の動作は常人には色付きの風にしか見えぬであろう。

「ハハァーッ!これで9人目ェーッ!イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

高らかに笑い、更に投擲!1枚、2枚、3枚!放たれたスリケンは鈍色の光を帯びてシグナルファイアへと弾丸めいて飛来!計4枚のスリケンが碌に回避動作も取れぬままのその身を貫かんとする!ナムアミダブツ!

ボシュッ。

「ハハハハハハ!ハハ、ハ……ハ?」

ボシュッ。ボシュッ。ボシュッ。

クロームギッチョは理解が追いつかぬままに目を見開き、その光景をニューロンに焼き付けていた。シグナルファイアは無傷。
果たして何が起こったのか?読者の皆さんには説明せねばなるまい。直撃の寸前、彼女の身体が煙と化し、虚しく彼女の身体をスリケンが通り抜けていったことを!濛々と煙を立ち上らせるその様は古来の世において人々を恐れさせたオバケ・エネンラーの如し……否。煙の化身たるオバケ、エネンラーとは歴史の闇の中で歪曲され伝承された、謂わば紛い物の存在だ。では歪められたものとは?真実とは?全ては……ニンジャである。平安時代、己がクランを率いてケムリミ・ジツで猛威を振るったが、カゼ・ニンジャクランによって滅ぼされた敗北のニンジャ。即ちノロシ・ニンジャ!それこそがユーリ・マキシモに宿るニンジャソウル!

「バカな……!」

すり抜けていったスリケンを見つめ、信じられないといった形相でクロームギッチョは狼狽えた。

「ンー、終わった?じゃあ……次はアタシな」

シグナルファイアが灰色の瞳でクロームギッチョを睨む。確かな殺意を持ったその眼差しで。そして、バットを持った方の腕を胸の前にやった。ボシュッ!その一部が煙と化す。そこへ向けてもう片方の腕を伸ばす。煙を掴む……否、引っ掻き出す。無造作に。

「イヤーッ!」

掻き出した勢いでクロームギッチョへ向けて飛んで行く煙の群。それらは飛び散りながら、徐々に実体を得だす。スリケンに!

「ヌゥーッ!?グワーッ!」

狙いは正確ではなかったが散弾めいて射出されたスリケン……ケムリ・スリケンはクロームギッチョに無視できぬダメージを与えた。肩、胸、腹に傷口が開き、鮮血が飛び散る!

「グワーッ!グワーッ!」

「どう?スゴイ?」

ニタニタと口元に弧を浮かべながら、シグナルファイアは挑発的なキツネサインを両手で作った。クロームギッチョは忌々しげにそれを睨む……そして訝しんだ。異変に気付いたからだ。彼女の左手。中指が無い。中指が有ったはずの場所からは煙がモクモクと上がっている……。

「ヌ……ウッ!?」

直後、彼は自らの右目に違和感を覚えた。とてつもない激痛が走る。手で目を抑えようとしたその時、彼の右目から何かが飛び出した。眼球を抉り出しながら!

「グワーッ!?」

飛んで行く白い何か……指。指だ。目玉を串刺しにした指!断面から煙を吹き上げる指!それはシグナルファイアの手元へと戻っていき、煙を上げる中指の断面と傷一つなく接合した。

「Woof……Bow !! Wow !!……アッハハ!」

彼女は眼球を突き刺しにした左手のキツネサインと右手のキツネサインでママゴトめいて芝居をし、戯れる。ケタケタと笑いながら。

「グ、グワッ……こんな……こんなはずではあーッ!」

ガクガクと痙攣しながら膝をつく。ニューロンをソーマト・リコールが支配する。カイシャで身も心も費やされた暗黒の日々。ニンジャとなった日。ムカつく上司や肥溜めのクソ共を殺し回った日。サイバネ技師を脅し、己の中に溶け消えたレッサーソウルの残滓に従うようにして左腕をサイバネ置換した日……。
ソーマト・リコールが消えていく。視界にシグナルファイアが写る。ツカツカとこちらに歩み寄るその姿は確かな殺意を纏っていた。

「い、嫌だ……死にたく、ねぇ……チクショウ……ナンデ……俺がこんな目にぃーッ!?ブッダ!おお、ブッダ!ファッキンブッダ!」

「アー、そういうのいいから。さっさと死ねよクズヤロー」

ブッダを罵るその声を鬱陶しげに遮りノロシ・ニンジャの憑依者はスリケンバットを構えた。クロームギッチョは尚も震え、俯く。

「……チクショウ……嫌だ……殺さずに死ぬのは嫌だ……殺したい……殺したい……」

ボソボソと譫言のように呟く。女の舌打ち。バットが振られ……しかしその一撃は宙を切った。

「イヤーッ!」

直撃の寸前、突如常人の3倍の脚力で地を蹴り、駆けるクロームギッチョ。その行き先は眼前の敵とは真反対。すわ逃亡か?……シグナルファイアは目を見開く。彼の走り出した方向は……!

「ハハハ、ハハハァーッ!どうせ死ぬなら殺してから死ぬ!殺したい!殺したいーッ!9人で終わるのは実際中途半端で嫌気が差すことだが貴様の悔しがる顔と非ニンジャのクズの死に様が見れるなら満足してアノヨに逝けるということよーッ!!」

リンセが逃げて行った方角!クロームギッチョはぐちゃぐちゃになったニューロンの中で思考を巡らす。
片割れの女は真っ先に逃げ出したが所詮は非ニンジャ。そう遠くへは行けぬはず!追いついて、いや或いは何処かへ隠れているか?どちらでもよい!どのみち殺す!ニンジャならできる!それで終わりだ!

嬉々として駆けていくその背を、シグナルファイアは……酷く冷めた眼差しで睨んでいた。心底侮蔑するかのような眼で。その灰色の三白眼の瞳が帯びる赤熱色が揺らぐ。次の瞬間には彼女の全身は人型をかたどった煙へと変わっていた。煙は風のように舞い、残忍なる殺人鬼を追う。一瞬のうちに追いついたそれはクロームギッチョの背をすり抜け、彼の眼前に現われ出でた。

「ハハハハハァーッ!……え?」

間抜けな声を上げ、眼前に現れた煙を見つめる。泥めいて鈍重な時間感覚で。煙はあっという間に実体を帯び、スリケンバットを構えていた。ヘッド部分に夥しく突き刺されたスリケンが電灯の光を反射し銀に輝く。

「イヤーッ!」

頭へ向け振られるスリケンバット!クロームギッチョは咄嗟に頭部を守るが、

「……グワーッ!?」

直撃に至る前にバットはフォークボールを捉えるような動きで斜め下へ!フェイントだ!クロームギッチョの両の脛の骨が粉砕!破壊!力なく崩れるクロームギッチョ。シグナルファイアは振り抜いた勢いでその場でコマめいて回転、そのままバットを振るう!

「イヤーッ!」

頭へ向け振られるスリケンバット!クロームギッチョは咄嗟に頭部を守るが、

「グワーッ!!」

左腕を失い、右腕だけでのガードではその一撃を和らげることなど不可能!右腕の骨が粉砕!破壊!力なくダラリと垂れ下がる右腕。シグナルファイアは振り抜いた勢いでその場でコマめいて回転、そのままバットを振るう!

「イヤーッ!」

頭へ向け振られるスリケンバット!クロームギッチョは咄嗟に頭部を守ろうとするが、おお、無慈悲にも彼を守るものはもう無い!

「アバーッ!」

顔面を直撃!頸椎が粉砕!破壊!メンポごと下顎が引き千切れ、宙を舞う!

「アバ、アバッ……」

首の座らぬ赤子めいてダラリと垂れるその頭へシグナルファイアはバットを持たぬ方の手を差し出した。ゴボゴボと血を吐く口へ向け、色白の手が伸びていく……その手首から先が煙と化した。ボシュッ!ボシュッ!噴き出す煙!

「アバ、アババ、ゴホーッ!?ゲホーッ!!」

口内から煙が侵入!クロームギッチョは白目を剥き、マグロめいて痙攣!全身の傷口からボイラーめいて煙が噴き上がる!燻製めいて濛々と立ち込める煙の中、彼は仰向けに倒れた。

「ゴホ、ゲホッ……ウグッ、アバーッ!アバババーッ!?」

そしてもがく!ドクン!ドクン!心臓が鼓動を早める!彼は胸を抑えようともがくが彼の両腕は共に再起不能!シグナルファイアはそのブザマを冷たく見下ろす。一瞬後!

「アバーッ!!」

クロームギッチョの胸から心臓を鷲掴みにした手が生えた。手は煙を上げながらユーリの元へと帰っていく。煙と化していた手首から先が実体を帯び、彼女の手はやはり傷一つなく接合された。その手に握られた心臓を無感情に握り潰す。

「サヨナラ!!」

クロームギッチョは爆発四散した。彼の身体を侵していた煙が巻き上がり、立ち込める。それらはシグナルファイアの元へと還っていった。

「さて、リンセ=サンは……っと」

彼女は爆発四散痕を一瞥することもなく、まるで何事もなかったかのように踵を返し、リンセの逃げて行った方へと歩き出すので有った。

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リンセ・イノハラはダストボックスの中で1人震えていた。頭を抱え、耳を抑えながら。そうしてどれ程の時間が過ぎただろうか。彼女の耳は微かに聞こえる足音を聞き取っていた。心臓が強く鼓動する。足音は段々と近づいてる……!悲鳴を上げかける口を手で抑える。尚も足音は近づき……止まった。ダストボックスの前で。

「……!」

極限まで高まった緊張と恐怖。脂汗が頬を伝う。失禁しそうになるのを堪える。どうかこのまま立ち去ってくれと願う彼女の希望を打ち砕くように、無慈悲にも蓋は開けられた。

「アイエエエエ!!」

遂に緊迫が決壊し、リンセは絶叫を上げた。その顔を覗き込む……ニンジャ!ガスマスクめいたメンポで鼻から下を覆ったニンジャである!

「アイエエエエ!アイエエエエ!」

「ンー?……リンセ=サン?アタシ、アタシ」

ニンジャは小首を傾げ、自身の顔を指差した。泣きじゃくるリンセはハッと我に帰る。

「アイエエエエ……?その声は」

「アタシ、アタシ。ユーリ」

「ユ……ユーリ=サン?」

ニンジャは聞き馴染みのある声でリンセに言う。

「あれ、言ってなかったっけ?アタシ、ニンジャなんだ」

「ニンジャ……?ユーリ=サンがニンジャ?ナンデ?」

「ナンデ?ナンデ、かなぁ。まぁいいっしょ。早く帰ろ」

ユーリは呆気に取られるリンセの手を握り、ダストボックスからヒョイと引きあげた。リンセは未だ状況が掴めないようではあったが……直ぐにユーリに向けて頭を下げた。

「ゴメンナサイ……!ゴメンナサイ……!」

「え?」

今度はユーリが呆気に取られる番だった。彼女へ向け謝罪の言葉を紡ぐリンセの姿を困惑しながら見つめる。

「置いて行って、私だけ先に逃げて、それで……!」

「アー、アー、いいよいいよそんなの。アタシ全然気にしてないから」

あっけらかんと言い放つユーリ。その言葉にデジャヴを覚え、リンセ・イノハラの心中はまたしても曇った。
気にしていない、そのワードが彼女を酷く傷つける……自分は何と愚かなのだろう。リンセは心の中で自嘲した。悪いことをしたのは自分なのに。何故、こうもユーリへ黒い心を向けてしまうのか。そう思っていると、自然と涙が溢れでた。恐怖からくるものではない。

「リンセ=サン」

声はユーリのものだ。いつになく真剣な声色だった。思わずリンセは顔を上げる。その顎を病的な色白の手がクイっと持ち上げた。視線が交錯する。

「気にしてないってのはさ。リンセ=サンに興味がないってことなんかじゃあないよ」

「ユーリ=サン」

「リンセ=サンが何度謝っても、アタシは許す。アタシはリンセ=サンを怒ったりしない。100回謝ったら100回許す。1000回謝っても1000回許す。アタシは、そういう風にして、リンセ=サンと一緒にいたい」

「……ユーリ、サン……!」

リンセは大粒の涙を流し、彼女に抱きついた。その身体をユーリは抱き返した。メンポが煙と化し、霧散する。泣きじゃくりながら、これまでユーリと生きてきた中で起きた様々な出来事に関して何度もゴメンナサイと声を漏らすリンセを、ユーリは何度も頷き、受け入れ続けた。
そうしているうちに、夜闇は白み始めていく。上空を巡回するマグロ・ツェッペリンが朝一のアナウンスとCM音声を垂れ流し始め、暗く染まっていたビル群が目覚めていく。

夜が、開ける。


【タイム・ウェン・ザ・シグナルファイア・ライゼス】終わり

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