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【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】全セクション版

1.

 華の薫りに空気を彩られたチャノマ。オーガニックの畳、フスマはどれも厳かで、それでいて艶やかだ。貴き円卓の如きチャブ・テーブルの前に座するは若い男。閑雅なる薄紫色の髪をミディアム・スタイルに整えた、白磁めいた麗しい肌の男だ。名はマサラサマウジ・ハクトウ。エド戦争で大義を果たした武家一族の血を引く由緒正しき家系の末裔であり、ビジネス界に名を馳せる資産家でもある。

 清潔感のあるフォーマルホワイトのスーツを纏った彼は、凪の如き穏やかさをもってチャブ上の湯呑みを手に取った。眼を閉じ、音を立てず、僅かに唇に潤いを保たせる程度にチャを飲む。ゆったりとチャブ上に湯呑みを戻し、眼を開ける。視線を向けるはチャブ横に鎮座するシシマイUNIX。

 まもなく、奥ゆかしい電子笙音がメッセージの受信を彼に知らせてきた。ハクトウは送信者の名を見る。サヤラ・キンジ。次いで、電子メールを開封し、検める。奥ゆかしく修飾された文言に彼は満足気に頷いた。その内容が、彼の立ち上げたグランド・タワーホテル『リジェンシ・セッショ』の完成を祝うパーティへの招待に対する肯定的な返答であったからだ。

 彼と交友を深めることは実際好ましいことだ。そうハクトウは考える。カチグミたる家が没落し、ドン底のなかで運命の女性に出会い、彼女に支えられて見事カチグミに返り咲いた成功者。人格は大変に良い。それでいて強かだ。自身の誠実さと人の良さを自覚し、謙虚でありながらにそれを強みにアピールすることができる人間。素晴らしい才覚。

『苦しい生活を乗り越えられたのはアタネ=サンのおかげです。彼女が僕に手を差し伸べてくれなければ、今頃僕はサンズ・リバーにいたことでしょう』……いつかの会談の折、朗らかに答える姿が印象的であった。此度のパーティには彼の妻、サヤラ・アタネも招待している。夫妻での出席に彼らは応じた。良いことだ。

 アタネはカチグミの家系ではなく、元オーエルの一般女性の身。貴賓に惑い、シツレイを犯すやもしれぬが、ハクトウは一向に構わないと考えている。むしろその方がより好ましい。彼女の礼儀作法に過ちがあれば、キンジが彼女を立ててやり、彼のその人柄を周囲に見せる。そうなればハクトウは夫妻の絆を讃え、自らの器の広さと人格をアピールできる。それは互いのコネクションをより広く、深く繋げていくための布石。人は人を呼び、人はカネを呼ぶ。つまるところ、互いにWin-Winを齎すものだ。

 実際、キンジとハクトウの間にそのような遣り取りの打ち合わせは一切ないが、両者ともに描く筋書きは同様であろう。成功者同士、多くは語らず。マサラサマウジの長男は琴弾きめいて丁寧なタイピングで返答の電子メールを認めたのち、物理招待状を送る手続きをとる。

 ……カコン。手続きを終えてから数秒後、彼の耳にシシオドシの雅な音が届けられた。やおらに立ち上がり、オーガニック・フスマを優雅に開いた。廊下へ進みでると、通路の中心を空けて片膝を立てた、恭しいオジギ姿勢をとって待機している女が視界に入る。ミルキーベージュの髪を朱色のカンザシで纏めた、線の細い若い女だ。彼女の側でマサラサマウジは立ち止まった。自然な動作でそちらに視線をやる。

「ドーモ、マサラサマウジ=サン。アスミ・キナタコです」鈴を転がすような澄んだ声で、ダークネイビーのパンツスーツスタイルの女が視線に応える。ハクトウは優雅なオジギで返す。「ドーモ。パーティの準備は問題なく進んでいるかい」怜悧な声で彼が問うと、女は顔を上げて返答した。「つつがなく」と。

 ハクトウは端的な言葉に微笑み、彼女を促して立ち上がらせて廊下を進んでいく。アスミは一礼して彼に続く。

「少しばかり、下見に行っておこうかと思う」自身の薄紫の髪先を撫でつけながらハクトウが告げる。「何せ、パーティ当日までは暇で退屈だからね。ついでに何処か観光したあと、カイシャで打ち合わせがてらにチャを楽しもうか。車、出してくれるかい」彼がアスミに視線を向けると、彼女は眉を顰めた。

「協賛各所とのIRC対談等の応対が山程ありますが」

「それが暇で退屈だと言っているんだよ、我がアプレンティス」

 肩を竦めて彼が言うと、やはりアスミは端的な言葉を返した。「今はアデプトです、マスター」「大して変わらないさ」……そのような他愛のない会話の後、アスミが運転手を務める高級セダンで二人は邸宅を発ち、『リジェンシ・セッショ』へと向かった。

 基盤目状に整然と仕立てられた絢爛な街並みの雅な輝きが彼らを迎える。規則的に配置された五重塔を吹き抜ける風が活気をのせて舞い飛ぶ。景観法によって保たれた伝統ある美麗な建築物と、生き生きと萌ゆる自然とが調和し、神秘的光景を醸し出す。

 ……それら神秘と伝統が覆い隠す下に蠢動するは欺瞞と惨憺。ここはキョート・リパブリック。ガイオン・シティ。


【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】



 ガイオン・シティ某社にて。二人の人影が、ザゼンルームめいた一室で向かいあって座している。

 一人は端正な顔立ちの若い男。白磁の如き麗しい肌、ミディアムスタイルに整えられた幽玄な薄紫色の髪。纏うフォーマルスーツは気品ある月白色。彼の名はマサラサマウジ・ハクトウ。或いは、スプレンディド。ザイバツ・シャドーギルドのマスター位階に属するニンジャである。

 もう一人は、彼と同年代か少し下かという年頃の、切れ長の目をした美しい女。ミルキーベージュの髪は朱色のカンザシでまとめられており、着用するのはダークネイビーのパンツスーツ。アスミ・キナタコ、ニンジャとしての名はペネトレイト。アデプト位階のニンジャだ。

 対面する二人の間、黒檀のチャブ上には二人分のチャと茶菓子。儀礼的作法の痕跡は僅か。今この時間は私的な交流であり、両者にムラハチの意思は存在しない。キョート人らしい奥ゆかしい最低限の礼儀作法に則った所作で二人は言葉を交わす。

「パーティの参加者名簿は仕上がったんだっけ」

 ハクトウが言うと、キナタコはチャを啜りながら頷いた。男は怜悧な声で続ける。

「当日の送迎、護衛、警備……その辺りはどうだい?」

「つつがなく手配できています、マスター」

 茶器を置いたキナタコが、鈴を転がすような凛とした声音で答え、手元の端末を操作する。聚楽壁に帷めいて下されたプロジェクターに、警備隊やVIP警護人員らの数と配置が映し出された。ハクトウは微笑みながら頷いた。

「うん、いいね。会場内にはロイヤルスモトリ重戦士を置こうかと思うけど……」「そちらも手配のメドが立っています。明日には良い返事ができるものかと」「さすが。手際がいいね、我がアプレンティス」「……アデプトです」キナタコは朱色のカンザシを手慰みにした。

 彼らが話すは、マサラサマウジ・ハクトウが経営を担うタワーホテル『リジェンシ・セッショ』完成を祝う催しに関するもの。端麗な男は顎に手をやって、少し考え込む素振りを見せる。

「……まぁ、ケビーシ・ガードの手を借りられればそれが一番なんだけど……スローハンド=サンから恩を受けることになってしまうからね」

「はぁ。私は、その、政治的なことはよくわかりませんが。かのグランドマスターと繋がりを得るのは不都合が?」

「ふふっ。おれは何処にも肩入れしていないし、されるつもりもないよ。時に、二大貴族主義派閥の一角、イグゾーション=サン亡き後の派閥闘争は実際目まぐるしい。今はパーガトリー=サンが彼の派閥を吸収していって力を増していっていることだし……ここでスローハンド=サンとやり取りすれば、パーガトリー=サンに目をつけられるかもしらない」

「はぁ……なるほど……?」

「君もザイバツ内で生きていくなら、こういう面倒ごとも勉強していかなきゃな。無知のままでは都合よく扱われ、濡れ衣を着せられ、カマユデにされるぞ」

「……善処します」

 ……マスター・ニンジャ、スプレンディドはザイバツ内の如何なる派閥にも属せぬ、所謂『根無草』のニンジャである。確かなカラテとジツ、高位のソウル、優れた血統、経営の手腕、組織への多額の上納金、忠義……それらが彼を強者たらしめ、無派閥を貫くことを可能とさせている。

 強者の根無草は、派閥間のパワーゲームに巻き込まれることはない。如何なる干渉も受け付けない。ただし、それは安泰と危殆を隣り合わせにする。少しでも綻びを見せれば付けいられ、絆されることとなるため常に強者であり続けねばならず。また、如何なる干渉も受け付けぬと言うことはつまり、根無草側からも干渉ができぬことを意味する。誰の手も借りられぬのだ。

「それに……」ハクトウはチャを少し啜り、息を吐いてから言葉を紡ぐ。「それに、スローハンド=サンは出奔した元グランドマスター……トランスペアレントクィリン=サンと深く関わりがあったようだからね。……厄ネタを抱え込んでいる可能性がある。陰謀に巻き込まれるのは避けたいね」黒漆の茶器を卓上に置き、茶菓子を手に取り口にする。

「出奔」キナタコは首を傾げた。「トランスペアレントクィリン=サンは追放されたのでは」

「ン?そうだったかな……何にせよ、シテンノという忘形見を置いて彼はギルドを去った。それは事実だね。そのシテンノも、今やパープルタコ=サン唯一人だが」

「パープルタコ=サン……ああ、あのお綺麗な方」

 キナタコの言葉にハクトウはやや含みのある笑みを浮かべて頷いたあと、感傷めいて言う。

「師父に捨て置かれ、友に先立たれ。まこと、ショッギョ・ムッジョであることよ。彼女は確か、ブラックドラゴン=サンの形見たるアプレンティスの面倒を見ているのだったか……」

「色々と知っておいでですね」キナタコが茶菓子を口にした。「ギルドのことも、ギルドのニンジャのことも」朱色のカンザシを物憂げに手慰みにしてから、嫋やかに茶器を手に取り、嗜む。

「うん?それはそうだ、伊達にマスター位階に就いていないよ」言い終えて、ハクトウも茶菓子を口にした。そして品のある仕草でチャを飲み、それから、何とはなしにもう一度茶菓子を口にした。

「これ、美味しいね」

「そうですね」キナタコも同様に茶菓子を口にしていた。「また用意しておきます」

「うん、ありがとう」

 ハクトウが微笑みながら礼を言うと、キナタコの凛とした顔は微かに綻んだ。


◆◆◆

「ヨシ!……ヨシ、だよね……?」

 あどけなさの残る純朴な顔を可憐な化粧で彩ったサヤラ・アタネがドレッサーの前で所在なさげに自問自答する。この日のためにキンジと相談を重ねた、オーダーメイドの艶やかなドレスに包まれた彼女の緊張感を、柔らかな男の声が解す。

「大丈夫!アタネ=サン、綺麗だ。とっても」

「キンジ=サン、ありがとう」振り返ったアタネは和かに微笑み、正装姿のサヤラ・キンジを見る。「……でも、私なんかが参加して本当にいいのかな……あっ!い、いいのかしら?こういうの、お呼ばれしたことなんてないし……なくてよ?」ドギマギした口調のアタネにキンジは笑みを溢した。

「ハハ、変に取り繕わなくてもダイジョブ!アタネ=サンはアタネ=サンのままでいてくれれば良いよ。何かあっても僕がついているしね」

 朗らかに会話を弾ませながら、着々と支度を整えるサヤラ夫妻。今日は『リジェンシ・セッショ』で催されるパーティの当日だ。二人の元に誘いの電子メールが届いたのは数ヶ月前のこと。キンジはすぐさまに参加の意を示した。後日送られてきた物理招待状を手に取ったとき、確かな実感をもった。これまでの苦難の道が報われた、と。

 一方、アタネは困惑した。分不相応であると感じたからだ。そして困惑は疑念に変わった。一般人上がりの自分にシツレイを起こさせ、夫をムラハチに陥れようとする邪悪な罠なのではないか、と……さりとて招待を自分だけ断れば、それこそムラハチ……。

 そうした苦悩を打ち明けると、キンジは彼女の胸中を汲み取り、真摯に答えた。主催たるマサラサマウジ・ハクトウは卑劣なムラハチ・トラップなどを仕掛ける輩ではない。もし仮に敵意を持っていたとしても、そのような姑息な手段は用いることはないだろう。小細工を使う必要がないほどに強大な力をもっているのだから。何より、ハクトウとは以前から交流があり、彼の誠実さをキンジは知っている……と。

 アタネはキンジの言葉を信じた。これまでそうであったように。そして、彼の真摯な答えに感謝した。キンジもまた、悩みを素直に打ち明けてくれるアタネに感謝した。そうやって、二人で生きてきた。サヤラ夫妻は幸福であった。マッポーの世の暗澹に呑まれ、苦難の果てに辿り着いた幸福だ。


◆◆◆


 ……サヤラ・キンジは、妻アタネと共に立ち上げた香水ブランド事業を成功に収めて成り上がったカチグミであるが、その道のりは平坦ではなかった。キンジは、元々裕福な家庭で挫折を知らずに育ったサヤラ家の一人息子であった。家業を継ぐその時のため、経営のノウハウを学び、成長して……そして彼が成人して間もなくの頃、サヤラ家は没落した。利欲と権益に眼を光らせる暗黒メガコーポの黒い影が彼らを貪ったのだ。

 サヤラ家はキョートで根を張る家柄ではなく、ネオサイタマから移住してきて短期間に財を成した、謂わばトザマのカチグミ。キョートの闇は彼らの想定よりも深く、暗く、邪であった。サヤラ家は資産を搾り取られた末に土地を奪われ、キンジの父母は失意のままに病を患いこの世を去っていった。

 巻き込まれまいと手を切っていく近縁の者たちに見放され、天涯孤独の身となったキンジは絶望に明け暮れる日々を送った。UNIX喫茶やコフィン・ホテルを転々とし、その日暮らしに身を費やす鬱屈な日常。

 生まれた時からマケグミである者と、カチグミから転落してマケグミになった者とでは、自身の置かれた底辺の生活への感じ方は大きく異なる。前者は世界に悪態と呪詛を吐きつつも、それが定めと心の奥底で認めているため、不幸な己の境遇に対してはある程度消極的な肯定を持つ。

 一方、後者にとって、その生活はジゴクの有様。元々の高水準の生活を知っているため、下落した生き方とのギャップに苦しむことになるのだ。キンジのような、生まれもってのカチグミの場合……現実を知らぬため、根拠のない希望に縋り付いてしまう。『いつかまた、以前のような生活に戻れるはずだ』と。その根も葉もない希望が、歪な棘となって刺さり続け、生きたままにジゴクを見続けることになる……。

 サヤラ・キンジはそのジゴクのなかにいた。そうしてやがて、現実を受け止めてしまい、心身共に力尽き……月夜のなか、ケイモ川に身を投げようとしていたその時。彼を引き留めたのが、偶然通りがかった会社帰りのオーエル、アタネだった。互いに見ず知らずの人物で、全くの初対面であったが、アタネは必死にキンジを説得した。キンジは、久方ぶりに絶望の色を持たぬ涙に頬を濡らした。

 アタネは彼を宥め、言葉を交わし、手に提げたコンビニ弁当のビニル袋を彼に手渡した。それから、彼が住居を持たぬことを不憫に思い、自身の暮らす安アパートの一室に彼を迎え入れ、コンビニ弁当を分け合った。アタネは何度も何度も、彼を宥めた。キンジは何度も何度も、彼女に感謝した。

 それから暫くキンジは、アタネの厚意に応え、居候生活を送っていた。お互いに、よく笑って、よく泣いて、よく笑った。キンジは日雇い労働に精を出し、休日にはアタネとガイオンの観光地を巡ったり、ショッピングモールで両手いっぱいに買い物袋を提げたりした。穏やかな日々だった。灰色になった人生に彩りが映えていった。

 そうしてある時、サヤラ・キンジは思い立って行動を開始した。努力をした。幼い頃から学んできた経営のノウハウをニューロンの奥底から引き出し、学び直し……人生のプランを明確に立ち上げていった。アタネはそんな彼の姿に心打たれ、何か自分にも手伝えることはないかと願い出た。

 キンジは迷った。実際、彼女の手を借りて、やってみたいことがあった。あったがしかし、そもそも彼女に恩を返すために始めたことである。迷った末に、彼はその迷いをアタネに打ち明けた。アタネは彼の手を取り、告げる。「それじゃあ、私からも恩返しってことでどうかな?」と。訳を聞くと、彼女は言った。

「キンジ=サンと出会ってから、私、ずっと楽しかった。幸せなの、すごく!だから、そんな幸せをくれたキンジ=サンへの恩返し。キンジ=サンは私への恩返し。だから、二人で!……どう?」

 照れ隠しにはにかむアタネに、キンジは見惚れた。二人目があって、逸らして、また見つめあった。そして……。


◆◆◆

 アタネがオーエルとして務めていたのは香水ブランド企業であった。彼女はヒラ社員且つ広報担当で、商品の直接の開発に深く携わっていたわけではなかったが。アタネ自身、香水への造詣は深かった。好きな物を取り扱う仕事に就職して、日々を取り繕って生きてきたのだ。

 香調を深く理解し、ノートにあった需要の層を的確にリサーチし……彼女の才はヒラに置いて眠らせておくものではない、とキンジは直感的に考えていた。アタネ自身のやりたい仕事をやってもらうことが、キンジからの彼女への恩返しとなった。彼の願いに手助けすることが、アタネから彼への恩返しとなった。

 キンジのカチグミ視点の目線や考えと経営の手腕、アタネの一般層視点の目線や考えとアーティスト的才能。それらを遺憾無くハイブリッドさせ、結果、事業は見事に大成した。数字が軌道に乗り、安定し……サヤラ・キンジはカチグミに舞い戻った。それから、アタネに想いを告げた。彼女と同じ想いを。そして二人はチャペルで誓いを立てた。

 キンジはアタネと幸福に暮らすために、より一層努力を重ねた。自己の性格、体験談、それらはカネに変えられると考えた。謙虚さと奥ゆかしさに包んで、それらをパフォーマンスに活かした。そうした積み重ねの末に……かけがえのない今を得ることが出来たのだ。


◆◆◆

 アタネのプロデュースした自社製品の香水と、来季には市場に顔を出す予定の試供品との詰め合わせパック、二人分の招待状。準備は整った。キンジのIRC端末が通知音を鳴らし、送迎車の到着を知らせる。

「じゃあ、行こうか。アタネ=サン」

 そう声をかけ、彼女をエスコートし、邸宅を出る。黒漆塗りのリムジンが彼らを待っている。アタネは運転手に丁寧にアイサツし、それから、同乗するSPや同伴する警護車両の面々にまでアイサツをした。そんな彼女の姿をキンジは誇らしく思った。彼は丁重な出迎えのなか、リムジンに乗り込もうとし……ふと、空を見上げた。ドクロめいた月が浮かぶ宵闇を。

 遠くの夜空で、群れを成して飛ぶバイオガラス達が、等間隔配置された五重塔のひとつに屯しだしている……。

「キンジ=サン?」小首を傾げるアタネの声にはっとした様子を見せて、キンジはかぶりを振った。「ゴメン、なんでもない」そう返しながら、彼の胸中には妙な胸騒ぎがあった。インセクツ・オーメンめいていた……つまり、根拠のない不安だ。彼はそれを振り払った。アタネの手を取って、車内に乗り込み……運転手を見つめる。

「くれぐれも安全運転でお願いしますよ」、その言葉は胸の奥で押し留めた。言葉の内容も、かけるタイミングも、何もかもがシツレイの極みである。何をそんなに不安がっているのか、彼自身疑問に思った。

 一度転落を味わったがゆえの、幸福への恐れだろうか。またここからドン底に陥るのではないか、そういった恐れ?……ならば尚のこと振り払うべきだ。アタネと歩んで掴み取った幸せを、手離してなるものか。彼は妻の手を握った。彼女はその手の上に自らの掌を添えるように重ねた。

 ……ブロロロロ……彼らを乗せたリムジンがガイオン市内を駆けていく。夜景の光がホタルめいて淡麗に街々を彩っている。等間隔の五重塔の瓦屋根が、月明かりや地上の格調あるネオンライトに照り返して宵を染める。昼間の美しさとは違った、幻想的な光景。

 ガイオン景観法に厳しく定められた建築物の高さ、奥ゆかしい明度の輝きたち。遠い昔の暮らしでは、当たり前のようにあった街並み。ようやくここまで返り咲けた。何よりも大切な人と共に。

 流れていくそれらの景色を、可憐に着飾ったアタネが車窓から眺めている。キンジは、綺麗だと思った。夜景も、夜景を眺めるアタネの横顔も。視線に気づいた彼女が、柔らかに微笑んでキンジの方を振り返った。彼もまた、笑みを返した。そして……。


 幸福の時間はそこで終わった。

 ドスンッ……何か、重たい音が鳴り、運転手が驚きの声を上げた。リムジンのルーフ上からその音は響いた。何か……質量のある何かが落ちてきたようだった。ミシミシと音を立てて、それがめり込むように沈んでくる。一瞬にして緊迫感に包まれたSP達が一斉に武装を構える。

 サヤラ夫妻は、まず呆気に取られた。混乱した。アタネは車窓に横目を向け、外の様子を視界に入れた。随伴する警護車両の一台が、真っ黒な触手に絡まれて鉄屑めいて押し潰されていき、また別の一台は触手に軽々と放り投げられて、どこか遠くに落ちていった。遅れて爆発音。

 リムジンの走行が止まる。運転手は必死にアクセルを踏んでいる。進まない。タイヤが何かの上で空回りし続けている。タイヤに散らされた黒い液体が跳ね飛んでいく。ミシリ、ミシリ……不穏な金属の軋み。慌ただしくSP達が夫妻を護衛し、車外へ退避させようとする。訳もわからず、キンジとアタネは互いの手を握って、車外へ出た。

 一瞬遅れて、黒く流動するコールタールめいた何かが、車窓を突き破って流れ込んでいく。それは車外に飛び出した者達すらも襲った。キンジは咄嗟にアタネを庇い、鞭めいて振るわれた暗黒物質に打ち払われてアスファルトの上をバウンドしていって倒れ込んだ。警護の者達が口々に何事か叫びながら、リムジンのルーフ上に銃口を向ける。黒い、黒い……ドロドロとした球体に。

 球状をしたそれに、気泡めいた断続的な空白が生じていく。そして、弾けた。

 SPLAAASH……!!!

 方々から悲鳴が上がる。弾け飛んだ黒い汚泥がSP達を丸ごと呑み込み、或いは叩き潰していく。

 アタネは、唐突に訪れた現実感のない光景に呆然としていた。力が抜け、ヘナヘナとアスファルトにへたり込む。そうして、見上げる。弾け飛んだ暗黒物質の中から姿を現した、二つの人影を。痩躯の男と、小柄な娘。

 悪魔じみた哄笑が響き渡る。笑い声の主たる痩躯の男を、その顔を……囚人めいたメンポを見据え、アタネは芯の底から恐怖した。「ア……アア……ッ」それは遺伝子に刻まれた深淵の畏れ。「ア……アイエエエエ!?ニ、ニンジャ!?ニンジャ、ナンデ……!?」脊髄反射の叫び声と共に、彼女のニューロンは限界を迎えてホワイトアウトしていった。意識が薄れていく。

……「ヘヘハハハ。だから言ったろ、アタリだ。へへへ」……「なァー、これカネモチしか入れねェのかな?俺らも行っていいヤツか、これ?なァ?」「しらない」……声が遠ざかっていく……。




2.

 ガイオン・シティの栄華は、厚化粧のオイランの美麗さと似ている。詮索の気無しに表層だけを見やるならば、憂いはない。ただただ、美しい。厚化粧をしたオイランは、何も自らを誇示するためだけに化粧をしているのではない。コンプレックスの反動でもない。己を見る者達の眼に彩を添えたい、美しい物を魅せてやりたい……そういったオモテナシめいた精神を着飾っているのだ。

 では詮索の気あれば。厚い化粧の下の素顔を覗けば?……畢竟、見る必要のないものを見れば然るべきインガが待つ。繁栄と神秘、美麗、奥ゆかしさ。それらが虚飾であると知る。ガイオン中心部や、観光事業に栄える一部の区画から目を離せば、暗澹たる荒廃が極自然と其処彼処で蠢いているのだ。

 地下に広がるアンダー・ガイオンだけが退廃と不道徳に満ちているのではない。或いはアッパー・ガイオンに蔓延る邪さの方が余程悪徳であるやもしれぬ。より狡猾で、陰湿で、理不尽。それらが底無しの闇を生み出し、その闇に悪しき心持つ者らが隠れ潜む。

 そして闇に蔓延るのは人のみに在らず。人の理を外れた超常の者たちもまた、邪悪に心を染めて舌舐めずりしている。闇の中で。

 ……たとえばそう。ガイオン地表の美観を保つアーティファクトのひとつ、コンデンサめいて等間隔に建つ五重塔に目を向けられよ。それらのなかには、表面を奥ゆかしい装飾に着飾って偽装した欺瞞的違法施設が紛れ込んでいるのをご存知であろうか?公然と衆目に触れている文化的伝統建築物にすら、闇は潜んでいるのである。

 それら偽装された違法施設のひとつ、監獄めいたオイラン養成所には惨憺たる破壊と殺戮の痕跡が刻まれていた。収監されていたアワレな幽閉オイランたちは、突如として現れた襲撃者によって『解放』され、冷たくなって横たえている。

 いま施設内には襲撃者の影はない。悍ましき死屍累々の有様だけが残されている。しかし、もしあなたがニンジャ洞察力をお持ちであれば、この場に残された他の手がかりに気がつくことであろう。即ちニンジャソウルの残滓、軌跡。襲撃者と、それを撃退するためにエントリーした施設防衛ニンジャの足取りを。

 そしてその足取りが、施設外へ、上へ、上へと続いていっていることを理解いただけただろうか。……ならば耳を澄ませられよ、サツバツの夜に響く恐るべき惨劇を臨め。


◆◆◆



「イヤーッ!」

 絢爛の夜を眼下に見下ろす五重塔のひとつで、恐るべきカラテシャウトが響いた。黄土色の装束を翻したニンジャが瓦屋根を蹴り飛び、その手に携えた鈍く光る刃を振り抜いて残光を闇に走らせる。

「グワーッ!」

 袈裟斬りに斬りつけられた痩躯の男がたたらを踏んで後ずさった。彼の纏う拘束衣めいた装束の革ベルトや鉄輪が擦れ合ってガチャガチャと音を立てる。刃の主たるザイバツ・ニンジャ、ストークレイザーは彼を睨んで更なる追撃を試みる……「イヤーッ!」否、連続側転で回避!何を?

BRATATATA !!!

 銃弾を!一瞬前まで彼がいた地点をサブマシンガンのフルオート掃射が射抜き、熱帯びた鉛弾が闇に舞う!

 ストークレイザーを睨みつけて遮二無二銃身を振り回すのは小柄な娘だ。袖や裾が毟り取られたドレス、絶望と荒廃に澱んだ碧眼。華奢な体躯。少女は奥歯を噛み締めながら、敵の姿をそのターコイズブルーの瞳で追う。トリガーを引き続ける。

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 黄土色装束の男はしかし、彼女の銃撃をものともせずに容易く回避、回避、回避……「豆鉄砲でニンジャを殺せるものか、小娘!」苛烈な鉛弾の嵐を無傷で潜り抜けながら叫ぶ。「下衆に与する不良児童!貴様には後でしっかりと教育を施してやろう」少女の碧い瞳が不快げに細まった。言葉は彼女に向けたものであるがしかし、ストークレイザーの視線は少女には向いていない。殺意に濁る双眸が睥睨するは痩躯の男。

「……先に彼奴を仕留めてからな!震えて待っておれ!」

 言葉を吐き捨てたストークレイザーに向かって、少女は引き金を引き続ける。

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 回避、回避、回避。回避ムーブから続け様に跳躍、「イヤーッ!」先ほど斬りつけた痩躯の男へ急速接近!少女は銃口を向けるがしかし。CLICK、CLICK。ナムサン、アウト・オブ・アモー!彼女は苛立ちを顔色に僅かに覗かせ、空になったマガジンを放り捨ててリロードしだす。その頃には既にストークレイザーは男の眼前へ。

「死ねーっ!デスドレイン=サン!死ねーっ!イヤーッ!」

 カタナが振るわれる!邪神存在をその身に宿した凶悪ニンジャ……デスドレインの痩躯に冷たき刃が走った!

「グワーッ!」デスドレインは拘束衣をはためかして上体を仰け反らせて身動ぎ……「グワッ、ハ……ハ。ハ。ハ。ハハハハハ!ヘヘヘハハハハ!」嗤った。彼の病的な色白の肌から、血液の代わりに迸る暗黒の液体が躍動し、ワームめいて犇いて刃の主へと襲いかかる。

「ヌゥーッ!イヤーッ!イヤーッ!」急速バク転回避、しかし暗黒の流動体は執拗に迫る。「イ、イヤーッ!」カタナを振るう。コールタールめいた汚泥が飛沫を散らす。刃の光が暗黒を断つ。斬る、斬る、斬る……そしてすぐに繋ぎ合わさる。目を見開く彼の四肢に暗黒物質が瞬く間に纏わりついて締め上げた。「グワーッ!?」拉げた腕からカタナが落ち、金属音を響かせて瓦屋根を跳ねる。

「ヘヘヘヘヘ。捕まえたァー……」

 痩躯の男は悪魔めいた笑みをたたえ、仰け反っていた上体をゆっくりと起こす。斬り裂かれた傷に暗黒物質が黒い泡を立てて流れ込み、裂傷を埋めていく。男はそれを見せつけるように拘束衣めいた装束をはだけさせながら、獲物のもとへ歩み寄っていく。

「残念だったなァ?頑張って斬ったのによォ、ヘヘッ、無駄だ!全部無駄!」せせら笑いながら片手を突き出す。「グワーッ!」ストークレイザーの四肢を縛る暗黒物質が柱のように屹立し、彼は滑空するムササビめいた状態で宙吊りに拘束された。

「グワーッ!チ、チクショウ……!」

「へへへ……オイ、アズール。こッち来い!」

 彼らから少し離れたところに佇む少女の方へ、デスドレインが首を巡らせて言った。アズールと呼ばれたその少女は頷き、リロードを終えたサブマシンガンをスリングベルトで肩に掛けて彼の方へと歩く。潰れたスニーカーで瓦を踏伝う。吹き抜ける夜風と瓦屋根の傾斜を不安がって、足取りは慎重だ。

「いや、遅ェよ。チンタラしてンじゃねェ」

 痩躯の男は気怠げな声音を紡いで己の頸をバリバリと掻く。暗黒の触手が少女の方へ伸びていき、彼女の細い腰に巻き付いた。華奢な身体が宙を舞って彼の方へと手繰り寄せられる。デスドレインの側にまで少女を引き寄せると、触手は液状化して男の身体へと染み込んでいった。解放されたアズールは足を踏み外して転げ落ちそうになり、咄嗟に腕を伸ばして彼の腰元にしがみついた。

「……ッ」

「へへ、ダセェの……」

 せせら笑うデスドレインに歯噛みして、アズールが彼の腰元から離れようとする。彼はその様を揶揄いながら少女をかき抱き、彼女の髪を不躾にクシャクシャと撫でてから腕の力を弱めた。アズールはバランスを崩して転んでしまわないように、慎重に彼の腕から抜け出した。デスドレインはケタケタと笑って、自由を奪われたストークレイザーの方へと向き直る。

「ンー、どうすッかなァ。……あ、そうだ。これ、使わせてもらうぜ」囚人メンポの下の口元に下劣な弧を描いて、触手を伸ばす。向かう先はストークレイザーが取り落としたカタナ。黒い蔦めいた触手がそれを拾い上げ、宙に吊るされた持ち主の元へと迫る。

「ヤ、ヤメロー!ヤメロー!」

「ヤメロー!ヤメロー!……へへへへ!」

 戯けて言葉を真似してみせた後、彼は触手にカタナを振り上げさせた。「アバーッ!?」宙空に留められたストークレイザーの胸元から腹部までがバッサリと斬り裂かれる。「アバッ、アバババーッ!」絶叫して痙攣する彼の身体からボトボトと血肉と臓腑が零れ落ちていく。その光景に目元を愉悦に歪ませ、悪魔は嘲笑った。

「へへ、きッたねェなァー!ンなもんブチ撒けてンなよ!」カタナを明後日の方角に放り投げたアンコクトンの触手が、辺りに散乱する腑を無造作に呑み込みながら拾い上げていく。「しゃあねェから戻してやるよォ」ニタニタと笑んで拾い上げたそれらを、アンコクトンごとストークレイザーの肉体に生じた裂け目に無理くり詰め込む。

「アバッババーッ!!アバッ!アアアーッ!?」

 歪に膨張するストークレイザーの肉体のあちこちから血肉と暗黒物質が交わったグロテスクな肉塊が溢れ出ていく!コワイ!

「へへ、アバッアバッ!アババッ!アバッ、ハハハハハ!ヘヘヘハハハ」

 おお、ナムアミダブツ!何たる猟奇的饗宴か……!ストークレイザーとて理不尽を振る舞う邪悪なニンジャであるが、デスドレインは彼を上回る不条理存在であった。アズールはその悍ましき光景をジッと見つめている。犠牲者のあげる壮絶な絶叫にも、咽せ返るような血肉の臭いにも、少女はとうに慣れてしまっていた。

 とはいえ、彼女にとってそれは喜ばしいことではない。表情に乏しい仏頂面には不愉快さの色が僅かばかりにみえ、翳りを落としている。アズールの視線の先では、デスドレインが勿体ぶるような手付きで、ストークレイザーの眼窩に枝めいた指を突き刺して彼の眼球をくり抜いていた。

「アバッ……アババッ……」ザイバツ・ニンジャは息も絶え絶えに激しく痙攣し続けている。「ゴボッ、オゴゴッ」彼の口から這い上がってきた暗黒物質が、メンポを押し除けて流れていく。最早その命はロウソク・ビフォア・ザ・ウィンドといえよう。デスドレインは呆れたように肩を竦めた。

「アーア、もうへばッてンのか、テメェ。だらしねェなァー……アア?なンだよアズール、興味津々か?お前もやりてェか?コレ」少女の視線に気づいたデスドレインが、指に刺さった眼球をチラつかせながら少女に声を掛ける。「それか、お前もほじくられてェか。目ン玉」アズールは後退りながら首を横に振った。

「ヘヘヘハハハハ。ビビッてやがンの。やらねェよ、やらねェ」

 彼は肩を揺すって笑い、ゴミの如くに眼球を放り捨てて歩き、少女の前に立った。目玉焼きめいてべチャリと瓦に潰れるそれを一瞥することもなく、彼はヤンク座りで屈み、アズールに視線の高さを合わせる。

「お前の眼ェ、空色Azureだもンなァ。ヘヘヘへ」

「……?」

 いつものような悪辣なニヤケ面をした彼から紡がれた言葉の意味は、アズールには理解できなかった。戸惑って、ただただ、デスドレインのぬばたまの瞳を見つめていた。淀んだ碧と残忍な黒とが交錯する。過ぎていく一秒一秒が、彼女には重たく、永く感じられた。自分と眼前の悪魔とだけが世界から切り離されたかのようだった。

 ……Caw……Caw……。

 暗く響き渡る陰鬱なバイオカラスの鳴き声に意識が覚め、アズールは虚脱感から抜け出た。辺りを見渡すと、血肉の臭いを嗅ぎつけたらしいバイオカラス達が瓦屋根のあちこちで羽根を休めて剣呑に二人を睨んでいる。

「ンー?せっかちだなァ、お前ら。まだ早ェよ。もう少し待ッとけ……なァ?」立ち上がったデスドレインがストークレイザーの方を見た。そして眉を顰めた。ズカズカと彼の元へ歩み、眺め、わざとらしく溜息をつく。「アーララ、死んじまッてら。根性ねェなァ、コイツ?」彼は振り返ってアズールに話しかけた。彼女は不思議そうな顔をして、宙吊り状態の凄惨な骸を見つめていた。

「……死んだの?」

「ア?見りゃわかンだろ」

 痩躯の男は枝めいた細長い指で屍をつつく。尚もジッと見つめ続ける少女を訝しみ、それから合点がいったような仕草をみせた。

「アー、アー。ナルホド。へへ……イイこと教えてやるよアズール。勉強の時間だ」

 バシャリ、ストークレイザーを拘束していたアンコクトンが液状化してデスドレインの肉体に染み込むように吸収されていく。骸の眼孔や口などなら流れ出てきた物も同様に。拘束から解放された惨たらしく損壊した屍体が瓦屋根に落ちて跳ね上がり、傾斜を転がっていく。五重塔から墜落していったそれを、バイオカラスの群れが追従していった。

 その光景を横目にデスドレインはアズールに近づき……極々自然な動作で腕を伸ばして、おもむろに彼女の細い首に手をかけた。

「かふッ……!?」

 突然に訪れた窒息感に息を詰まらせて、アズールは男の腕を引き剥がそうとする。デスドレインはニヤケながら緩やかに力を込めた。

「ニンジャってさァ、くたばッたら爆ぜちまうンだけど。じっくり苦しめてさァ、衰弱死させたら……死体。残ンだよ。こンな感じに、絞め殺したりしたら……へへへへ」

「……ッ!」

 絞める力が強まる。華奢な身体が強張る。少女の見開かれた碧い双眸が涙に潤うと、デスドレインは彼女の細首からパッと手を離した。少女は力なく座り込んで、激しく咳き込む。

「ゲホッ、ゲホッ!……ううッ……」

「へへ。マジに殺されると思ったか?アズールゥー……へへへへへ」

 涙目になってデスドレインを睨みつける少女に対し、彼は悪びれる様子もなく戯けてハンズアップし、手をヒラヒラとさせた。

「ヘヘ。へへへ。勉強になッたろ?」

「……」

 アズールは答えず、しかめ面で息を整えている。遥か下から聞こえてくるバイオカラスの鳴く声が騒々しい。屍肉を啄み貪る彼らの姿は美観を損ねる恐れがあるため、やがては役員らによって駆除されてしまうことであろう。デスドレインがそこらに散らばった肉片を摘み上げ、鳴き声の聞こえる方へ屋根上から戯れに放り投げてから、アズールの側に座った。

 彼は暫く無言で己の膝に肘を置いて、頬杖をついていたが……少女の呼吸が落ち着いてきたのを見やると、気怠げな声音で言葉を紡ぎ出した。

「……そういやよォー、アズール。お前、あン時言ってたよな」

「……?」

 空色の瞳が彼を見た。

「生意気な口利きやがッてな?ピーピー喚いて……『この人が死んだら、私を誰も連れて行ってくれない』……だッけ?」

 甲高い声で言葉を真似るデスドレインに、アズールは口を噤んで顔を背ける。彼は構わずに、ケラケラと嗤って言葉を続けた。

「ヘヘヘハハハ。俺、記憶力いいかもな?ヘヘ、へヘヘ……なァ、なンだよアレ。連れて行く?行きてェとこあンの?どこ行きてェんだ、アズール。タノシイランドでも行くか?」

「……わからない」少女は伏目がちに、か細く言った。「どこに行きたいかなんて、わからない。わからないから……助けてあげたの」吹き抜ける夜風に頬を撫でられながら、彼女の淀んだ空色の瞳は、遠くに広がるガイオンの夜景を、世界を、ぼうっと見つめている。「……あなたが死んだら、私はどこにも……」少女の物憂げな横顔をデスドレインはせせら笑った。

「へへへへ。ンだよそれ……どッか行きてェならテメェで勝手に行きゃいいだけなのによォ。でもダメか!お前、俺がいなきゃ何にもできねェもんな?どうしようもねぇガキだもんな……」

 言いながら彼はやおらに立ち上がって背筋を伸ばす。アズールがデスドレインを見上げる。

「じゃ、行くかァ」

 デスドレインが欠伸をしてから目を細くして、手庇で街を見渡す。アズールも立ち上がって、彼の隣に佇んだ。

「どこに行くの」

「知らね。へへ、いちいちンなこと考えてッからガキなんだ、お前。なんつうの?カンだよ、カン。取り敢えず行きゃいいンだ!へへへへ!」

 肩を揺すって笑い、デスドレインが少女の小さな肩に手を置いた。二人の周囲に暗黒物質が湧き上がる。彼はアズールをかき抱いて宵闇に向けて飛び出した。

「そンで、つまンなくネェならアタリ!ヘヘヘハハハ!」

 嗤笑をあげて五重塔から飛び降り、暗黒物質を波乗りめいて足元に纏わせて付近の高層建築物の屋上に着地。爛々と邪に瞳を染めて、デスドレインは屋根屋根を飛び伝っていく。ケダモノの直感と、凶悪死刑囚ゴトー・ボリスの邪悪な知性が彼を衝き動かしている。遠目に視界に入れた、見慣れぬタワーホテル。其処彼処のカネモチ・レーンの物々しい動き。ワカル。何があるかは知らない。だが、ワカル。

 飛び渡り続けた末に、商業ビルのひとつにデスドレインは暗黒を伴って着地した。先程まで破壊と殺戮を蒔いた五重塔は遥か後方だ。屋上の縁から眼下に広がる光景を見据える。複数の警護車両。リムジン。躊躇することなく、アズールを連れて飛び降りる。

 そうして、自由落下の空中でデスドレインは両手を大きく広げた。手離されたアズールは彼の痩躯にしがみついた。瞬間、暗黒の流動体が躍動し、彼らを包み込んで球形をとった。アンコクトンの球が夜を降下していく。

 光通さぬ暗闇のなか、デスドレインは猛禽めいて拘束衣を大きく広げ、己にしがみつく少女を覆うように包み込んだ。アズールはしがみつきながら、彼の顔を見上げようとした。暗黒のなかで、その表情は見えなかった。


◆◆◆



 落下の衝撃をアンコクトンの層が受け流す。足場ができたことを認識したアズールはデスドレインから手を離して、彼の側に立った。悪魔は嗤い声をあげて、暗黒物質の球形を解いた。流動する黒い汚泥が凄惨な破壊と殺戮の災禍を広げていく。

 リムジンから脱した綺麗な身なりをした男が、艶やかなドレス姿の女を庇って暗黒の触手に打ちのめされて遠くに転がっていく。女は悲鳴をあげてへたり込んで気を失う。暗黒が彼らについていた護衛を次々と屠っていく。少女の空色の瞳に残酷な現実が灼きつく。

 デスドレインは愉悦に顔を歪ませて、足場たるリムジンに流し込んだ暗黒物質で車両内部を弄った。蔦めいたそれらが不格好に外装を突き破って生えてくる。

「ア、アイエエエエ……!」

 それら暗黒の蔦のひとつが、拉げた車両内から重傷を負ったらしい運転手を引き摺り出していた。彼は息も絶え絶えに恐れ慄いた。

「ヘヘ、ラッキーだな?車ごとペシャンコにならずに済んで良かッたなァ」

 悪魔が顔をグッと近づけ、嘲笑う。暗黒の蔦が、リムジンごと挽き潰されたSPの肉塊を引き摺り出して、貪っていく。運転手は失禁した。

「ニ、ニンジャ……ニンジャ、ナン」「ラッキーついでにコレもやるよ!」「アイエッ!?」

 デスドレインが彼の顔に掌を差し向けた。次の瞬間、「アバッ!?ゴボボーッ!?」ナムアミダブツ!体内に暗黒物質を流し込まれ、運転手が壮絶な叫び声を上げた。その肉体が歪に膨張、直後破裂!「アバババーッ!!」黒と赤が混じった穢らわしいヘドロが飛び散り、カネモチ・レーンを醜く染め上げる!

「へへへ……そンで、コイツもラッキーだ」

 黒い蔦に絡め取られた汚れたドレスポーチと襤褸めいた紙袋を見やる。損傷しているが、完全に潰れてはいないようだ。蔦を己の側に近づけ、それらの中身を物色しだす。まず紙袋を破いたデスドレインは目を細くして、香水の詰め合わせを眺めた。不躾にスプレーボトルの一つを取り出し、アズールの方を見る。辺りに立ちこめる酸鼻な血肉の臭いや、硝煙の焦げ臭さのなかで、彼女は拡がる災禍を仏頂面で眺め続けていた。

「オイ、アズール」呼びかける声に、少女が振り向く。「ヘヘヘッ、ほらよ」デスドレインは悪戯に笑って、フルーティノートの香水を彼女に向けて吹きかけてやった。

「ンッ……!?けほッ、けほッ!」

 嗅ぎ慣れない鼻腔をつく香りにアズールは反射的に咳き込み、「なに、これ……?」それから困惑した。惨たらしい殺戮の場には凡そ相応しくない、モモやメロンめいた果実的な香しい匂い。自身やドレスから香るそれを怪訝そうにスンスンとかいで、眉を顰める。

「ヘヘハハハ。だから言ったろ、アタリだ。へへへ」

 デスドレインは戸惑う彼女の表情をケラケラと笑って、スプレーボトルを放り捨てた。何か言いたげな様子のアズールを遮り、デスドレインはドレスポーチの中から取り出した招待状を彼女に見せつける。それから愉快そうな声音で言葉を発した。

「見ろよコレ。パーティすンだッてよ、アソコで」

 彼は枝めいた指で、遠景のタワーホテル『リジェンシ・セッショ』の方を指し示した。淀んだ碧い瞳がそちらを見やる。遠目にも聳え立つ豪奢な建造物が視認できる。デスドレインは言葉を続けた。

「カネモチの連中がさァ、善良な市民から搾り取ったカネで自分たちだけ良い思いしてンだ。ムカつくよなァ、アズール」

 心にも思っていない言葉を平然と、つらつらと述べるその顔を、碧い瞳が見つめた。痩躯の男は良からぬ期待に眼を濁らせて、手にした招待状をひらひらと弄ぶ。

「へへへ……なァー、これカネモチしか入れねェのかな?俺らも行っていいヤツか、これ?なァ?」

「しらない」

 ぶっきらぼうに吐き捨てて、アズールはデスドレインから視線を逸らした。彼女の瞳は、アスファルトに倒れ伏す男女の方を向いた。女の方が、震えながら身を起こそうとしている。デスドレインもそちらを見やり、邪に眼を細くした。リムジンから飛び降り、ヤンク歩きに足を進める。彼の足元からは暗黒物質が沸き続けている。 

「うう……キ、キンジ=サン……」

 朧げながらも意識を取り戻したサヤラ・アタネは辺りの凄惨な光景に構わず、離れた位置に倒れ込んだサヤラ・キンジの方へと体を引き摺りながら向かい、必死に身を起こす。オーダーメイドのドレスは煤塵や血に染まって、汚れ切ってしまっている。子鹿めいて震えながら、なんとか立ち上がる……。

「ドーモォ」

「アイエッ……」

 投げかけられた声に背筋が凍った。腰が抜けかけるのを何とか堪えて、アタネは死に物狂いで駆け出した。声の方には振り向かない。決して見てはいけない。コワイ。見るのはキンジの方だけ。脚がもつれる。折れてしまったヒールを脱ぎ捨てて、裸足でアスファルトを走る。

 ……アタネは違和感を覚えた。次の瞬間には、彼女の身体は宙を舞っていた。暗黒の触手が彼女に巻き付いて、悪魔の元へとアタネを引き寄せていた。自由の効かなくなった身体を恐怖に震わせ、彼女は邪悪なニンジャの凝視を受ける。

「ヘヘヘ、ドーモ、ドーモ……」

「ド……ドーモ、アタネ、です……サヤラ・アタネ……」

 男の不遜なアイサツに、彼女は歯の根を震わせながら応えた。ニタニタと嗤うニンジャから眼を逸らそうとしたが、恐怖の感情に縛り付けられたアタネにはそれが出来なかった。悪魔は嗤う。

「ハハハハ!アイサツする余裕あンだな。それか平和ボケしてンのか?バカみてェな面ァしてるしな……へへ、俺ァ、デスドレインってンだ」

「デ、デス?ドレイン?」

「そーそー。デス(死)、ドレイン(排水溝)。ワカルカナ?俺にピッタリだろ……ヘヘヘヘヘ」

 別の触手が彼女の目の前に躍り出て、肉塊を貪り喰らう様を見せつけた。ドブじみた暗黒物質を見ながら、アタネは震えた声で言葉を紡ぐ。

「……デスドレイン=サン……お、お願いします。どうか、どうか……助けてください、見逃してください……!」

 涙を流しながらアタネは必死の形相で懇願した。眼前の邪悪存在が人語を介して話をしていることに、一抹の希望を託した。縋るほかなかった。

「頑張って、頑張ってきたんです……私も、キンジ=サンも!やっと、やっと幸せになれたんです!どうか、命だけは……!せめてキンジ=サンだけでも助けて……」

「ホォー、ホォー。努力してきてンだ、あンたら。そういうカネモチもいるンだな。へへ、イイじゃん、イイじゃん」

 言いながらデスドレインはアズールの方へ視線を送った。それから、離れた地点で倒れ伏すキンジの方を顎で示す。少女は頷いてリムジンから降り、スリングベルトに掛けたサブマシンガンを携えて彼の方へと向かっていった。その様子を、アタネは絶望に染め上げた顔で見つめることしかできなかった。

「アズール、ソイツはまだ殺すなよォー!オアズケだ、我慢しとけェ!へへへへ!」

 哄笑をアズールの背に浴びせる。少女は小さく舌打ちして、歩調を早めて行った。悪魔はアタネに向き直り、口を開ける。

「あのガキの面倒見てたヤツが、ガキ置いていきやがッたからよ。俺、アイツの世話してやッてンだ。ッタリィよ、マジで。ダリィ。そンで、最近女ァ犯せてねェンだ」

 長く黒い舌が、獲物を品定めするように舌舐めずりをした。怯え竦む女を濁った黒い瞳が粘っこく見つめる。

「まだパーティまで時間あるみてェだし。愉しませてくンねェかなァ?いいかな?いいよな?なァ?」

 ……女の絶叫と悲鳴、悪魔の嗤い声が宵闇に響く。サヤラ・アタネの幸福は潰えた。



3.

 冷たいアスファルトの上で、キンジは億劫に眼を覚ました。視界はぼやけたまま。全身がズキズキと痛んで、燃えるように熱い。鈍重に身体を起こし、混乱したニューロンを何とか整理させようとする。あの時、何が起こったのか?どれほど時間が経ったのか?突然、リムジンに何かが落ちてきて……アタネを連れて外へ……それから?……。

「……アタネ=サン!!」

 喉の奥から声を絞り出す。ハッキリと意識が覚醒する。視界が明瞭になる。渦巻く炎、煙、煤塵、血……黒い液体。凄惨な光景が目に飛び込んでくる。キンジはリムジンであったスクラップを見た。瞬間、冷たい何かが彼の背に突きつけられた。筒状の何かが。背筋に悪寒が走る。

「動かないで」

 腰の辺りから、淡々とした女の声音が聞こえてくる。仄かに漂う、果実めいたフレグランス。キンジは恐る恐る首を巡らせて、視線を背後にやった。小柄な少女が彼の背中に銃口を押し付けている。「お、女の子……?うぐッ」その銃口がグッとより強く押し付けられた。

「……動かないで」

「君は……君は誰だ。何者だ?何が目的で、こんな。こんなことを!」

 困惑と怒りが綯い交ぜになった激昂を背後の少女にぶつける。答えは返ってこない。鼻腔をつく芳しい香りが、彼の最愛の妻を想起させる。キンジは尚も熱帯びた声を上げる。

「アタネ=サン……アタネ=サンはどうした!?彼女に何かあれば、僕は容赦しない……ぞ……?」

 ……その熱が急激に冷えていくのをキンジは感じた。突如として眼前に飛来した、巨大な黒いヘドロの塊に困惑した。困惑はやがて、恐怖に変じた。

「ヘェー。容赦しねェって、何する気だキンジ=サン?カラテでもすンのか」

 ヘドロの中から、のっそりと男が姿を現す。若い女を小脇に抱えて。男は拘束衣の金具をガチャガチャと弄り、装束を整えながら気怠げに口を開く。

「ファーア……デスドレインです」

 オジギもなくば、掌を合わせることもない欠伸混じりの不遜極まりないアイサツだ。

「ア……アイエエ……ニンジャ……!?」

 シツレイを指摘する余裕など当然なく、キンジはただただ芯の底から這い上がってくる深淵の恐怖に震えていたが……悪魔じみた痩躯に抱えられた女の姿を捉えて、眼を見開いた。

「……アタネ=サン……?」

「ヘヘヘッ、おもしれェ顔してンなァ、お前。この女ァ、ヤッてるあいだ、ずぅ……ッとお前の名前呼ンでたぜ?『アン、アッ、アアン!キンジ=サン、キンジ=サァーン!助けてェー!』つッて」

 デスドレインが悪辣な言葉を吐き、アタネの肉体をドサリと投げ捨てた。ぐったりと横たえる最愛の妻。うつ伏せの状態で、顔は見えない。きっと、安らかな顔はしていないだろう。そんな変わり果てた妻の姿に、キンジは唖然としていた。現実を受け入れられなかった。悪魔は愉快そうに吐き連ねる。

「それなのにお前、ぐっすりオネンネしてンだもんな?ヒデェよ、ヒデェ!キンジ=サン、お前最低だ!人間のクズだ、ヘヘヘヘヘ!」

 その下卑た嗤いに、キンジの胸中に段々と怒りの感情が沸々と湧き上がっていく。相手はニンジャだ。本能が理解している。敵うわけがない。それでも感情は、衝動は止められない。噛み締めた唇から血の味がする。震える拳を握る。目一杯に力を振り絞る……!

「き……貴様ァーッ!」

 噛み締めていた口を開け、叫ぶ。無我夢中でカラテを構えて飛び出す。ニューロンの引き出しを開け、幼少期にカチグミの嗜みとしてカラテを習った経験を絞り出す!

「イヤーッ!」

 BRATATATATA !!!

「グワーッ!?」

 しかして彼の尽力は容易く、呆気なく折られてしまった。背後から浴びせられた無慈悲なサブマシンガンのフルオート射撃が、彼の脚を撃ち抜いたのだ。鮮血を迸らせて転げ込むキンジを無表情のままに一瞥した少女が、デスドレインの方を見やる。

「これでいい?」

「アーアー、ヒデェことすンなァ、アズール。せッかくコイツ、カラテしようとしてたのにさ……ロクデナシだな、お前も」

「……どうせ殺すんでしょう」

 ケラケラと嗤う悪魔に辟易としながらアズールは銃を下ろし、這いつくばるキンジの側を通り過ぎてデスドレインの傍に向かっていった。キンジは苦悶に喘ぎながら己の無力さを嘆く。少女と悪魔を睨み上げる。唐突に訪れた悪逆非道の使徒らを呪う。

(((……いや……違う。わかっていた筈だ。不吉な予感はあったんだ。インセクツ・オーメン……ああ、ブッダ!あの時僕が、引き返していたならば……アタネ=サンは……)))

 歯を食いしばって、匍匐めいて脚を引き摺りながら変わり果てたアタネの元へと這う。せめて最期は一緒に。直にケビーシ・ガードがやってきて、この暴力者たちを討伐してくれるだろう。だから自分の役目は、アタネがちゃんと向こう岸に着けるよう、一緒に……。

 その時、彼のニューロンは妙にクリアになって、思考を巡らせた。何かが引っ掛かっている。何かが。違和感がある。その違和感は?

(((……ケビーシ・ガード?ガイオ罪罰治安部隊……ガイオン市警す罪罰だ来てい罪罰というのに、ケビー罪罰来て罪罰るのか?そも罪罰何故周りが静か罪罰だ?カ罪罰チ・レー罪罰こん罪罰惨事が起きてい罪罰罪罰いうの罪罰何故?罪罰何の騒ぎに罪罰罪罰も罪罰罪罰罪罰)))

 思考罪罰巡罪罰る。ニュ罪罰罪罰罪罰おかしい罪罰罪罰ニンジャが罪罰罪罰罪罰ニンジャナン罪罰這いず罪罰アタネの元へ罪罰罪罰罪罰空色の瞳が細ま罪罰罪罰罪罰格子模様。目玉。無数の。ガイオン罪罰罪罰罪罰罪罰

罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰罪罰

 歯を食いしばって、匍匐めいて脚を引き摺りながら、横たわるアタネを見る。あと少し、あと少しだ。せめて最期は一緒に、アタネがちゃんと向こう岸に着けるよう、一緒に。ニンジャの恐怖から逃れられるように。

「……ゴボッ」

 キンジの目が見開かれた。その音はアタネの喉から発せられていた。

「ゴボッ、ゴボボッ……」

「ア、アタネ=サン……!」

 必死になって、痛む脚を、体を無理やり起こす。デスドレインはヘラヘラしながらアタネを見下ろし、それからキンジに邪な眼を向けた。

「ヘヘ、そらよォー」

 デスドレインに乱雑に蹴り転がされたアタネの肉体がキンジの眼前に放り出された。キンジは血を滴らせながら屈み込んで、彼女を抱きかかえた。

「ゴボボッ、オゴッ、ゴボッ」

「アタネ=サン!アタネ!アタ……ネ……」

 抱えた彼女の、その顔を見やる。可憐に飾った化粧は汗や涙で滲んでいる。素朴であどけないアタネの表情は恐怖と苦痛に歪んでいる。肌はとても冷たい。彼女の開かれた口からは……黒い液体が垂れ流されている……。

「……アタネ?」

 とめどなく流れるヘドロめいた黒い液体。あの悪魔じみたニンジャが纏っているのと同じ物。ドロドロとしたそれは、口だけでなく彼女の鼻からも。そして。眼球を押し出し除けて、眼窩からも黒い汚泥が流れ出た。激しく痙攣しながら、アタネから……アタネの屍体から、コールタールめいた暗黒物質が這い出していく。

「なァ、キンジ=サン。どンな感じだ、今。気分最悪か?」

 身を固くして茫然自失とするサヤラ・キンジにデスドレインが歩み寄る。彼はニヤニヤしながらキンジの頭を鷲掴みにした。

「ヘヘハハハ。カワイソーになァ、アタネ=サン。ほら、キスしてやれよキンジ=サン。アタネ=サンがカワイソーだろ?一人で死ンじまッてさ……」

 グッと力を込めて、彼の顔をアタネの顔へと近づける。目鼻口から黒い汚泥を垂れ流す顔へと。キンジは震え慄いた。

「ヤ……ヤメ……」

「はァ?ヤメロって言おうとしたか今?やッぱヒデェな、あンた!ヘヘヘヘヘ!まァいいや!ハハハ、俺、優しいからさァ。サービスしてやるよォ……」

 より強く力を込める。ニンジャの力に抗えるはずもなく、キンジの顔がアタネの顔に押し付けられる。「ンム……ッ!?」「オゴッ、ゴボボーッ!」直後、アタネの口から暗黒物質が大量に湧き上がり、キンジの口内へ!

「オゴーッ!?ゴボッ、ア、アババーッ!?」

 陸に打ち上げられたマグロめいてサヤラ夫妻の身体が跳ね上がり、激しく痙攣しだす。穢らわしい水音を忙しなく立てて、二人の肉体をアンコクトンが蹂躙する!ナムアミダブツ!

「ヘヘ、へへヘハハハハ!オシアワセニ!ハハハハハ!」

 猟奇的な光景に腹を抱えて大笑いするデスドレイン。程なくして、キンジの肉体から湧き上がり出した新たなアンコクトンが、彼の中に踊り込んだアタネのアンコクトンを押しのけ、混ざりあいながら噴出した。二人分の命を弄び貪ったヘドロめいた暗黒物質が、重なり融けながらデスドレインの痩躯に染み込んでいく。アスファルトに拡がっていた黒い汚泥がゴボゴボと泡立つ。

 常軌を逸した残虐な行いを、空色の瞳が見つめている。表情の乏しい少女の顔には、不愉快さが僅かに滲んでいた。ひとしきり笑った末に、デスドレインはアズールの方を振り返った。心底愉快そうな顔を浮かべて、彼はズカズカと少女に歩み寄っていく。

「ヘヘ、ヘヘヘ……ハァーッ……お前もキスしてみるかァ?アズール」

 背を折り曲げながら囚人メンポを剥がし、彼女の顔を覗き込むように見やる。

「嫌、だ」

「へへへ、ツレねェの」

 アズールが後退りながらかぶりを振って拒絶すると、デスドレインはヘラヘラと笑って口から暗黒物質を吐き出し、囚人メンポを己の顔に張り付けた。周囲のアンコクトンが彼らの元へと集約していく。

「そンじゃ、チンタラしてねェで、とッとと行こうぜ。……アー、そうだ。アズール」

 デスドレインがチョイチョイと手招きする。アズールは警戒しながら、オドオドとした様子で彼に近づいた。痩躯の男は暗黒の触手を己の側に来させて、そこに呑まれていた物体を引き摺り出し、少女に手渡した。

「それ持っとけ。パーティ行くンだしよ、手ぶらじゃシツレイだぜ」

「……」

 アズールは言われるがまま、それらを預かり持った。アンコクトンが二人を包み込んでいく。次なる饗宴の舞台へと、暗黒は進撃を開始した。破壊と殺戮の痕跡を夥しく残して、デスドレインとアズールはその場から消えていった。

 一層強く吹いた夜風が、警護車両の残骸を焦がす炎を巻き上げて、火の粉を辺りに散らしていく。サヤラ夫妻の屍に付着したそれが、二人の衣服に燃え移っていく。二人分の荼毘めいた炎と煙が燻って、ガイオンの夜空に昇っていく。




◆◆◆





 リジェンシ・セッショ、特別応接室。厳かな墨モルタルの壁には『不如帰』の掛け軸。シックな色調のモンツキで着飾ったフクスケが、ベルベット生地の高級ソファに腰掛けて向かい合う人らを眺めている。

 今、この場には居るのは三人。端正な顔立ち、その口元を扇子で扇ぐマサラサマウジ・ハクトウ。そして、その秘書たるアスミ・キナタコ。彼女は座さず、ハクトウが腰掛けるソファの背凭れの側に立っている。

 二人と紫檀の机を挟んで向かい合うのは中肉中背の男。ハクトウとアスミよりやや歳上といった程の男だ。彼はソファに深く腰掛け、好奇心に満ちた目つきで室内の調度品等を見渡していた。

「いやぁ、立派なものですねぇ。実際、完成を今か今かと待ち望んでおりましたから!投資の甲斐があったというもので!」

 男は恩着せがましく、粘っこい声で言葉を発した。アスミは僅かに侮蔑の眼を見せるが、男は気づかなかった。ハクトウは扇子で口元にやって、柔らかな眼差しで男に言う。

「ええ、ええ。お世話になりました、ヤンスギ=サン」

「ドーモ、ドーモ。これからもヨロシクオネガイシマス」

 ヤンスギ・オミダは力強く頷いて手を差し伸べる。ハクトウはアスミに目配せした。彼女は静かに頷いてその場を離れた後、恭しい所作を以てチャを運んできた。心地よい香りを立てたそれを、机上に置く。

「つまらないものですが」

 差し出された茶器を見て、ヤンスギは一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに和かな顔を作ってそれを受け取った。ヤンスギがナスめいた漆塗りの茶器を三度手元で廻して一気に飲み干す様を、ハクトウとアスミはジッと見つめる。

「フゥーッ、いやはや結構なオテマエで!」

「ははは。余程喉が渇いておられましたかな?斯様、綺麗に飲み干されて」

 扇子で口元を扇ぎながら、ハクトウは柔かに微笑んだ。ヤンスギは満足げな顔をして、音を立てながら茶器を机上に置く。

「左様、ここまで急いで来ましたからな。ああいや、無論走ったりはしていませんがね?比喩的なものです。いち早く馳せ参じた次第で……」

「ええ、ええ。ヤンスギ=サンとは、他の参加者の方を差し置いてでも……個人的に。話がしとう御座いましてな」

 ハクトウの言葉の後、アスミは嫋やかな仕草で一礼し、朱色のカンザシで結えたミルキーベージュの髪を揺らして、奥ゆかしく部屋を出ていく。ヤンスギは身を乗り出しながら興奮気味に口を開いた。

「となると、マサラサマウジ=サン。次の共和国議会の、議員選挙への……!」

 彼は貪欲さを隠そうともせずに眼を爛々と輝かせた。ヤンスギ・オミダはまだ若い、新進気鋭の政治活動家だ。官僚の父を持ちながら、伝統と歴史で成り立ったガイオン、ひいてはキョート共和国に革新を齎そうと意気込み、そのフレッシュさと歯に衣着せぬ斬新な発言によって少なくない数の支持者を得ている。

 ヤンスギはリジェンシ・セッショへの投資に一早く手を挙げ、多額の資金援助を行ってきた。マサラサマウジの血統を継ぐ者を後ろ盾に得られれば、議席確保に一歩近づくと考えていたためである。そして今、タワーホテル完成を祝うパーティにおいて。彼は他の参加者らとは別に、密やかに特別応接室に通された。間違いなく、好意的な言葉を聞けるはずだ。

「ええ、ええ……」

 ニコニコと笑みを目元に湛えるハクトウにヤンスギは喜色の顔を浮かべた。

「ハハハ、やはりお若い方とは意見が合いますなぁ。共に古臭い伝統を脱却していきましょうぞ。……あー、そうそう。このタワーホテルなんかもそうですよ!僕からすればねぇ、こういうのはもっともっと高く建てた方がより立派でスゴイ!あの忌々しいガイオン景観法……五重塔より高い建築物を建ててはいけないなどど、全く反吐が出ます」

「ええ、ええ……」

 忙しなく捲し立てるヤンスギに対し、ハクトウは微笑んだまま、顔色ひとつ変えない。一人喋り倒していたヤンスギはハンカチで汗を拭ってソファに座り直した。

「フゥーッ、一気に喋ると実際疲れます。チャのオカワリをお願いできますか?」

 ヤンスギは柔かに言った。それから、ハクトウを見やって息を呑んだ。扇子で口元を覆った彼の眼差しは、ゾッとする程冷たかった。

「は。は。は。時に、ヤンスギ=サン。イカロスの言い伝えを知っておりますかな」

「え?イ、イカロス?」

「ええ、ええ。ギリシャ神話の……栄光という太陽に近づき過ぎたが故に、蝋の翼を失って墜落死した傲慢な人物です」

 扇子に隠された口元から、怜悧な声で謎めいた言葉が紡がれる。ヤンスギは拭ったばかりの額に浮かんだ冷や汗を、再度ハンカチで拭った。

「それが……何か?」

 緊張に渇く喉で言葉を搾り出す。ハクトウは鼻を鳴らして、冷ややかに声を綴る。

「或いはソドムの伝説。死海周辺に存在した古代頽廃都市ソドムは、その道徳的腐敗を見咎めた神によって火を放たれ、業火の中に潰えました」

 ハクトウの瞳、その虹彩に不可思議な淡い金色の光が帯びていく。ヤンスギは得体の知れない不気味さを感じ、より深く、身をめり込ませるようにソファに座り込んだ。

「さ、先ほどから何の話をしておられるのかな、マサラサマウジ=サン……」

「わかりませんか?では、もっと卑近な例を挙げて差し上げましょう」

 怜悧な声と、金色の瞳。柔かさはとうになく、あからさまな蔑みの感情が彼の目元に浮かんでいる。ハクトウは一拍あけて、言葉を放った。

マグロアンドドラゴン・エンタープライズ。その顛末……覚えておいでですか?」

 イカロスやソドムなどの、馴染みの薄い神話や伝説の話から、一気に身近な名前を紡がれ、ヤンスギは奇妙な不可解さを感じた。緊迫感に包まれながら、どうにか息を整えて口を開く。

「え、ええ。はい。マグロアンドドラゴン社ね……そう、あのカイシャこそ僕の理想ですよ。高度規制を反して本社ビルを建てて……本当に惜しいですよ、ガイオンに新しい風を吹かせるキッカケになっていたでしょうに」

「ヤンスギ=サン。イカロスやソドム……ああ、バベルの塔もそうですね。あれらは愚かにも神の領域を侵そうとして滅んだ。滅ぼされた。そして同様に……マグロアンドドラゴン・エンタープライズもまた、神の怒りを買って滅んだ。……そうは思いませんか」

 ヤンスギ・オミダは目を丸くして、秀麗な若き貴人の顔をまじまじと見た。ハクトウは刺すような侮蔑の視線で彼を見据えている。新進気鋭の政治活動家は鼻白んで肩を竦めた。

「フゥーッ、やれやれ……変に緊張して損をしましたよ。マサラサマウジ=サン、あなたはもっと理知的で常識のある方とお見受けしていましたがね」

 ハンカチを懐にしまい、打って変わった余裕さを見せつけてふんぞり返る。

「いきなり何を言い出すかと思えば、まったく。イカロス?ソドム?バベルの塔?ハッ、神話や伝説など、所詮はフィクションですよ。マグロアンドドラゴン社はノンフィクション!現実です。神の怒り?そんなスピリチュアルな話に踊らされるのは、それこそ愚かというものです」

 ヤンスギは傲慢な物言いを放ってみせ、ハクトウの反応を伺った。白磁めいた美麗な肌をした貴人はやはり顔色ひとつ変えず。冷たい視線を向けたまま……ゆったりと扇子を閉じた。

「……え?」

 ヤンスギが素っ頓狂な声をあげて固まった。時が止まったかのように。彼の目は、ハクトウの顔に釘付けになっていた。ハクトウは閉じた扇子を紫檀の机に置き、男を金色の瞳で見据える。彼の隠されていた口元……否、鼻から下は均整の取れたプラチナのメンポに覆われていた。

 ミディアムスタイルに整えられた閑雅なる薄紫色の髪、その毛先に向かってグラデーション状の金色の光が走る。高貴な紫金の髪を指先で撫で付けながら、ハクトウは掌を合わせて優雅にオジギをした。

「ドーモ、ヤンスギ・オミダ=サン。スプレンディドです」

「ア……アイエエエエ!?」

 アイサツを受けたヤンスギは激しく動揺し、後退ろうとしてソファを転倒させた。

「アイエエエエ!ニンジャ!?ニンジャナンデ!?」

 急性NRSを起こし、激しい動悸に襲われながら失禁!己の正装姿を汚しながら、ブザマに這いずって部屋の隅へ向かおうとする!

「イヤーッ!」

「アバーッ!」

 大理石のフロアタイルにナメクジめいて失禁跡を延ばしながら逃げ惑うヤンスギの背中に、スリケンを象った金色の光が突き刺さる。スプレンディドはツカツカと歩んで、彼の前に立った。

「スピリチュアルな話。そう言いましたね?ええ、ええ……ですがどうでしょう。私は実際ニンジャです。わかりますか?」

「ア、アイエエ……」

「わかりますか?」

 スプレンディドはヤンスギの背に刺さった光のスリケンを踏みつけ、より深く突き刺した。

「アイエエエエ!」「わかりますか?」「わ、わかります!わかりました!」

 混乱と恐怖に醜く顔を歪めて、吐血混じりに男は叫んだ。スプレンディドは鼻で笑い、足を離す。

「ヨロシイ。さて……ニンジャは実在しています。ノンフィクションです。ニンジャがノンフィクションであるならば、どうでしょう。イカロス、ソドム、バベルの塔……それらに纏わる話がフィクションの産物であると言えますか?」

「そ、そんな……そんなバカな……まさか……!?」

 太古の恐怖が、遺伝子に刻み込まれた深淵の恐怖が、ヤンスギの知識と常識を凌駕して、残酷なまでの理解力を授けた。点と点が繋がっていき、ニンジャ真実の輪郭線をなぞっていく。半神存在を、その恐怖を前にして、本能が理解している。

「ええ、ええ。イカロスも、彼を灼いた太陽も。ソドムを焼き払ったのも。バベルの塔を崩したのも。全てはニンジャなのです」

 淡々と、冷酷に告げられた真実を理解し、ヤンスギは発狂しそうになった。だがスプレンディドはそれを許さず、背に生えた光スリケンを踏みつけて苛み、痛みで彼の正気を引き留めさせた。息も絶え絶えの男にスプレンディドは言う。

「マグロアンドドラゴン・エンタープライズ。アレが侵したのはガイオン景観法であり、それは神の……即ちニンジャの領域を侵したことに等しい。ガイオンを支配するのは共和国議会でも政府でもありません。ニンジャなのです。ニンジャの怒りを買って、彼らは滅んだ」

「う……ううっ!そんな……で、では、僕は?僕は、ニンジャの怒りを?」

「ええ。あなたも、あなたのパトロンもね。泳がせておいたんです。愚者の元には愚者が集まる。塵は纏めて捨てた方がいいでしょう?……ああ、そう。あなたの支援者は先にサンズ・リバーの向こうへ渡っていますよ」

 言い終えると、彼は倒れ込んだヤンスギの襟を掴み、軽々と片手で彼の身体を持ち上げた。悲鳴をあげるヤンスギの首に向け、チョップ手を構える。

「アイエエ!アイエエエエ!」「イヤーッ!」「……ア?」

 恐るべきカラテシャウトに恐怖した後、ヤンスギは訝しんだ。何も起こらない。困惑する彼の首が傾いた。寸分違わぬ赤色の線がその首に走り、切断された頭部が脱落した。

「……アバーッ!?」

 ナムサン、ボトルネックカット・チョップ。余りにも速いチョップ斬撃の振り抜き。スプレンディドのシルクグローブには一切の汚れが無い。彼はフクスケの頭に手を置く。隠し機構が展開し、大理石フロアタイルの一角がダストシュートめいて開くと、無感情に屍をそこに捨て入れた。床を転がる頭部も同様に、無感情に蹴り転がして捨てた。

 スプレンディドは紫檀の机に向かい、机上に置いた閉じた扇子を手に取ってから懐にしまう。グラデーションめいた金色の光が淡く消えて、薄紫一色の髪に戻る。プラチナメンポもまた、光となって消え失せた。マサラサマウジ・ハクトウは衣服を整えながら部屋を出る。廊下ではアスミが待機していた。一礼する彼女にハクトウは頷く。

「終わったよ。あとはパーティを楽しむだけだね」

「ハイ。……あっ」

 佇まいを正す彼の所作のなか、フォーマルホワイトスーツのポケットに、彼女は厚手の上等なハンカチーフを見た。ハクトウが身につけている服飾より、ワンランクほど価値が下回るそれを。思わず漏らしてしまった小さな声を恥じて、アスミは口元を手で覆い隠した。

「どうかしたかい?」

「……いえ、スミマセン。シツレイを」

「ふふっ、いいよ別に。何もないならそれでいい」

 微笑みをアスミに見せて、先を歩くハクトウ。アスミは彼に続いて歩みを進める。口元を綻ばせ、少し
だけ、朱色のカンザシに手を触れて。




4.



 ……「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」……。

 キョート城に響き渡る禍々しいバンザイ・チャント。常人がその光景を目の当たりにすれば、震え上がって昏倒、ないしショック死してしまうであろう。そのようなザイバツ・シャドーギルドの恐るべき儀礼のなかに、スプレンディドは参列していた。

 此度の例会は人事昇進の発令によるもの。スプレンディドは先日まではアデプト位階に属していたが、本日をもってめでたくマスター位階へと昇格を果たした。その血統と資産、カラテ、ジツ、礼儀作法やワビチャ、奥ゆかしさ……上層部の目に適う要素を多く持つ彼がその座に就くのには、そう時間は要さなかった。

 彼以外にもアデプトからマスターへ昇進したニンジャは複数いた。今この場でバンザイ・チャントに参列するは、その昇進者達である。

「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」

 栄光ある位階を授かった者達のバンザイ・チャントの様子を壇上から見下ろし眺めるはザイバツ・グランドマスター。その全員が参列しているわけではないが、彼らのニンジャ存在感は実際凄まじい。バンザイひとつをとっても、厳粛な審査の対象なのである。

……「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」「「「ガンバルゾー!」」」……。




◆◆◆





 ……儀礼を終え、恭しく退室していくマスターニンジャ達。一礼から歩み方まで、動作の全てを入念に観察されながら、彼らは一切のシツレイを犯すことなく退室した。万年アデプト位階のニンジャらが昇進できぬ理由は様々であるが、こういった儀礼への知識・理解の無さがその大半を占めている。ギルドに属する者に求められるのは、単なるカラテのワザマエだけではないのだ。

 栄誉を授かったマスターらはそれぞれ会釈をして別れていく。スプレンディドは一人、キョート城の渡り廊下を歩いていた。気品ある所作で歩みを進める彼の後方から、藍色の装束を纏った若い女ニンジャが早歩きでスプレンディドに歩み寄っていく。足音を立てぬよう気を付けながら、ミルキーベージュの長い髪を揺らして。スプレンディドがやおらに振り返ると、彼女は喜色を表情に浮かべた。

「ハク……」

 言いかけた言葉の途中で、彼女はハッとして手で口元を覆った。スプレンディドの目が細まる。女は首を横に振って息を整えてから、もう一度口を開いた。

「シ、シツレイしました。スプレンディド=サン。マスター位階の就任、おめでとうございます」

「うん、ヨロシイ。公私は分けておかないとね。そしてありがとう、我がアプレンティス。ペネトレイト=サン」

 スプレンディドが頷くと、ペネトレイトは申し訳なさそうに恐縮した。彼は苦笑して立ち止まり、それから彼女と肩を並べ、歩調を合わせて歩みを進めた。そうして見事な庭園を見やりながら歩くうち、ペネトレイトがおずおずとした様子で言葉を紡ぎ出す。

「そ、その。今日この後の予定って空いてる……この後の予定は空いておられますか?」

「ン?いや……就任直後は色々とやることがあるみたいでね。会合や提出書類……その他諸々に。何か用があったかい?どこかのタイミングで埋め合わせするよ」

 金色の瞳が彼女を見る。ペネトレイトは逡巡した。スプレンディドは彼女の言葉を待つ。女ニンジャは意を決して彼の顔を見据えて言った。

「ハク……スプレンディド=サンに、渡したい物がありまして。今日が無理なら、その。今。今、受け取ってもらってもいいですか!……つ、つまらないもの、ですけど」

 藍色装束の懐から取り出した上等な桐箱を差し出す。スプレンディドは少しだけ呆気に取られていたようだが、緊張した面持ちに赤面したペネトレイトを見て柔かに笑み、それを受け取った。

「開けても?」

 彼の言葉にペネトレイトがコクコクと頷く。スプレンディドは桐箱を奥ゆかしく開き、その中を検めた。丁寧に包装された品を手に取り、嫋やかに包装を解く。そこから現れたのは、上質な厚手のハンカチーフだった。高価な品であることは見て取れる……ハクトウが普段身につける服飾よりかは、ワンランクほど価値は下回っているようだったが。

「僭越ながら、昇進のお祝いを……その、オフセの足しにでもしていただければ、幸い、です……」

 恐縮しながら段々と申し訳なさ気に小さくなる女の声。若き貴人はハンカチーフを綺麗に折りたたんで桐箱に入れ直し、それを自らの装束の懐に仕舞い込んだ。

「ありがとう。大事に使わせてもらうよ」口元を綻ばせて彼は言う。「ふむ……そうだな。ペネトレイト=サン、君が無事アデプトに昇進したら、私もお祝いの品を贈ろうか」

「……え?」

「嫌かい」

「え、えええ?い、嫌だなんてそんな!そんな訳ないです、違います!嬉しいです!ただ、その、恐れ多いというか……!」

 慌てふためくペネトレイトに、スプレンディドは少年のような屈託のない笑顔を浮かべた。陰謀と殺伐が渦巻く万魔殿の息苦しさのなかで、彼女と過ごす時間は確かな安息を彼に齎した。美しいミルキーベージュの長い髪が揺れる様を見やり、贈り物を何にするか思案しながらスプレンディドは彼女を宥める。

「落ち着きたまえ、我がアプレンティス。気が早いよ。その気持ちはアデプトに昇格するまで取っておいて」

「は、はい。精進します!」

「ヨロシイ。では次の任務が降るまで、自由に過ごしていたまえ」

 そう言って彼は手を振り、ペネトレイトと別れた。彼女に見送られながら城内を行き、長い階段を上がっていく。途中、階段を降りてきた男のニンジャとすれ違った。頭巾とメンポに覆われ目元だけが露わになった顔、その目つきからは隠しきれぬ傲慢さが滲んでいる。スプレンディドは会釈をして彼の側を通り過ぎようとしたが、そのニンジャは神経質な声でスプレンディドを呼び止めた。

「やぁやぁ、ドーモ。スプレンディド=サン。エスカリエです」

「……ドーモ、エスカリエ=サン。スプレンディドです。ゴブサタしています」

 立ち止まって振り返り、ニコリと笑んでスプレンディドはアイサツを返す。エスカリエは大義そうに頷いて口を開いた。

「此度のマスター位階昇格。大変にメデタイことでありますな、スプレンディド=サン。今後のご活躍を心よりお祈りしておりますよ」

「ハハハ。ありがとうございます、アデプト・エスカリエ=サン。いつか同じマスター位階として肩を並べられる日を心待ちにしていますよ」

 怜悧な声に僅かばかりの棘を添えてスプレンディドは言った。言葉自体は柔らかであるが、エスカリエはその真意を汲み取っている。即ち嘲笑を。彼の瞼が微かにヒクついた。

 エスカリエはアデプト位階に属するニンジャだ。スプレンディドよりも先に組織に所属していたニンジャ。家柄が良く、カラテとジツも確かな彼は同位階の者やアプレンティスに対して大きな態度を取る。上層部には打って変わって媚び諂う。そういう男だ。

 常々エスカリエは自身を将来のグランドマスター候補であると言い張り、自らを誇示してきた。新参者且つ歳下であったニュービー当時のスプレンディドに対しても同様に、ネンコをアピールして見下してきたのだった。スプレンディドは理知的な男であるが、無感情では無い。エスカリエに与えられた屈辱を、張り付けた笑顔で彼はやり過ごしてきた。

 そして今このとき、逆転した立場で彼らは会した。スプレンディドはマスター。エスカリエはアデプトのままだ。エスカリエの実力は確かであるが、彼が属する派閥の主はエスカリエのことをそれ程好んではいない。彼の性格は、貴族主義の元に派閥の拡大を目指すかのグランドマスターからは煙たがられている。恐らくはこれからも、エスカリエはアデプトのままだろう。プラチナメンポの下でスプレンディドはほくそ笑んだ。

 そんな彼に向け、平然を装った穏やかな顔を見せるエスカリエ。その胸中が怒りに煮えたぎっていることは明確だった。彼が何事か言葉を発する前に、スプレンディドは当たり障りのない別れのアイサツを告げてその場を後にした。一方的な別れであるが問題はない。立場はスプレンディドの方が上なのだ。エスカリエが口にしようとしたのは、大方、所属派閥への誘いだろう。乗る気はない。エスカリエは口惜しげに別れ、負け惜しみの如くに尊大な仕草をとって階段を降りていく。

 その背を後目にスプレンディドは階段を上がり切り、キョート城からガイオンの街を見渡した。基盤目状に規則正しく整備された交通路、コンデンサめいて等間隔に配置された五重塔。美しく萌ゆる自然と調和したアーティファクト。

 華麗な街々を視界に、今後の展望をニューロンに思い描く。グランドマスターとの接し方、派閥との距離感。組織への忠義の示し方、マサラサマウジとしてのビジネス。煩雑に思考を巡らせ、それから溜息を吐いた。『キョートは時間の流れが遅い』……ミヤモト・マサシの遺した名句が脳裏を過ぎる。

「……まずはペネトレイト=サンへの贈り物を何にするか考えておこうかな。その方が遥かに良いや」

 そう独りごちて、声音を風に乗せた。風は冷たく、寂しく、吹き抜けていった。




◆◆◆





 ……それから長い月日を経た現在。タワーホテル『リジェンシ・セッショ』にて。

 特別応接室の掃除を特殊清掃担当員に任せ、ハクトウは壇上に立った。彼による、儀礼的な文言を奥ゆかしく修飾した開会のアイサツを以ってパーティは絢爛に幕を開けた。カチグミの資産家や由緒正しい貴族血統の者などが口々にハクトウを讃え、シャンパンを嗜む。ハクトウは当たり障りのない文言で答え、彼らと杯を交わす。

 広さ二百畳程の会場内に複数設けられたダイマル・テーブルに集う来客者らのグループひとつひとつに顔を出し、交流を深める。ビズの話や縁談の話が飛び交う。時にはハイクを詠み合い、互いを立てた。

 柔かな微笑みを顔に貼り付けて、若き貴人は会場内を歩く。一通り会合に顔を出して、彼は奥まった主催席に落ち着き、シャンパンを嗜んだ。声をかけてくる者には微笑みながら手を振るに留まり、自らの時間を確保していることを暗に示した。無理にコミュニケーションを試みるのは奥ゆかしさに欠ける行為であるため、来訪者らは会釈してそれとなく去っていく。

 ヤンスギのようなシツレイを働くレベルの者は招待していないため、パーティへの参加者は礼儀作法やキョート人らしい性質を備えた者たちのみである。それはある程度の快適さをハクトウに感じさせていた。彼はグラスを揺らし、誰にも悟られることなく小さな溜息を吐く。

 ああ、なんと退屈な時間だろう。ステージ上では気品ある装いをした演奏者たちの奏でるオコトやビワ、シャミセンが、小太鼓に合わせて旋律を踊らせている。ハクトウは退屈凌ぎにそちらに耳を傾けて時を過ごす。こうして一人で過ごしているだけでも自ずとカネは生まれて、彼の口座を潤わせている。カネを蒔いて、カネを育てる。そうして得たカネをギルドに上納する。虚無的な生産行為だ。

 マサラサマウジ・ハクトウに宿りしコウミョ・ニンジャのソウルが彼に齎したオフセ・ジツは、そうした虚無的なサイクルで力を得る。コウミョ・ニンジャの生きた平安時代より、浅はかで欲深な現代の方がオフセ・ジツは余程適しているといえよう。

 ハクトウは普段の生活の中でオフセを貯蓄しておくことで、ジツの欠点たる燃費の悪さをカバーしている。故に彼は、こういったくだらない催しを定期的に執り行う。ギルドへの上納と、己の担保のために。合理的な判断だ。合理的とは要するに、つまらないということ。

 つまらなさのなかで、彼は想起する。開会前にアスミに告げられたインシデントを。パーティ参加者のうちの数人がまだ会場に着いていないと彼女は言った。彼らと、彼らの送迎担当者らとも連絡がつかないようだった。アスミの表情は緊迫感を帯びていた。

 念のため、当初の予定よりも多くの警備をホテル内外に配置したうえでパーティは開かれた。参加者の規模やランクから、即刻中止とはいかなかった。会場内の壁際にオブジェクトめいて配備された物々しいロイヤルスモトリ重戦士らを訝しげに見る参加者もいたが、ハクトウはそうした者らの懸念に向けて、開会のアイサツのなかで万全な警備体制による安全性を力強く説いた。

 ハクトウは物憂げにグラスを傾ける。連絡が途絶えた者達のなかには、サヤラ夫妻も含まれていた。彼は夫妻との交流を心待ちにしていたが……彼らの身に何らかの不幸が起きていることは間違いない。ケビーシ・ガードより劣るとはいえ、送迎及び護衛を担当させた者らは練度の高い精鋭。仮に何者かに襲撃されたとしても、連絡ぐらいはつけられるはず。

(((ニンジャ案件かな、やはり。退屈は憂鬱だが、面倒ごともそれはそれで嫌なものだ)))

 薄紫色の髪先を指で梳く。彼の瞳が見やるは会場内のカチグミ達。何人が生き残って、何人が死ぬか。誰を助けて、誰を捨てるか。冷徹に思考を巡らせる。ニンジャの襲撃を受ければ、如何に彼やアスミのカラテが優れていようと、ロイヤルスモトリ重戦士が奮戦しようと、被害を完全に抑えることはできない。現実的な、妥当な判断。

 事態の鎮静後に、ホテル完成直後に起きた悲劇の事故、若しくは事件……そういった形に偽装して会見を開き涙を流してやればいい。そうすればまたカネは生まれる。ギルドの叱責は受けるかも知れぬが、即刻カマユデとはゆかぬだろう。ハクトウにもザイバツにも、立場がある。テウチを以て平定とす。それで丸く収まる。

 思案するハクトウの元に歩み寄る影あり。彼はそちらを見た。ダークネイビーのパンツスーツスタイル、朱色のカンザシで結えたミルキーベージュの髪。事態の確認を終えたアスミ・キナタコ……彼女の纏うアトモスフィアは既にペネトレイトの物となっていた。緊迫感ある面持ちではあるが、その仕草は嫋やかで、場の空気感を乱すことなく整然としている。未熟だったアプレンティスが立派になったものだ、とハクトウは感慨深く考えた。

「マスター、やはり襲撃です。会場までの道中、カネモチ・レーンに連絡が途絶えた参加者らの死体を確認致しました。警備は全滅。生存者はいません」

 鈴を転がすような澄んだ声音が淡々と事態を告げる。

「なるほど。襲撃者の姿は確認できたかい」

 グラスを机に置き、ハクトウは立ち上がった。アスミは待機しているロイヤルスモトリ重戦士らにIRCメッセージを一斉送信してから彼に答える。

「いえ……ただ、襲撃のルートからして……ここに向かってきているのは確実かと」

「だろうねぇ」

 虹彩に金色の光が帯びる。薄紫の髪にグラデーション状に金色が混じっていく。彼はパーティ会場のバルコニーを睥睨した。ニンジャ第六感が鋭敏に不吉を告げている。

「噂をすれば、だな。客人がお越しになられたようだ」

 色彩鮮やかなステンドグラスめいた豪奢な窓に蜘蛛の巣じみた亀裂が走る。一瞬後、儚く砕け散った窓ガラスの艶やかな色彩を呑み込みながら、コールタールめいた黒い波が会場に流れ込んだ。

 豪華絢爛なパーティの賑わいは一瞬の静寂の後、壮絶な悲鳴へと変じた。ロイヤルスモトリ重戦士達がパーティ参加者らを逃がそうと自らを盾にし、入り口の方へと誘導させる。轟く悲鳴と混乱。巨大な入り口扉に押し寄せる人々。スシ詰め殺到状態。彼らが幾ら押しかけても、扉は微動だにしない。外側から何かに押さえつけられているかのように。

 扉の眼前で後方の者らに押しつぶされそうになっていた参加者らが、扉の隙間から入り込んできた黒い液体を視界に入れて悲鳴を上げた。身動きが取れぬままに、彼らは扉をブチ破った暗黒の液体に呑まれていく。恐怖と混乱が伝播していく。

 ステージ上では訳もわからぬままに暗黒に食い潰された演奏者らの楽器が、物理衝撃と屍の指に押し当てられて背徳的なヴァンダリズムに踊り、プログレッシブな歪んだ不協和音を轟かせていた。それらもやがては呑み込まれて潰えていった。

 おお、ナムアミダブツ。アビ・インフェルノ・ジゴクの如し無惨な様相。真っ先に逃げ出した者らが死に絶え、逃げ遅れた者らが怯え竦んでダイマル・テーブルの下に身を隠している。生き残りのロイヤルスモトリ重戦士らは生存者らを守るようにしてドッシリと構えている。

 それらの惨劇を目の当たりにしながら、ハクトウとアスミは平然としていた。彼らが注意を傾けるのは黒い液体ではなく、殺戮のショーでもない。暗黒の波から現れた二人の男女の姿を、彼らは見据えていた。

 拘束具めいたニンジャ装束に囚人メンポ、病的な色白の肌をした痩せた男。黒髪をジゴクめいて逆立たせている。その傍に佇む、スリングベルトでサブマシンガンを肩掛けにした華奢な体躯の碧眼の少女。彼女は薄汚れたドレスポーチと、損壊した何かの箱を細腕に抱えていた。

 痩躯の男がヤンクめいて挑発的に首を傾け、ハクトウとアスミに濁った眼を向けて口を開く。

「ドーモォ……俺ァー、デスドレイン……」

 暗黒の蔦に持たせた死体の切断手首を合わさせて、デスドレインはアイサツをした。それらは両方右手であったため、合わせた手はアベコベだ。更に切断された頭部を携えた暗黒触手の鎌首を擡げさせ、オジギめいて傾かせた。そのまま彼はヘラヘラしながら、傍に佇む空色の瞳の少女の頭をガシッと掴んで、無理やりに頭を下げさせる。

「そンで、コイツはアズール。へへ、アイサツしとけよなァ、お前。オジギしろッての!こーンなご立派なとこにお呼ばれしてンだからさァ!シツレイだぜ!ドレスもボロッちいしよォー、へへへへ!」

 デスドレインは切断部位を適当に放り捨てた後、アズールの抱えたドレスポーチを乱雑に取り上げて不躾に中身を弄った。中からボロ切れのようになった二人分の招待状を取り出し、ポーチをそこらに捨てる。そうして指先に挟んだ招待状をヒラヒラとさせながら、彼は惨劇の会場を見やった。

「で?マサラサマウジってどいつだ。一番偉いヤツ!もう死ンじまッたか?」

「マサラサマウジ・ハクトウは私だよ」

 ハクトウは怜悧な声で言い、威圧的に一歩前へと踏み出した。端正な顔の鼻から下を、均整の取れたプラチナのメンポが覆う。彼の纏うフォーマルホワイトスーツが、差し色に金糸を交えた月白色の燕尾服めいたニンジャ装束へと変形する。優雅な仕草で彼はアイサツした。

「ドーモ、はじめまして。デスドレイン=サン。スプレンディドです」「ペネトレイトです」

 彼のアイサツにアスミも続いた。彼女の凛然とした麗しい顔には黒瑪瑙のメンポが生成されている。パンツスーツが変じた藍色のニンジャ装束、右腕の肘から先、手先までを纏う無骨なガントレット・ブレーサー。その外側に形成された砲筒は鈍い光を湛えている。

「へぇ?ニンジャがパーティやッてンのか。カネモチのニンジャが?」スプレンディドとペネトレイトのニンジャ装束にあしわられた『罪』『罰』菱形正方形エンブレムをデスドレインが剣呑に睨む。「……ザイバツも暇してンだな?まァいいや!オイ、アズール」彼は顎をしゃくって少女に呼びかけた。

 デスドレインの顔を見上げるアズールの腕から損壊箱を引ったくり、スプレンディドの眼前の床に投げつける。貴人はそれを見下ろした。サヤラ・アタネがプロデュースした、香水の詰め合わせパック……だった物を。ヒビ割れたスプレーボトルには暗黒物質が詰め込まれている。

「へへ、それやるよ。つまンねェもんだけど」

 愉悦に眼を弧にして悪辣に紡がれる邪悪な言葉に、ペネトレイトが不快に顔を顰めて舌打ちした。スプレンディドは彼女を横目に、悪魔じみた男を見据えて口を開く。

「いいや、結構。気持ちもいらないよ」涼しい顔をしながら怜悧な声で彼は言う。「ところでデスドレイン=サン。片割れはどうしたかな?……確か、ランペイジ=サン……ああ、シツレイ。故人だったね」デスドレインの眼が僅かに細まった。スプレンディドは肩を竦めて尚も続ける。

「オミヤゲ・ストリートの賊も今や君一人だな。それで……その娘は新しい仲間か。随分と幼いニンジャのようだが。それも凶悪犯罪者かね?」

 アズールの澱んだターコイズブルーの双眸がスプレンディドを見つめた。デスドレインは破り捨てた招待状を踏み躙りながらせせら笑って、少女の小さな肩に肘置きめいて片肘をついて体重をかける。

「へへへへ。新しい仲間だッてよ、アズール。俺の仲間だッて思われてンぜ……ヘヘッ、嬉しいか?」

「……嬉しいわけない」

 アズールはぶっきらぼうに答えた。デスドレインがケラケラと嗤う。

「ハハハハ!だよなァ。マーもパーも死ンじまッて、仕方なく着いてきただけだもンな?悲しいよなァ。お前、カワイソーなヤツなのにな?へへへへ……」

 自らの所業を悪びれることなく、彼は言葉を続ける。枝めいた長く細い指、その黒い爪でスプレンディドを指差しながら。

「な。アズール。アイツ、お前のことなーンも知らねェのにな。好き勝手言ッてさ……ムカつくよな?どうなンだよ、オイ」

「……」

 アズールは不機嫌そうに眉を顰めた。その苛立ちがスプレンディドに向けられたものなのか、デスドレインに向けられたものなのかはわからない。痩躯の悪魔は彼女の肩から肘を離し、それから小さな両肩に手を置いた。

「へへへへ!ムカつくよな!なァー!?ムカつくならどうすンだ?エェ?アズール。アズール!」

「……黙ってて……!」

 少女が彼の手を払い退けた。バシャリ、バシャリ。二人の足元に拡がるアンコクトンに、成人男性の頭部ほどの大きさの獣の足跡が生じる。アズールの傍らの空気が揺らいで、アブストラクトな狼めいた巨獣の輪郭線を朧に描く。デスドレインは愉快そうに笑った。

「フム。姿見えぬ、不可視の獣……」

 スプレンディドは研ぎ澄ましたニンジャ第六感とニンジャ視力による凝視を持って、透明の獣の存在を僅かに捉える。不可視の上に、よく気配を隠している。厄介そうだ。続けて彼はサブマシンガンを構えるアズールを睨みつけた。微かに身を竦ませる少女を庇うように獣が彼女の前に立つ。

 獣は何らかのジツで、それを使役するのがアズール。スプレンディドはそう結論付けた。本体は如何にも脆弱そうな、非力な少女。真っ先に殺すべきはアズールか……それらの思考は実際一秒にも満ちていない。ニンジャの極限加速ニューロンがその高速思考を可能にする。

 スプレンディドはペネトレイトに視線を向けた。「やれるな。ペネトレイト=サン」「ハイ。マスター・スプレンディド=サン」彼女は頷き……そして目を見開いた。「……スプレンディド=サン!」瞬間、香水スプレーボトルに詰め込まれていたアンコクトンが突如としてボトルを突き破り、付近の暗黒物質と一体化して電撃的な速度で彼に飛びかかった!

「イヤーッ!」

 しかしスプレンディドは危なげなく最小限のムーヴでこれを容易く回避。通り過ぎていった暗黒物質は会場の壁にブチ撒けられてヘドロめいてへばりついた。デスドレインは漆黒の瞳に殺意を滲ませてスプレンディドを睨め付けている。

「ガキにお熱か?余裕そうだな?そういうの、イラつくンだよなァー」

「気を悪くしたか?それは結構。さて……君たち薄汚れた犯罪者一味を招待した覚えはないが。こうしてわざわざ顔を出してくれたのならば、饗して差し上げようじゃあないか」

 彼が言い終えると同時に、ペネトレイトが駆け出そうとした。ガントレット・ブレーサーにカラテを込めながら、彼らから離れるように。直後、デスドレインの足元に拡がる暗黒の沼から触手が弾丸じみて飛び出し、彼女に襲いかかった。アブナイ!……「イヤーッ!!」

「……アァ?」

 発されたカラテシャウトに伴う光景にデスドレインが不愉快そうに首を傾げた。スプレンディドの光帯びた手に打ち据えられたアンコクトンが痙攣しながら萎縮し、主人の元へと戻っていく。ペネトレイトはその光景を見やることなく駆け出し、彼らから離れていく。デスドレインは苛立ち気に頭をバリバリと掻いて若き貴人を睨んだ。

「ンだよ、オイ。テメェもカラテすンのか?アァ?」

「フム?これはまた、異な事を言うね?」スプレンディドは片腕を横に突き出し、先ほどアンコクトンを払った手を握りしめた。彼の手に纏っていた金色の光が棒状を象っていく。「ニンジャとは、畢竟、カラテする者なり。そうだろう?」握りしめた拳を開く。光が金色の錫杖を生成する。実体化したその柄を強く握りしめ、構える。

「ンなこたァ知らねェんだよ!イヤーッ!」

 デスドレインが両手を突き出し、多数のアンコクトン・ジツの触手を放つ!

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 スプレンディドは黄金錫杖を振るい、暗黒物質を打ち据え、吹き飛ばしていく。散らされたアンコクトンが萎びれ乾いて砕ける。

 BRATATATATA !!!

 アズールが歯を食いしばりながらサブマシンガンをスプレンディドに向けてフルオート射撃を浴びせた。

「イヤーッ!」スプレンディドは光の円を錯視させるほどに素早く錫杖を眼前で回し、銃弾を容易に弾き砕く。「イヤーッ!」回転の勢いそのままに錫杖からカラテ・ミサイルめいた光球を虚空に向けて発射。デスドレインとアズールが居る方向とは見当違い、明後日の方向に光球は飛んでいき……空中で何かに当たって弾け飛んだ。

「GRRRRR……!!!」

 獣の苦し気な唸り声が響く。スプレンディドの死角で身を潜めていた透明な獣は悶えながら再び気配を隠した。恐るべきマスター・ニンジャは鼻を鳴らしてデスドレインらを見る。悪魔じみた男は彼を見据えて声を荒げた。

「アアアッ畜生!ムカつくンだよテメェ!ナメたツラァしやがッて!ザイバツのカネヅルのボンボンがよォーッ!!」

「カネヅルの。ボンボン」

 スプレンディドは目を丸くして罵倒を復唱した。それから愉快そうに笑った。

「ハハハ!カネヅルのボンボンか。良いね、良い肩書き!刺激的だ」錫杖を演舞めいて振るい、油断ならぬクドク・カラテを構える。「普段耳にしないような荒々しい言葉遣いを聞くのは、嫌いじゃあない」彼の薄紫色の髪にグラデーションじみて混じる金色の光と、虹彩に宿る金色の光とが強く輝く。それらに呼応するかの如く、彼の月白装束の輪郭部分が黄金の発光に縁取られていく。

「フム。そうだな……肩書きを付け加えさせてもらうよ。私はスプレンディド、ザイバツ・マスターニンジャ。マサラサマウジ家の当主。そして、コウミョ・ニンジャを宿すアーチ級ソウル憑依者だ」

「ゴチャゴチャうるせェんだよ!」

 苛立つデスドレインの側でアズールが何かに気づき、スプレンディドから視線を逸らした。空色の瞳が見やるのは、会場内の壁を走る女ニンジャのガントレット・ブレーサーの不穏な光。熱帯びた光……!





5.

 デスドレインとスプレンディドの攻防を注視ながら、ペネトレイトは広大な会場を駆け回る。右腕を纏う無骨なガントレット・ブレーサーにカラテを込め、砲筒内に鉄杭をカラテ生成する。同時にジツの充填をしながら。彼女の切長の眼、その瞳が紅蓮に染まる。

 ペネトレイトがその身に宿すはサクヤク・ニンジャのソウル。タマヤ・ニンジャクランのカイデン者にして、後に同クランから分派したテッポウ・ニンジャクランのパイオニアの一人となった古のニンジャだ。若き女ニンジャはそのワザを知る。但し、かつてのサクヤク・ニンジャと違って彼女は鉄杭の生成及びバクハツ・ジツの充填に時間を要する。威力は申し分ないが単騎での運用は厳しく、連携によってその真価を発揮する。

 ジツを溜めながら、ペネトレイトはデスドレインを睨んだ。彼が吐き捨てたマスター・スプレンディドへの許し難い罵倒に彼女の心中は煮えたぎっている。炎のように燃え上がる怒りの感情がバクハツ・ジツの充填を後押しする。ガントレット・ブレーサーの砲筒が熱を帯び、不穏な光を湛える。

「ゴチャゴチャうるせェんだよ!」

 デスドレインのヒリついた声音が響く。彼は眼前のスプレンディドに意識を集中させている。いける。アスミは切長の眼をより鋭敏にして、ニンジャ集中力を研ぎ澄ます。砲筒を構える。狙いはデスドレイン。鉄杭をバクハツ・ジツで押し出す。

 その時。ふいに少女がペネトレイトの方に視線を向けた。空色の瞳と目が合う。アスミは心臓を鷲掴みにされたような錯覚に陥った。偶然ではない。明確に気づかれている……!

「イィイヤァーッ!」

 澄んだ声を敵意に満ちさせ、ペネトレイトはカラテシャウトを発した。砲筒内部でバクハツ・ジツが爆ぜ、赤熱のカラテ生成鉄杭を凄まじい勢いで射出する!カヒュン!風を切り裂く金属の叫びが邪悪存在を穿たんとする!

 ……「よけて!」アズールは必死に叫んでデスドレインの拘束衣の端を力一杯に引っ張った。「アァ!?邪魔すンじゃねェ……」デスドレインは少女を睨みつけて怒声を張り上げ、苛立ちの言葉を吐こうとした。直後!

「イィイヤァーッ!」

 カヒュン!恐るべきカラテシャウトと共に高速飛来する赤熱の鉄杭!「ウオオーッ!?」ゴトー・ボリスは咄嗟に回避しようとしたが間に合わず!「グワーッ!!」ナムサン!鉄杭が痩躯の横腹に深々と突き刺さり留まる!熱帯びた杭が彼の体内を熱して焦がす!「グワーッ!」デスドレインはたたらを踏んで悶えた。

 アズールは血相を変えて動揺し、彼に突き刺さった鉄杭を引き抜こうと考えたが、鉄杭から迸る熱気をみて息を呑んだ。手を触れれば火傷では済まない。焼け溶けた皮膚が鉄杭に張りつく悲惨な光景を彼女はニューロンに描いた。

「痛ッ……てェな!?クソ!」

 戸惑う彼女を乱暴に押し退け、デスドレインは血反吐めいたヘドロを吐き出しながら遠方のペネトレイトを睨む。焼け焦げて止血された傷口から徐々に血が流れ出して、その赤色はやがて黒い液体へと変わりだした。鉄杭が刺さったままの傷口がブシュブシュと黒く泡立ち、穿孔を塞いでいく。悪魔は女ニンジャの方に手を向ける……。

「イヤーッ!」

 響くカラテシャウトはスプレンディドのものだ。振るわれた錫杖から放たれた黄金の光球がデスドレインに飛来する。「うざッてェな!」凶悪存在は不気味にグリッと首を曲げて、ぬばたまの瞳で光球を見据える。アンコクトンの沼からヘドロの壁が聳え立ち光球を呑み込む。壁が激しく痙攣して萎縮し、瞬く間に乾いてヒビ割れた。

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 黄金の光の軌跡を空に残して乱舞する錫杖、次々に飛来する光球!デスドレインは暗黒の壁を何重にも重ねて生えさせる。次々と破砕されていく暗黒の壁。飛びきた複数の光球がデスドレインの痩躯に直撃して爆ぜていく!

「グワーッ!」

 目を剥いて蹌踉めくデスドレイン。コウミョ・ニンジャのオフセ・ジツの聖なる光が齎した感触は彼にとって不快そのものであった。炸裂した光のダメージそのものよりも、ずっと不快だ。

「次!」アズールが叫ぶ。「わかッてンだよ!黙ッてろォ!」デスドレインは彼女の頭を押さえつけて声を荒げた。「イィイヤァーッ!」カヒュン!鉄杭飛来!「イヤーッ!」デスドレインは獣のような貪欲な目つきをして暗黒物質を飛ばし、鉄杭を防ぐ。暗黒がグニャリとヘコむ。赤熱鉄杭が……突き抜ける!

「グワーッ!」

 鉄杭がデスドレインの鎖骨付近を貫き穿った。穴の空いたアンコクトンがバシャリと崩れ、主人の元に戻っていく。ゴトー・ボリスの目が見開かれる。瞳に炎を踊らせたペネトレイトが、ガントレット・ブレーサーを構えて急接近していた。

 BRATATATATA !!!

 アズールが遮二無二サブマシンガンを振り回してペネトレイトを狙う。アデプトニンジャは蛇行スプリントでやり過ごし、デスドレインのワンインチ距離に飛び込む。「イヤーッ!」無骨な砲筒が狙うは悪魔の頭部!赤熱するガントレット!

「イヤーッ!」

 彼女の攻撃タイミングに合わせ、スプレンディドが錫杖を振って無数の光球をデスドレインとアズールに向けて撃ち放つ。ALAS……前門のタイガー、後門のバッファロー!アズールはスプレンディドの放った光のカーテンめいた光球群とペネトレイトの赤熱ガントレットとを交互に睨み、銃口を女ニンジャに向けた。

 BRATATATA !!!

「イヤーッ!」

 ペネトレイトは咄嗟に左腕の通常ブレーサーで無理くり銃弾を受け止める。弾丸の物理衝撃に歯を食いしばって堪えながら。その光景を睨みつけるアズールが決死の表情を浮かべ、細い喉を跳ねさせながら声を張り上げる!

「……行けッ!」

「ゴオアアアアッ!!」

 気配を殺して身を潜めていた透明の獣が少女の命に応えて光球のカーテンにインタラプトし、その獰猛な爪と牙を遮二無二振るって光球をカラテ相殺していく。だがその全てを撃墜することは叶わず、獣の巨体に幾重もの光が炸裂する。その巨躯を通り過ぎた複数の光球がデスドレインらに向かってくる。

 この間、実際数秒も満たぬ攻防であった。常人の目には捉えられぬ、超常存在のイクサ。デスドレインは自らの頭部に向けられた砲筒を睨み、それから飛来する光球の輝きに視線だけをやる。

「ッタリィな」

 ボソリと呟き、アズールを強引に抱き寄せる。瞳のみならず、彼の目全てがぬばたまに染まっている。傷口から痩躯をはち切れさせんばかりのアンコクトンが瞬く間に噴き上がり、辺り一面に拡がる暗黒の湖と一体化してジゴクめいて屹立しだす。ペネトレイトは目を見開き、状況判断。

「イィイヤァーッ!」

 アンコクトンに囚われ呑まれる前に引っ込めたガントレットの砲筒を真横に向け、バクハツ・ジツを放出。カヒュン!鉄杭射出の勢いを活かして反動跳躍して急速離脱。一瞬前まで彼女がいた空間には監獄めいた暗黒の檻が聳え立つ。アスミ・キナタコは冷や汗を額に浮かべた。

 暗黒の檻に次々と光球が炸裂する。崩れていく檻にアズールが身を強張らせていたが、デスドレインは何ら気にかけずに首を巡らせた。彼の視線は離脱していくペネトレイトを追っている。痩躯の足元の暗黒物質が激しく泡立つ。パーティ会場の天井に届くほどの暗黒の間欠泉が噴き上がる。黒いヘドロが天井一面にへばりついて拡がり、美麗なクロスを穢れに染め上げていく。汚泥の水滴がボタボタと天井から滴りだす。

「面倒クセェよ、アイツ」

 デスドレインは崩れた檻から脚を踏み出し、若い女ニンジャを睨め付ける……「グワーッ!?」彼は自らの足元に激痛を感じた。彼の踵、或いは爪先……足裏に深々と突き刺さる金属。ナムサン、非人道兵器マキビシだ!ペネトレイトは離脱の寸前にマキビシを展開させていたのである!

「……ダリィ。ダリィ、ダリィ、ダリィ……」

 床に縫いつけられた足を無理くり動かす。彼の靴ごと足裏の皮がバリバリと剥がれていき、筋組織が剥き出しになる。ボロボロになった靴を乱暴に脱落させ、露出した赤色で黒い水溜りを踏み躙る。暗黒物質がジュクジュクと剥き出しの筋組織に纏わりつく。彼の視界の端に映るは錫杖を構えたスプレンディド。暗黒の波を踏み飛び渡り、デスドレインに直接のカラテを叩き込まんと……「イヤーッ!」否、接近ムーブの途上で彼は何かに気づきその場で急停止、錫杖の石突を床に抉り込むように突き刺す。

「イヤーッ!」

 そして両手で掴んだ柄を中心に器械体操選手めいて全身をしなやかに伸ばして回転。虚空を切り裂くケリ・キック。

「GRRRR……!!!」

 獣の唸りと共に空気が歪む。スプレンディドは追撃を試みたが既に不可視の獣は存在を巧みに隠している。ハクトウは微かに眉を顰め、金色の瞳に鋭利な殺意を宿してアズールを睨め付けた。

「躾がなっていないな、アズール=サン?……君を黙らせたら、あの獣もおとなしくなるかな」

「……ッ!」

 少女は怯えた。日常の中で悪魔じみた男から与えられる恐怖とは別種の恐怖に怯えた。その怯えを隠すように、憎々しげにスプレンディドを睨んでトリガーを引く。彼女の胸の中でいつも燻っているやり場のない怒りに頼り、怯えから目を逸らす。

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!……CLICK !! CLICK !!

 アズールは奥歯を噛み締めて一心不乱にフルオート射撃を敢行したが、無慈悲にも残弾が尽きてしまった。スプレンディドは平然と弾丸を錫杖でいなしながら距離を詰めてくる。焦燥感に駆られながら少女は空マガジンを放り捨ててリロードを行う。焦りと緊張に手元が震え、その手つきはぎこちない。

「モタモタしてンじゃねェぞアズールゥ……」

「わかッてる!」

 ヒリついた声音で詰られ、少女は不機嫌を露わにした。

「ゴオアアアア!」

 獣が躍り出て若きマスターニンジャを襲う。彼は冷徹に錫杖を振い。そして訝しんだ。手応えがない。避けられた。獣の存在を探ろうとする彼の元に電撃的速度で暗黒物質の舌先が伸びる!

「グワーッ!」

 カラテ防御体勢を瞬時に構え、アンコクトンに反発のカラテを浴びせながらスプレンディドは飛び退く。ダメージは最小限。デスドレインは舌打ちし、木の枝状に分裂した暗黒物質の触手を繰り出した。幾度の自己再生にリソースを割かれ、ジツの精度は覚束ない。黄金の錫杖が触手を薙ぎ払っていく。そこへ獣が再び襲いかかる!

「ゴオアアアアッ!」

「ヌゥーッ!」

 月白のニンジャ装束を翻してスプレンディドは紙一重で獣の牙を躱す。「イヤーッ!」錫杖持たぬ方の手に光のスリケンを四枚生成して虚空に向け水平拡散投擲。空間を歪めて突き刺さる端二枚のスリケン。獣は唸りながらそれを払い落として姿を隠す。

 その間にアズールは何とかリロードを終え。反射的に背後を振り返った。「イィイヤァーッ!」カヒュン!「グワーッ!」少女が警告を発するより先に鉄杭が射出され、デスドレインの背を穿って彼の腹部からその先端を生やした。鉄杭を射出したペネトレイトは反動跳躍で飛び退き、ステージ上へ身を翻す。

 一瞬遅れて彼女がいた地点に流動する暗黒物質が飛来し、虚しく床にへばりつく。物足りぬと言わんばかりにそれは鎌首をもたげ、ダイマル・テーブルの下に隠れ潜む生存者に襲いかかる。新たな餌を、アンコクトン・ジツの糧を貪る為に。

「イヨォードッソイ!ドッソイアバーッ!?」

 近くのロイヤルスモトリ重戦士が果敢に立ち向かい張り手を暗黒触手に浴びせるも、直撃と同時に分裂した暗黒物質が重装の関節部に入り込み、彼を内部から苛んで殺した。屍から流れた黒々とした汚泥が床に流れ、生存者を貪り食う。壮絶な絶叫と悲鳴は直ぐに途絶え、醜い水音に変わる。新たな餌を得て流れ出でたる黒の流動体が主人の元へ還っていく。

 暗黒物質がデスドレインの痩躯を這いずり上がる。病的な色白の肌に染み込みながら、ズルズルと彼の目、鼻、耳、口へと滑り込む。身体中から鉄杭を生やしたデスドレインは鬱陶しそうに頭を掻き毟った。全身から流れる赤い血がヘドロ混じりに垂れ落ちる。スプレンディドとペネトレイトは着実にデスドレインにダメージを蓄積させている。ジリー・プアー(徐々に不利)。彼はスプレンディドを、ペネトレイトを、パーティ会場を、そして……アズールを睥睨した。

 もう、全てが腹立たしかった。余裕を崩さぬオスマシ顔のイケすかない男も、ちょこまかと飛び回るウザッたらしい女も。無駄にだだっ広い空間も。モタつくガキも、犬ッコロも。己の奥底で黙りこくって力を出し切らない『神様』も。ムカつく。ムカつくならどうする。決まっている。引き摺り出す。

(((……ガイ……オン……ガイオン……ショウジャ、ノ……)))

 来た。来た、来た、来た。イイ感じだ。

 ドルル、ドルル!質量を増したアンコクトンが迸る。幽鬼じみてゴトー・ボリスの痩躯が不気味に揺れ動く。歪んだ笑みをムカつく全てに向ける。奔流する暗黒の流動体。カヒュン!飛来した鉄杭の前にアンコクトンの壁が生じる。壁を貫き穿った赤熱の杭に無数の触手がヘビめいて躍動して襲い掛かり、呑み込んでいく。

 デスドレインはアズールの首根っこを掴んだ。少女はビクリとして彼の顔を見つめた。デスドレインはその顔に、小さな口にアンコクトンを流し込む……流し込もうと考えた。彼の表情から歪んだ笑みが消え失せ、真顔になった。空色の瞳をジッと眺めて……それから彼はいつものようにニタニタと嗤って、愉悦に眼を弧にした。デスドレインはアズールを殺さなかった。

「イヤーッ!」「ンアァァ……!?」

 彼はニヤケ面のままに少女を空中へ放り投げた。唐突に身動き取れぬ宙空に放られたアズールは空色の瞳に深く重たい絶望を滲ませた。金色の瞳が、紅蓮の瞳が、無防備な彼女を見ている。冷たい孤独感に心が竦む。泥めいて鈍化する主観時間のなかで、少女は無慈悲な死のビジョンを幻視する……。

「アズール!そのちょこまかしたウザッてェ女ァ、ブッ殺せェ!」

「……ッ!」

 デスドレインの声がニューロンに嫌というほどに響き渡った。鈍化していた主観時間が緩慢に解凍され、世界が元通りになっていく。手離しかけていたサブマシンガンのストックを強く抱える。紅蓮の炎を宿した女の瞳が彼女を見据えている。ペネトレイト。赤熱するガントレット・ブレーサーの砲筒が少女に向けられる。主観時間が等速になる。

 アズールは獣を呼んだ。イヌガミ・ニンジャの化身は少女の声に応え、飛んだ。

「イィイヤァーッ!」

 ペネトレイトのカラテシャウト。爆発音。カヒュン!空気を裂く金属の音。だが獣の方が遥かに速い!

「GRRRRR !!!」

 立ち上がる大質量の黒い波を背に弾丸めいて突貫した不可視の獣が赤熱鉄杭を爪で切り裂き、弾き飛ばした。勢いそのままに突進した壁を蹴って身を翻し、空中で自由落下する少女をマズルで掬い上げる。アズールは奥歯を噛み締め、決断的に手を伸ばす。獣が眼下を通り過ぎる前に、しがみつく。

 先の砲撃で反動跳躍したペネトレイトを、空色の瞳がキッと見据える。透明の毛皮にしがみつく力を一層強める。アズールは獣の背で叫ぶ。

「……アイツを殺せ!」

 不可視の獣が吠え、その四つ脚で床を、壁を蹴って飛ぶ。恐るべき加速を以てペネトレイトに迫る!


◆◆◆


 ……不可視の狼が対峙していたスプレンディドの元から踵を返して反転、急速に飛び離れた。「イヤーッ!」背を向けて飛び去る巨獣を、それを呼び寄せる無防備な少女とを仕留めるべく若き貴人は跳躍。黄金の錫杖を構え……その眼は大きく見開かれた。立ち上がった巨大な黒い波がスプレンディドの行手を塞いでいる。

「ヘヘヘヘ。ガキばッか見て面白ェかよ、オイ?」

 そう言ってデスドレインは身体に刺さった杭の一本に手を掛けた。凄まじい熱が彼の肌を焼き焦がし、鉄杭と癒着させる。「アッチィ!ヘヘヘヘ!」ヘラヘラと嗤う。鉄杭と手との接合部にジュクジュクと煮え滾った黒い泡が生じる。鮮血と暗黒を迸らせて鉄杭を無理やり引き抜き、ゴミのようにそこらに捨てて別の鉄杭に手を触れる。

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 スプレンディドは押し寄せる大質量の黒波を黄金錫杖で打ち据えていた。オフセの光がアンコクを押し退け払う。ヒビ割れたそばから更なるアンコクが噴出する。「イヤーッ!!」マスター・ニンジャは顔を顰めて力強く錫杖を振い打擲。カラテ反動に乗ってバネめいて跳躍し、黒波に光球の弾幕を散らしながら後方へ下がって着地した。

 無数の光球を受け止めた黒波が萎縮して痙攣し、液状化してデスドレインの元に戻る。彼の周囲には赤黒い汚泥がベッタリと纏わりついた鉄杭が散乱していた。痩躯に空いた風穴を暗黒物質が繋ぎ止めて塞ぎ、癒していく。

 スプレンディドは会場内を見渡した。天井から滴る黒い水滴が蔦となって数少ない生存者を貪り喰らおうとしている。既にその毒牙にかかった屍から這い出た暗黒物質が悪魔の元に還っていく。

「へへ。へへへへ。殺して、殺して、殺しまくッたのによォ、まだ足りねェの?へへへへ!イイじゃん、イイじゃん!最高だ!そンならもッとよこせよ!」

 デスドレインは哄笑を響かせながら『神様』の力を乱暴に引き摺り出す。

(((……ガイオン・ショージャノ。カネノコエ)))

ショッギョ・ムッジョノ・ヒビキアリ!ヘヘヘハハハハ!!」

「……なるほど。なるほど?」

 質量を増していくアンコクトンをスプレンディドは金色の瞳で見据えた。その性質を推察し、理解する。死体を、命を貪り喰らって糧とする悍ましきジツ。攻撃や防御への使用みならず異常な再生能力をも備えた、恐るべき強大なジツ。……だが。

「イヤーッ!」

 己の元に這いずり飛んできた暗黒触手を錫杖に込めたカラテで打ち払う。暗黒が砕けて弾け飛ぶ。カラテは効く。ならば問題無し。憂いがあるとすれば……。

「イィイヤァーッ!」 カヒュン!空気を裂く金属の音。「GRRRRR !!!」獣の唸り声。赤熱の鉄杭を蹴散らした不可視の獣の背でアズールが叫んでいる。「アイツを殺せ!」、と。少女に呼応するかのように咆哮をあげた獣がペネトレイトへと急速接近していく。

 スプレンディドはペネトレイトの方に視線をやる。彼女と対するアズールは非力な少女であるが、その優れた直感は驚異的だ。そして彼女を護る非常に強力な不可視の獣。

 ペネトレイトのワザマエは実際確かなもの。それは断言できる、彼女のマスター・ニンジャとして。しかし……デスドレインにせよアズールにせよ、そこらのニンジャと同じ尺度では計りきれぬ規格外の異常ニンジャ。ペネトレイト一人でどこまでやれるか。

「……イヤーッ!」

 デスドレインの足元から飛び出した砲丸めいた巨大黒泥を錫杖で叩きのめす。

「へへ、へへへ。あの女ァー、テメェのカキタレか?へへへへ……アイツのウザッてェ邪魔も入んねェしよ」

 痩躯の男はせせら笑いながら、彼の方に向けた拳を。その握りしめた手を開けた。床に跳ね落ちた巨大黒泥が蓮の花めいて裂き開いてスプレンディドに襲いかかる!

「ヘヘヘヘ!俺と遊ぼうぜ!なァ!ヘヘヘハハハハ!」

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 打擲、打擲、打擲!宙空に描かれるオフセ・エンハンスの黄金の軌跡!スプレンディドはアンコクトンを打ち払いながら怜悧な声で言葉を紡ぐ。

「邪魔か。邪魔というならアズール=サン、彼女の使役する透明存在も相当に……うん。そうだな、ウザかった!邪魔がなくなったのはお互い様だ」

 そう言いながら金色の瞳で周囲に視線を向け、残り数人ほどの生存者を捉える。ロイヤルスモトリ重戦士は残り二人。全滅はしていない。つまり、オフセのリソースはまだ残っている。

「アレの相手をペネトレイト=サンが引き受けてくれるならば。デスドレイン=サン、漸く君にカラテを叩き込めるな?」

「へへへへへ!エラそうな口利いてンじゃねェよ!」

 打ち払われたアンコクトンの飛沫が、残骸が、瞬時に結合していく。コールタールめいた暗黒の水溜りと混ざって融けあい、貪欲に鎌首を擡げていく。スプレンディドはセイシンテキを研ぎ澄まし、眼前の邪悪存在を金色の瞳に見据える。今はただ、カラテあるのみ。


◆◆◆

「イヤーッ!」

 澄んだ声色を物々しい敵意に染め上げ、ペネトレイトは床を蹴り飛んだ。遅れて獣の爪がその床を抉る。若き女ニンジャは天井スレスレまで跳躍し、空中で砲筒を構えた。矛先はデスドレイン。スプレンディドを支援するために。

 床に四つ脚を踏み締めた獣の背でアズールが身を起こして透明の毛皮に跨り、構えたサブマシンガンの銃口をペネトレイトに向ける。その光景を彼女は視界の端に捉えている。

 バクハツ・ジツを炸裂させる。充填は不充分だが致し方無し、フルチャージしようにもアズールと不可視の獣がそれを許さぬ。KBAM !! 爆発と共に打ち出された鉄杭は、デスドレインが己の周りに盾めいて展開させたアンコクトンの壁の前に呆気なく砕け散り、呑まれていった。

「やはりフルチャージでなければ貫くことすら……!」

 BRATATATATA !!!

 空中のペネトレイト目掛けて放たれるフルオート射撃。「イヤーッ!」彼女は赤熱するガントレット・ブレーサーの砲筒を銃弾に向けた。KBAM !! KBAM !! KBAM !! ミニマル生成された歪な鉄杭を連射して鉛弾の嵐を迎え撃つ彼女の頭上、天井に染み拡がるアンコクトンが不穏に渦巻く。そこから降り来たる暗黒の蔦がペネトレイトに巻きつかんとする!

「イヤーッ!」

 ペネトレイトは流麗なケリ・キックを暗黒蔦に浴びせた。アンコクトンの蔦が一瞬だけ仰反る。彼女のカラテは確かだが、アンコクトンを押し退けるにはまだ足りぬ。呑み込まれる……!女ニンジャは決断的に砲筒を構え、鉄杭無しのバクハツ・ジツを放つ!KABOOM !!!

 暗黒を爆ぜさせ、ペネトレイトはバク転めいた回転ムーヴで床に着地。暗黒物質はそれ以上は追ってこなかった。体勢を整えるペネトレイトの元へ、不自然に宙に浮かんだ少女が肉薄する。不可視の牙が襲いくる。

「ゴオアアアア!」

「イヤーッ!」

 KBAM !! BLAM BLAM BLAM !!! 砲筒から重金属のスクラップペレットを機関銃めいてばら撒きながらバックフリップ回避。

「GRRRRR !!!」「ンアーッ!?」

 猛烈に押し寄せるクズ鉄からアズールを護るべく、獣が爪を振るいながら棹立ちになる。少女はサブマシンガンをスリングベルトに預けて両手で毛皮にしがみつき、振り落とされそうになるのを懸命に堪えた。不可視の鋭い爪の斬撃が脅威を薙ぎ払う。捌き切れなかったペレットが獣に突き刺さっていく。苦しげな唸り声を上げながらも巨獣は両前脚を力強く振り下ろし、身を低くし……「ゴアアアーッ!」飛び出す!

 高貴な朱色のカンザシに結えたミルキーベージュの髪を揺らして着地したペネトレイト、その瞳に宿る紅蓮の炎が赤々と輝く。見据えるは姿見えぬ獣の殺気。そして、アズール。少女の淀んだ空色の瞳の奥に沈んだ、深く暗い絶望とやり場のない怒り。荒廃を滲ませたその瞳に、ペネトレイトは幼きアスミ・キナタコの姿を幻視した。

 分家筋の妾腹の子として生を受けた忌まわしき幼子。本家たる一族の当主マサラサマウジ・ケンゴに、格差社会意識を子供らに植え付けるための『教材』として引き取られ、理不尽な迫害に傷つけられたアワレなキナタコ。末弟たるハクトウから秘密裏に施しを受けるまで、ジゴクにいた少女。

 アスミ・キナタコは年端もゆかぬ少女を殺めることに心を痛めた。だがニンジャは、ペネトレイトは無慈悲だ。殺す。砲筒を構える。バクハツ・ジツ!

「イヤーッ!」

 KABOOM !!!

 爆発の衝撃に乗ってロケットめいてペネトレイトは飛んだ。前方に、獣目掛けて。彼女が撃ったのは獣ではなく、自身の斜め後方。その床。爆発反動跳躍にカラテを込め、ガントレットの重心を活かして回転エネルギーを加える。

 ペネトレイトに宿るサクヤク・ニンジャのワザとはつまり、テッポウ・ニンジャクランの源流のひとつ。後に暗黒武道ピストルカラテへと進化を遂げた、古のマーシャルアーツだ。それを繰り出す。凄まじい物理衝撃の流れに乗って身体を捻る。

「GRRRR !!!」「イヤーッ!」

 不可視の獣の鋭い爪による致命的な攻撃を研ぎ澄ましたニンジャ第六感で察知し、振るわれたその前脚を踏み台にして跳ねる。「イヤーッ!」獣の背に跨る少女へとケリ・キックを放つ。

◆◆◆

 ……再び訪れた鈍化する主観時間。アズールは逡巡した。ニューロンを加速させ、彼女なりに状況判断を試みた。考えろ。考えろ。結論を、一秒よりも早く結論を。でなければ、殺される。ニンジャが獣の腕を踏み台にして跳んでくる。殺される。嫌だ。どうすればいい。

 銃で撃つ。毛皮から両手を離して、銃を手に取って、銃口を向けて、引き金を?ダメだ、絶対に間に合わない。カラテ……は知らない。誰からも教わっていない。獣に殺させる。それももう間に合わない。どうする。どうする。

 後ろに飛ぶ。獣の背から離れる。今すぐに。それならまだ間に合うかもしれない。その後は?獣から離れた後は?あの悪魔は側にいない。獣の背を離れれば、一人きり……。

◆◆◆

「ウ……ウワーッ!」

 アズールはヤバレカバレめいて毛皮から手を離して、獣の背から離れようと試みた。精一杯に、後方へ飛ぼうとした。……躱しきれなかったペネトレイトのケリ・キックが彼女の薄い胴に浅く入り、華奢な身体を軽々と吹き飛ばした。

「ンアァァァ……!?」

 悲痛な甲高い悲鳴をあげながらアズールは巨獣の背から転がり落ち、床をバウンドしていって倒れ込んだ。

「イヤーッ!」

 ペネトレイトは浅い手応えの感触に眉を顰めながらも、間髪入れずに短時間充填バクハツ・ジツを眼下の獣に浴びせる。KBAM !!!

「GRRRR……!!!」

 身動ぐ獣の背を蹴って床に足をつけ、「イヤーッ!」BLAMN !!! クズ鉄の散弾を接射!

「ギャオオン!」

 至近距離からマトモにスクラップペレットを浴びた獣が血を吹き上げながら蹌踉めく。虚空に浮かぶ無数のクズ鉄。不可視の獣は強大であるが、無敵ではない。傷つけられれば、血を流す。消耗する。消耗が激しくなれば、顕現の維持も困難になる。

 ペネトレイトは悶える透明の獣の存在を強く認識し、カラテを構えて対峙しながら横目でアズールを見る。彼女は小さな身体をガタガタと震わせて激しく咳き込んでいた。若き女ニンジャの切れ長の眼が細まる。本来ならば先程のケリ・キックを以て、一撃で刈り取っていた儚い命。

「……楽に死なせてやったものを、半端に避けようとするから……苦しまずに済んでいたでしょうに」

 嘆息混じりに独りごちる。少女は身を起こそうとして四つん這いになり、咳き込みながら崩れた。ペネトレイトはその様を一瞥し。怪訝に顔を顰めた。透明の獣が苦しみながら、その存在感を陽炎めいて朧に消失させていく様を注視する。

◆◆◆

 尋常ならざる激痛に見開かれた空色の瞳が涙に潤う。少女は激しく咳き込む。咳に血が混じっている。マトモにケリ・キックを食らっていれば彼女の華奢な肉体は無惨にへし折られていたことだろう。ただ、いくら浅い入りであったとはいえ、その一撃はアズールにとっては過酷なものであった。

 ……痛い。痛い、痛い、痛い!

 震える手で涙を拭う。悲鳴を噛み殺そうとする。けれど、痛みはどうしようもなく痛くて、痛いままで、怖かった。込み上げてくる恐怖に震えが止まらない。殺される。嫌だ。怖い。

 痛みと恐怖に掻き乱された彼女の精神状態を反映させたかのように、不可視の獣がその存在を消失させていく。アズールは小鹿めいて震え上がりながら何とか立ちあがろうとして四つん這いになり、虚しく崩れ落ちた。獣が段々と消えていく。

 ……怖い。怖い。怖い?痛いから、怖い?そうだ、ずっとずっと、怖かった。ずっと痛くて、ずっと怖かった。今この瞬間より、もっともっと恐ろしい事がたくさんあった。毎日毎日、あの悪魔にその恐怖を与えられてきた。

 床に倒れ込みながらアズールは必死に唇を噛み締めて、涙を拭った。込み上がる嗚咽を不格好に噛み殺した。今までずっとそうしてきた。痛みも怖さも、どうしようもない。どうにもできないから、全部抱えて押し殺す。

 這いずりながら、近くにあったダイマル・テーブルを囲むレセプションチェアに掴まって、よじ登るように立ち上がる。アズールはサブマシンガンのマガジンを放り捨てた。まだ残弾はあったが、半端であったがために、捨てた。そうして震える手でリロードを終えたサブマシンガンの銃口を、ペネトレイトに向けた。

 ……死ぬのは、殺されるのは怖い。なぜ?殺されたら、死んでしまったら、そこで終わりだから。もう、誰も、連れて行ってくれなくなるから。永遠に、どこにも行けなくなってしまうから。それは怖い。嫌だ。それだけは、嫌だ。だから……。

 涙を堪える空色の瞳が女ニンジャをキッと睨む。

 ……だから、あのニンジャは敵だ。邪魔をするヤツは敵だ。邪魔をするなら、敵なら、殺す。誰も助けてくれない、誰も手を差し出してくれない。だから、やるしかない。こうやって!

「ウ……ウワアアアーッ!」

 アズールは胸中を満たすドス黒い感情に縋りつき、身を委ね、叫んだ。血の味が広がっていく。……構うもンか!

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

 サブマシンガンが火を噴き、フルオート掃射の騒音が響く!

◆◆◆

 ペネトレイトの眼前で、透明の獣が完全にその存在を消失した。獣に突き刺さっていた夥しい鉄屑が金属音を立てて一斉に床に落ちてばら撒かれる。ペネトレイトはニンジャ第六感を研ぎ澄まし、付近に獣が隠れ潜んでいないか注意深く警戒した。……やはり、いない。あの獣は四六時中出し続けられるものではなく、限界があるようだ。

「ウ……ウワアアアーッ!」

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

「イヤーッ!」

 獣の不在を確認した途端に吹き荒れる銃弾の嵐。ペネトレイトは蛇行スプリントで回避しながらアズールに接近しようとして……「ンッ、ア……!?」蹌踉めく。スレンダーな肢体から鮮血が迸る。藍色装束が僅かに裂ける。銃弾が、当たった。回避した先に射線が通っていた。待っていた。何故?

 ……アズールはがむしゃらに銃を撃っているのではなかった。極限加速させたニューロンがもたらす割れるような頭痛に苛まれながら、彼女は状況判断力を高めた。直感を研ぎ澄ました。ニンジャが銃弾を避ける動きは、少し前に五重塔で見た。眼前の敵が蛇行スプリントでジグザグに銃弾を避ける動きは、さっきも見た。

 だから予測した。敵の動きの、先の先を読んだ。身体能力が思考と予測に追いつかなくとも。否、むしろ身体能力が追いつかないからこそ、先の先の、さらに先を読んだ。でなければ死ぬからだ。彼女は必死だった。ケリ・キックが齎した熱もつ痛みに苦しみ喘ぎ、それを堪えて会場内を駆け回り、ダイマル・テーブルやレセプションチェアに隠れて。或いは飛び乗って、渡って、とにかく撃った。殺されないために。敵を殺すために!

「チィーッ……」

 ペネトレイトは回避動作を続けながら、右腕を覆う無骨なガントレット・ブレーサーにバクハツ・ジツを溜め込もうとするが……!

 BRATATATATA !!!

「ンアーッ!」

 銃弾がその身を抉り取る。集中を絶たれ、砲筒のなかでバクハツ・ジツの火種が窄む。フルオート掃射の暴風からバク転回避で逃れる。執拗な銃撃が彼女の回避先に吹き荒ぶ。BRATATATATA !!!

 ペネトレイトの紅蓮の瞳に苛立ちが滲む。スリケンのひとつも使わぬ少女ニンジャを忌々しく睨みつける。BRATATATATA !!! 向けられた殺意にアズールは銃弾で答える!

「ンアッ……イヤーッ!」

 若き女ニンジャは美しい顔を苦痛に歪めながら歯を食いしばった。右腕の無骨なガントレット・ブレーサーを盾に銃弾の嵐を無理くり押し通る。被弾も厭わずに。防ぎきれぬ銃弾が装束を、その下の麗らかな肌を裂く。BRATATATATA !!! 押し通る。BRATATATATA !!! 押し通る!

 BRATATATATA !!! ……CLICK、CLICK !!!

 アズールは弾切れに躊躇わず、空マガジンをペネトレイトに投げつけ、リロードを開始した。空マガジンが弾き飛ばされる。弾切れの直前から、既にペネトレイトは動いていた。直接のカラテを少女に叩き込むべく、跳躍していた。

 タタミ三枚分、二枚分……アズールがサブマシンガンのリロードを終わらせるよりも遥かに速い接近。右肘から手先までを覆った無骨なガントレット・ブレーサーを振り上げる。全力のチョップ手を少女の頭頂部に振り下ろし、その身体を真っ二つの開きにするべく。タタミ一枚分。殺す。

 アズールは血が滲むほどに噛み締めていた唇を開いた。獲物を狩る獣めいた目付きをした空色の瞳がペネトレイトを睨んだ。少女は声を張り上げた。

「……今ッ!!」

 そうして、ペネトレイトのすぐ隣で、唐突に空気が歪んだ。驚愕に目を見開いた女が、そちらを見た。

「ゴオアアアアーッ!!」

 鮮血を振り払いながら、獣が吠えていた。イヌガミ・ニンジャの化身は再顕現した。否。隠れていた。死んだように息を潜め、待ち構えていた。アズールはペネトレイトをそこに誘い込んだ。射線を構築し、回避先を巧妙に誘導し……弾切れのタイミングを調整して……獣の元へと飛び込ませたのだ!

「ンアァーッ!?」

 紅蓮の瞳に映ったのは、己の右腕。ペネトレイトの右肩に喰らいついた獣が彼女の右腕を噛み千切って放り捨てた。鮮血の尾を引くガントレット・ブレーサーが断末魔じみた砲撃を明後日の方へ放ち、トコロテンめいた溶鉄を砲筒から垂れ流す。そうして無骨なガントレット・ブレーサーは鈍い金属音を響かせて、床に沈む。

「う、ううッ!」

 失われた部位の断面から夥しい血が噴き上がる。ペネトレイトは左手で切断された右肩を押さえながら獣から死に物狂いで逃れる。不可視の獣は獰猛に唸り、飛びかかる!

「GRRRR!!」

「ンアアアーッ!!」

 回避しようとした彼女の身体を、鋭く尖った爪が袈裟斬りにした。赤々しい血が飛散する。衝撃で黒瑪瑙のメンポが弾け飛び、狼狽するアスミ・キナタコの素顔が露わになる。全身血塗れの満身創痍のなか、アスミは懐から非人道兵器マキビシをバラまく。獣の踏み出す先へ向けて!

「GRRR!」

 不可視の獣が苦痛に呻いて唸り声を歪める。その間にアスミは死に物狂いで駆け出した。獣から、アズールから逃れるべく。

「ス、スプレンディド=サン!マスター・スプレンディド=サン!も、申し訳ありません!救援、を……!」

 ズタボロの装束と動揺しきった素顔。アスミは気が動転しているようだった。己のウカツを恥じるよりも先に、彼女の脳裏にはハクトウの微笑む顔が浮かんでいた。浮かんでしまっていた。それはイクサに死ぬニンジャの覚悟を恐怖に染め上げた。平時の彼女らしからぬ怯えた声音でスプレンディドへ助けを乞う……ボタリ。

 息も絶え絶えの彼女の左肩に水滴が落ちた。黒い水滴が。アスミは悲鳴をあげて後退り、ダイマル・テーブルに腰をぶつけた。テーブルの下の屍から這い出したアンコクトンが彼女に巻きつき、滅茶苦茶に拉げさせていった。

「ア、アア……アバッ、アババッ……!こんな、こんなところで、わたし、は……!まだ、死ぬわけには……スプレンディド=サン!スプ……」

 苦痛に踊る彼女の身体、激痛から逃れるように振り乱されるミルキーベージュの髪。そこから、朱色のカンザシが振り落とされた。

「……あ……」

 結えられた髪が下ろされる。気品ある雅な朱色のカンザシはアンコクトンに呑まれていった。アデプト昇進の際にスプレンディドから賜った、老舗店のカンザシ。それを呑み込んだ黒い水溜りから湧き上がった暗黒物質が彼女に襲いかかった。

「ああ……!ああああ!嫌だ!嫌!ハ、ハク……ハク!ハクゥ!助けてよ!助、け……」

 アスミは錯乱し、長い髪を振り乱し、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。幼少期から呼んできた彼の名を。そうして泣き叫びながらハクトウを見た。……スプレンディドは冷たい眼差しで彼女に一瞥をくれてやった。それだけだった。「……ハ、ク……」アスミ・キナタコは掠れ声で呟いた。

「ゴオアアアア!!」

 獣の咆哮。非人道兵器マキビシを引き剥がした不可視の獣がアスミに飛びかかる。彼女の首元から肩口にかけてを巨大な顎で喰らいつき、その命を絶つ。

「……サヨ、ナラ」

 アスミ・キナタコは爆発四散した。流した涙と血液は、カンザシと共にアンコクトンに呑まれて消えていった。






 華の薫る空間、オーガニックのタタミ。四方を囲むは錆土仕上げの美しい土壁。厳かながらに奥ゆかしい広間にて向かい合い座する二者のザイバツ・ニンジャあり。

 一人は若い女。スレンダーな体躯、切長の眼。見に纏うはダークネイビーのパンツスーツ。腰の辺りまで伸ばした長い髪はミルキーベージュ色をしていて、艶やかだ。アスミ・キナタコ。ニンジャとしての名はペネトレイト。アデプトに昇格したばかりの彼女の凛然とした顔つきには、緊張感と若干の高揚感が見られた。

 そしてもう一人は、アスミとそう歳の離れていないであろう若い男。ミディアムスタイルに整えられた幽玄の薄紫色の髪、白磁めいた端麗な肌。月白色のフォーマルスーツ。この邸宅の主、マサラサマウジ・ハクトウ。ニンジャとしての名はスプレンディド。ペネトレイトのメンターたるマスター・ニンジャだ。

 カコン。庭の方から趣のあるシシオドシの音が鳴ると、ハクトウがやおらに口を開いて言葉を紡ぎ出した。

「我がアプレンティス、ペネトレイト=サン。アデプト位階への昇格、実際メデタイ。大義であるぞ。メンターたる私としても鼻が高いというもの」

「ハッ……ありがたきお言葉。この昇格はマスター・スプレンディド=サンの日々のご指導のおかげであります」

 アスミはハの字にした両手をタタミにつき、恭しく座礼した。「よい。面を……いや、うん。顔あげて」暫くしてハクトウが促すと、彼女は作法に適った所作で上体を起こす。若き貴人は困ったような微笑みを見せた。

「まぁ、礼儀作法は大事だよね。キョート人として、ギルドのニンジャとして。最も重要な要素だ」やや姿勢を崩しながら彼は言う。「でも今はいいや。どうせおれと君しかいないし」

「ハイ。では……その。これは、私的な?」

「公私はキッチリ分けないとね。あんまりシツレイならそれはそれで問題だけど」

 言いながらハクトウが傍に置いたフロシキに手を伸ばし、その包みを解いた。高級な贈答用桐箱がうっそりと姿を現す。アスミの表情が緊迫に強張る。ゴクリと生唾を呑む彼女にハクトウは苦笑しながらそれを差し出す。その力を抜いた仕草のなかにさえも雅さと気品がある。

「では、前に言った通り。アデプト昇格のお祝い。受け取ってくれるかな」

「はっ、はい……!あっ、いえ。身に余ります」

 受け取ろうと動かそうとした手を抑えて顔を下げて奥ゆかしく辞退。ハクトウは少し呆気に取られたあと、ふふっ、と笑ってから一拍置いて神妙な顔を作って怜悧な声音を乗せる。

「いやいや。そう言わずにドーゾ」

「勿体なき品に御座います」

 二度目の辞退。ハクトウが再び口を開く。

「ブッダも怒ると言うもの。どうか受け取りたまえ」

「それならば……謹んでお受け取りいたします」

 顔を上げて嫋やかに差し伸べる色素の薄い手許にハクトウは一呼吸ついて肩を竦め、桐箱をポンと置く。アスミはそのラフな置かれ方に戸惑いながらハクトウの顔を見つめる。

「う、受け取りました。えっと、開けても……いいの?ハク」

「うん」

 アスミ・キナタコから漸く緊張感が抜けたことにハクトウは柔かに笑う。キナタコが恐る恐る箱を開ける。包装を手解く。現れたのは、トリイめいた美しい朱色に彩られたカンザシ。華美な装飾はなく、形状はシンプル。しかし誤魔化し効かぬそのシンプルさ故に、塗料から材質に至るまで職人のワザが光る。平安時代より続く老舗カンザシ店の最上高級品である。

 アスミは息を呑んで、その美しさに暫し見惚れた。それからハッとした様子で若き貴人を見やり、おずおずと口を開く。

「こ、これ。本当に私が貰ってもいいの、ハク?」

「そのために贈ったからね」

「……ありがとう!」

 アスミは顔を綻ばせて、可憐に笑んで頷いた。その笑顔が、ハクトウの瞳に映る。今度は彼が息を呑む番だった。そうして、逡巡してからハクトウは何かを言おうとした。その様子に気づかずにアスミが口を開く。

「大事に取っておくね……!」

 そう言って、丁寧な手つきで包装を戻そうとする。ハクトウは困惑してから微笑んだ。

「いや、使ってくれた方が嬉しいかな……結び方、わかる?」「えっと、ヘアピンかゴムでしか……結ぶことないから……」

 申し訳なさそうに言うアスミ。ハクトウは柔らかな顔で笑み、立ち上がって彼女の側へ。そして、アスミの長く下ろしたミルキーベージュの髪に手を触れる。

「結えてもいいかな」

「オ……オネガイシマス」

 ……ハクトウが優しい手つきで長い髪を梳かしながらアスミの髪を纏め、結えていく。ザイバツ・ニンジャ、スプレンディドとペネトレイトとしてでなく、ハクトウとアスミとして過ごす穏やかな時間。それが二人にとって、何よりの……。



6.



「アレの相手をペネトレイト=サンが引き受けてくれるならば。デスドレイン=サン、漸く君にカラテを叩き込めるな?」

「へへへへへ!エラそうな口利いてンじゃねェよ!」

 打ち払われたアンコクトンの飛沫が、残骸が、瞬時に結合していく。コールタールめいた暗黒の水溜りと混ざって融けあい、貪欲に鎌首を擡げていく。スプレンディドはセイシンテキを研ぎ澄まし、眼前の邪悪存在を金色の瞳に見据える。今はただ、カラテあるのみ。

「イヤーッ!」「イヤーッ!」

 デスドレインが両手を突き出し、沸き立つ黒い汚泥の濁流を秀麗なる貴人にけしかける。スプレンディドは黄金錫杖を振り払い、横一列に光球群を展開させ暗黒を阻む。更なるアンコクトンが噴き上がってくる。囚人メンポの下に邪悪な笑みを浮かべてデスドレインはスプレンディドを睨み……KBAM !! 「あン?」小首を傾げた。瞬間、彼の周囲に盾めいて暗黒の壁が立ち上がり、爆発音と共に飛来した中途生成鉄杭を容易く破砕し呑み込んだ。

「まだやンのか、あの女。しつけェな……ガキは何やッてンだよ」

 呆れたような声でそう言い、鉄杭の発射された方を見上げる。天井スレスレを跳ぶペネトレイトを見据える。「しょうがねェやつ……」気怠げに片手をそちらに向けるデスドレイン。「イヤーッ!」スプレンディドは彼の元へと電撃的速度で接近。「イヤーッ!」光纏う錫杖を振るって暗黒の壁を裂く。

 ほぼ同時、天井に染み拡がる暗黒の水が蔦状になって空中のペネトレイトへ襲いかかる。スプレンディドは冷徹に思考を巡らせる。

(((ウカツ。自らの敵を倒すよりも私への援護を優先するなど)))

 己がメンターを務めたザイバツニンジャの行動を嘆きながら、スプレンディドは眼前の敵を睨む。その金色の瞳で見据えるはデスドレイン。

「イヤーッ!」

「イヤーッ!」

 討滅のクドク・カラテが痩躯を打擲する寸前にデスドレインは暗黒物質をカラテ直撃部位に展開して纏わせた。コールタールめいた粘っこい液体がその質量と弾力性によってカラテを防ぐが、「グワーッ!」アンコクトン越しに伝播したカラテ衝撃が彼を襲った。デスドレインは不快さに舌打ちし後方にバク転。

 KABOOM !!! 空中ではペネトレイトが襲いくるアンコクトンにジツを放って爆ぜさせる。

「デスドレイン=サン。私と遊ぶのではなかったかな?」

 油断なき構えをとり、スプレンディドは怜悧な声を投げかける。遠方のペネトレイトとアズールとのイクサの趨勢を視界に入れつつも、注視はしない。デスドレインが面倒そうに頸を掻き、剣呑な視線を彼に向けた。

「アー……やッぱお前、ムカつくな?余裕ぶりやがッてよォ」

 ドプン。会場内の死体から、胎動する暗黒流動体が這い出て、デスドレインの元へ集まっていく。神話級ニンジャ、ダイコク・ニンジャの強大なるアンコクトン・ジツが死者を貪り喰らって力を増していく。スプレンディドは眉を顰め……ダイマル・テーブルの一つへと跳躍した。

「アイエエエエ……」

 テーブルの下に隠れる生存者と、そこに襲いくるアンコクトンとを見やり、「イヤーッ!」黄金錫杖打擲!暗黒物質が跳ね上がって引き下がっていく。

「大丈夫ですか、ナマナ=サン」

「ア、アイエエ。ニンジャ……ニンジャ、ナンデ……」

「私がわかりますか。マサラサマウジ・ハクトウです」

 クロームメンポを取って、穏やかな微笑みを顔に貼り付けながらハクトウは語りかける。ナマナは動揺して過呼吸に陥るも、なんとか彼の顔を見上げた。

「マ、マサラサマウジ=サン?マサラサマウジ=サンが、ニンジャ……」

「ええ、はい。私はニンジャです。そして、あの邪悪存在も、ニンジャ」

 彼の目線の先ではデスドレインが濁った目を爛々と鈍く輝かせていた。ドプッ、ドププッ!穢れた粘着質の水音を響かせた黒い汚泥がハクトウとナマナの元に雪崩れ込む。ハクトウはメンポをつけなおし、「イヤーッ!」錫杖の石突で床を叩いた。CLANK。直後、光の壁が彼とダイマル・テーブルを囲うように生成され、押し寄せる暗黒を払いのけていく。

「……ナマナ=サン。はっきり申し上げておきましょう。貴方はここで死ぬ」

「え……」

「貴方だけでなく、他の者らもだ。努力は致しますが、正直なところ……あの邪悪存在から貴方達を守り切ることは不可能です」

 光の壁に徐々に綻びが生じていく。スプレンディドは眉を顰めた。想定よりも壁が保たない。アンコクトンの勢いが加速度を増していっている。襲撃当初と同様に会場の扉から、暗黒物質が新たに押し寄せてきている。会場外の従業員らを全て喰らいつくしたか。宿主の元を離れながらこうも殺戮を振り撒くとは、なんたる強大かつ自由奔放なジツか。その様を見やりながら、彼は茫然自失のナマナに怜悧な声を投げかけた。

「……ですがナマナ=サン。遺された貴方のご家族はこのマサラサマウジ・ハクトウ、責任を持って援助・扶養致します。ご安心を」

「そう……ですか……」

 光の壁に亀裂が走る。スプレンディドは眼を細くし、徐に錫杖頭をナマナに差し向けた。

「この壁ももうすぐ崩れます。そうなれば、あの穢れた汚泥が貴方を貪り尽くす。惨たらしく、残酷に」シャララン……錫杖の遊環が優麗な音を奏でる。「しかし、ナマナ=サン。貴方が望むのならば私は、今この瞬間。貴方に安らかな死を与えます。……どうですか」

 少々強引な話の進め方だ。スマートではない。そう思いながらも彼は言葉を紡ぎ終えた。ナマナはハクトウと光の壁、押し寄せる暗黒物質とに視線を向け……それから諦観に暮れた表情でハクトウを見上げて言った。

「……妻を、息子を、頼みます……」

「ええ、ええ。勿論です。それでは……どうか安らかに」

 黄金錫杖の遊環が瞬きのように煌く。ナマナの身体から抜け出していった光が粒子となって宙空に舞い、錫杖に吸い込まれていった。オフセとなるは何も金品だけではない。個人の意思で差し出されればそれをオフセと見做す。命であろうと。ナマナは事切れて床に崩れ落ちた。直後、光の壁が崩壊し、アンコクが流れ込んだ。

「イヤーッ!」

 スプレンディドは眉を顰めながら燕尾服めいた装束をはためかせて跳躍回避。

(((奴に抗するには足りん。ヤバレカバレの捨て鉢めいた命では所詮この程度か)))

 思考を巡らせながら別の生存者……ロイヤルスモトリ重戦士の一人の方へ。ダイマル・テーブル下のナマナの骸が暗黒物質に呑まれて潰えていく。

「……ンンー?」

 ナマナの死体からアンコクトンを補充できなかったこと訝しむデスドレイン。黒き汚泥を手繰りながら片眉を吊り上げ、スプレンディドを凝視する。

「ヘェー……なるほどな?」邪悪な知性と獣のような直感を働かせる。そして彼とは別方向にいるスモトリ重戦士を見やった。「そンじゃ、餌の取り合いッてわけだ」そして猫めいて身を屈め、邪悪ニンジャは揚々と跳躍した。

 ……スプレンディドは彼の行動を睥睨しながらロイヤルスモトリ重戦士の生き残りの元に着地。錫杖の遊環を鳴らす。フルヘルムに覆われた屈強なスモトリの目元を確認し、言葉をかける。

「君は……キキダ=サンだな。ここまでよく生き残ってくれた。素晴らしいことだ」

「ハッ……光栄であります!」

 キキダの表情は決意と覚悟に満ち満ちている。教育と調練の賜物だ。スプレンディドが彼から言葉を引き出す前に、誇り高きスモトリ戦士は両腕を大きく広げて片膝をつき、錫杖へと首を下げた。

「このキキダ・サジハマめの賤しき命でよければ、ドーゾ!何なりとお使いください……!」

 貴人は眼を細めて頷き、遊環を閑雅に鳴らした。シャララン……シャララン……。

「ああ。ありがとう、大事に使わせてもらうよ」

 儀礼的には二度断るべきであろうが、そのような悠長なことをしている余裕はない。屈強なロイヤルスモトリ重戦士の巨体から溢れ出た光がスプレンディドに取り込まれていく。オフセは善意の元に差し出された物を力とする。カネであろうと、服飾品であろうと、命であろうと。

 本来ならば、サヤラ夫妻の贈り物たる香水の詰め合わせも彼のオフセの足しになる筈であった。夫妻の善意はデスドレインの悪意に踏み躙られて跡形もなくなっていたがため、それは叶わなかったが……。

 スプレンディドは差し出されたキキダの命を汲み取り続ける。素晴らしい生命力がカラテを漲らせていく。スモトリ戦士は並のニンジャに匹敵する戦力であり、斯様に消耗品めいて使い捨てるは本来ならば愚策である。しかし……デスドレインは並のニンジャではない。かの脅威的邪悪存在に対抗するにはオフセ・ジツを、コウミョ・ニンジャのワザを最大限に活用せねばならぬ。


◆◆◆



 ……遥か昔、平安時代末期。大気に満ちる豊潤なエテルが枯れていき、ニンジャの絶対的な力に翳りを落とした立ち枯れの時代。コウミョ・ニンジャはその立ち枯れの時代に生きたニンジャであった。他のニンジャがそうであったように、彼もまたエテルを求めて様々に試行を重ねた。イクサの爪痕残る廃テンプル、クドク・テンプルで雨露をしのぎながら。

 付近の村に住まう人間や、通りがかった旅人からアワレの眼を向けられ、施しを受ける屈辱の日々。そうして苦難の末に彼が編み出したオフセ・ジツ。他者から差し出された金品や言葉に込められた善意の概念を抽出してコトダマと紐付け、エテルを絞り出してオフセとし、以って己の力とするジツ。モータルから力を分け与えてもらう構図は強大なニンジャたる彼にとって酷く屈辱的であったが、なりふり構ってはいられなかった。

 コウミョ・ニンジャは無力さと悔恨をひた隠してクドク・テンプルに住い続けた。時には付近の村々を渡り歩き、盗賊退治や畑仕事に精を出し、モータルを助けた。形而上的なオフセは定義が曖昧であるために、その対象は幅広いが……一度に抽出できるエテルは雀の涙ほどであった。故にコウミョは名声と仁徳を高め、より多くのオフセを得ようと試みたのだ。

 こうした行いが功を奏し、コウミョは多くのモータルに慕われることとなった。彼らと接するうちに、いつしか彼はモータルとの繋がりに己の人間性を見出していた。そのような時の中でコウミョはクドク・テンプルを修繕して己のドージョーとし、自分を慕う弱きモータル達にカラテを授け出した。ニンジャクランの立ち上げである。

 だが認可なきニンジャクランの立ち上げ及びオフセ・ジツの矮小さが中央のソガ・ニンジャの怒りを買った。なけなしのエテルを得るためにモータルから施しを受ける賤しき行為によって、絶対存在たるニンジャの格を貶める。その大罪をソガは赦さず、ニンジャクランの取り潰しのために私兵を差し向けた。コウミョはソガに反抗した。

 ……コウミョ・ニンジャの迎えた顛末。狡猾なソガ・ニンジャの謀略によって誇りなき悲劇的な最期を遂げたとも、死を偽って反ソガ主義のもとにモータルに与してエド戦争にのぞみ、イクサのなかで死したとも伝えられる。兎角、彼はソガと対立して死を遂げ、クドク・テンプルは焼き払われ……オフセ・ジツは歴史の闇に潰えたのだった。

 そうして長い時を経た現代の世にて、コウミョ・ニンジャのソウルはマサラサマウジ・ハクトウに宿った。コウミョのソウル憑依者がロード・オブ・ザイバツの配下となっているのは、なんとも皮肉な話ではある……。


◆◆◆



「……バン……ザイ……バ、ン……」

 スモトリの巨躯が崩れ落ちる。差し出された命をオフセの対象とし、受け取る。金額の大小やその物の付加価値は然程重要ではないとはいえ、人命から抽出できるエテルは実際多い。黄金の輝きがより一層煌めいていく。

「ヘヘッ、へへへ……ンだよ、お前。お前もアレか、イケるクチかァ?イイ趣味してンじゃねェの」

 下卑た声がスプレンディドに届けられる。貴人はそちらを見やった。デスドレインがニタニタとした笑みを零しながら、最後のロイヤルスモトリ重戦士に飛びかかっている。邪悪存在は重装フルヘルムの目元のスリットに強引に指を押し込んだ。

「アバーッ!?アバ、アババーッ!!」

 電撃に打たれたかの如くに巨体を痙攣させながらスモトリ戦士は絶叫し、絶命した。純然たる悪意に惨殺された重戦士の装備の隙間から暗黒物質が這い出ていく。デスドレインの元へと染み込んでいく。

「へへへへ!ごちそうさン!」

 デスドレインは笑いながらスモトリ戦士を蹴りつけて跳び、黒染めに足をつけた。斃れた巨躯の骸が暗黒の液体を派手に飛散させ、辺り一面の黒い沼に波紋を広げていく。呵呵と嗤う悪魔がヤンクめいて腰を折り曲げ、挑発的な上目遣いでスプレンディドを睨みあげる。

「ハハ。無駄にピカピカ光りやがッて……そンでも俺と同じか、お前。人様の命が餌か?最悪だな?」

「一緒にしてくれるな。私はご厚意のもとに差し出されたものを、丁重に扱っているだけだ」

 黄金錫杖が煌めく。カネモチが戯れに差し出す一万円と、その日暮らしのマケグミが差し出す一万円とでは引き出せるオフセの力は全く異なる。後者の方がより強い力となる。同様に……捨て鉢めいて差し出しされたナマナの命よりも、自らの強靭な意志で命を献上したキキダの方がより強い力となっていた。カラテが高まる。金色の瞳が悪魔を睨む。両者の視線が剣呑にかち合い、空気を歪める……。

「ンアァァァ……!?」

 緊迫する空気を引き裂くは、響き渡った少女の悲痛な叫び。デスドレインは眼を眇めて声の方を気怠げに見やった。ペネトレイトのケリ・キックを受けて床を跳ね転がるアズールの姿をぬばたまの眼が睥睨する。

「アア?何やッてンだ、アイツ。ダセェの……ンー?……アー……いや。ま、いいンじゃねェの?」ボリボリと頭を掻きながらスプレンディドの方へと視線を向け直す。「なンとかなンだろ。多分。知らねェけど」独りごちながら、ゴボゴボと沸き立つアンコクトンの束をスプレンディドに差し向ける。

「イヤーッ!」

 オフセを纏いし黄金のクドク・カラテが暗黒を打ち据える。汚泥を払い除けていく。視界の端にペネトレイトを収めながら、スプレンディドは決断的に前進し、錫杖を振るった!

「イヤーッ!」

 ドプンッ!スライムめいた暗黒物質の質量を無理くり押し除けデスドレイン本体を狙う!「近づくンじゃねェよ、ウザッてェ!」デスドレインは足元に沸かせた黒い波に乗って後方に引き下がった。「イヤーッ!」スプレンディドのカラテシャウトとともに、空振りした錫杖の遊環から光球が射出され、悪魔を追撃する!

「イヤーッ!」

 デスドレインは足元の黒い波に手を突っ込み、掻っ攫った暗黒物質を前方へ放り投げた。空中で飛散したアンコクトンが光球を呑み込み喰らう。引き摺り出したダイコクの力が、討滅のクドク・カラテを容易く屠っていく。光球を撃墜して着地したデスドレインの耳に、再びアズールの叫び声が届けられる。

「ウ……ウワアアアーッ!」

 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!
 BRATATATATA !!!

 銃声を伴った決断的な叫び。遮二無二駆け回って銃弾を撒き散らす少女の姿を視界に捉える。「な?言ッたろ。なンとかなッてンぜ。なァ……へへへへ」誰に向けられたものかわからぬ独り言をボソリと呟き、「イヤーッ!」手のひらを突き出す。彼の病的な色白の手から勢いよく噴き出すアンコクトンが、鞭めいた触手となってスプレンディドに迫る!

「ヌ、ウッ……」

 凄まじい大質量。スプレンディドは跳躍回避。ドプンッ!床を叩きつけた触手はそのまま枝分かれして、宙空に逃れるスプレンディドを追う。押し寄せる暗黒物質を金色の瞳が見据える。マスターニンジャは黄金錫杖を振るった。

「イヤーッ!」

 迫り来る暗黒物質を……弾かない。川の流れに身を任せるかの如く、自然に、されど押し流されず。錫杖にアンコクトンを纏わせていく。絡ませて……絡み取っていく。「あン?」デスドレインが片眉を吊り上げた。ぐ、ぐ、と彼の痩躯が引っ張られている。「テメェ」「イィイイヤァァアーッ!!」黄金の光を纏ったスプレンディドが恐るべきカラテシャウトを発して、錫杖に纏わせたアンコクトンを勢いよく手繰り寄せる!

「ウオオーッ!?」

 デスドレインの身体が宙を舞う。凄まじい勢いでスプレンディドの方へと引き寄せられる。秀麗なる貴人は険しい顔をしてカラテを構えている。錫杖持たぬ方の手を握り締め、中腰になって。一瞬のうちに、デスドレインは彼のカラテの射程圏内に!

「イィイイヤァァアーッ!!」

 炸裂するはポン・パンチ!直撃の寸前、デスドレインは眼を見開き、口を大きく開いた。耳元に迫るほどに彼の頬が裂けていく。「オゴゴーッ!!」裂け開かれた口からアンコクトンが吐き出される。それは幾重にも連なる多重層の膜となって展開され、暗黒の盾となった。

 ドパァン!大質量のアンコクトンにカラテ衝撃が走る。弾力と粘性に分散されたそれが己の身体に伝わる前に、デスドレインは口から吐き出した暗黒の盾と、手から噴き出させていた暗黒の触手とを切り捨て、背後へ倒れ込む。その背を暗黒の波が支え、より後方へと彼を運び去っていく。剣呑に態勢を整えたデスドレインが軽い身のこなしでダイマル・テーブルの上に飛び移る。

 切り捨てられた暗黒の汚泥がカラテ衝撃とオフセの光に駆逐され、萎びれて床に崩れ落ちた。スプレンディドは眉を顰めて黄金錫杖に纏わり付かせていた暗黒の残滓を払い捨てる。彼は視界の端に留めたペネトレイトに僅かに注意を向けた。

 アズールの射撃がペネトレイトに着実にダメージを与えていっている。ペースを握っているのはアズールの方に見えた。……押されている?

「ヘェーヘェーヘェー……ハハ、オゴッ、オゴゴッ」

 スプレンディドは思考からペネトレイトを除け、悪魔を睥睨した。デスドレインの裂けた口から暗黒が滴り、癒着していく。暗黒物質を吐きながら、長い舌をベロベロと挑発的に振って嘲笑う。

「なかなかうまいことイカねェよな?悔しいかよ。なァ。俺みたいな屑相手にカラテしてさ……やりきれねェでやンの。へへ。なァー、どうなンだよ、ザイバツ。悔しいか、これ」

「……」

 スプレンディドは答えない。その表情は冷たいまま。デスドレインはニタニタと笑い続ける。相手の胸中を覗き見ようとするような、下卑た目つきを向けて。暗黒触手を見せつけるように侍らせて。

 ……搾りカス程度のエテルしかない立ち枯れの平安時代に生きたコウミョ・ニンジャと、大気がエテルに満ち満ちていた古の時代に君臨した神話級ニンジャたるダイコク・ニンジャとではソウルの格も、ジツのスケールもスペックも、何もかもが桁違いだ。

 オフセはその対象の定義の曖昧さから広くエテルを収集することができるが、一度に抽出できるエテル量は少ない。その上、あくまでも個人の意思で差し出されたモノでなければ力になり得ないという欠点がある。無理矢理に奪ったところで食い扶持が減るだけの徒労。

 だが、アンコクトン・ジツは、奪う。人の死を、嘆きを、怨念を。簒奪によって力を貪る、正にニンジャをニンジャたらしめる原初のニンジャ存在由縁の力。そしてデスドレインは邪悪だ。奪うことに、殺すことに当然何の戸惑いもない。疑問もない。後悔もない。その訳は、彼がニンジャであるから、ではなく。ただ彼が、ゴトー・ボリスであるがゆえに。

 無論、ソウルの格だけがニンジャの強さではない。状況が、カラテが勝敗を決める。命運を司る。だがしかし……だがしかし。デスドレインのジツは、あまりにも強大であった。彼はカラテを詰り、くだらないと吐き捨て、ジツで押し潰してきた。暴虐を振るい続けてきた。

 ダイコク・ニンジャを宿せし邪悪存在の悍ましき魔の手によって絢爛たるパーティ会場は今や禍々しい穢れた黒に染められ、気品ある参加者は皆屍体。ダイコクの猛襲が全てを台無しにした。協賛各所の力添えによって完成したこのタワーホテルそのものもまた、実際オフセの対象であった。謂わばスプレンディドのフーリンカザン。常々にオフセは供給されていた。だがそれも途絶えつつある。全てが。台無しにされている。

「……なァ、どうだよ。スプレンディド=サンよォー。ヘヘヘッ、スプレンディド……スプレンディド華麗な……ヘヘヘヘヘ」

 言いながらデスドレインは大袈裟に上体を仰け反らせて会場を見渡した。死屍累々の黒泥塗れの陰惨な光景を。がむしゃらに戦うアズールを、被弾するペネトレイトを。銃弾を。そして聞いた。銃声を。

「……今ッ!!」

 アズールの決断的な叫びを。

「ゴオアアアアーッ!!」

 恐るべき獣の咆哮を。

「ンアァーッ!?」

 獣に右腕を噛みちぎられたペネトレイトの悲鳴を。

「……ヘヘヘヘヘ……な?連れてきて正解だッたろ……入ッてンだからさァ……ガキでもたまには役に立つンだぜ……」

 ブツブツと譫言めいて呟いた後、デスドレインはスプレンディドを見下ろした。彼は表情を変えず、ただ粛々と錫杖を構えている。デスドレインは煽るように小首を傾げた。

「なンだよ、助けてやンねェの?テメェの女じゃねェのか?見ろよ、必死こいてら」

 顎をしゃくって血みどろのペネトレイトを指す。メンポを無くし、狼狽する素顔を晒すままにこちらの方へと駆け寄ってくるアスミの姿。

「ス、スプレンディド=サン!マスター・スプレンディド=サン!も、申し訳ありません!救援、を……!」

 息も絶え絶えに叫ぶ女の声。デスドレインはケラケラと嗤ってわざとらしく両腕をホールドアップした。暗黒触手諸共に。だがスプレンディドは動かない。周囲を警戒し続ける。デスドレインが肩を竦めた。

「ハハハハ。やッぱワカルか?動いたらヤベェッて……俺、嘘吐くのヘタかもな?でもよォ、危なくても助けに行ッてやるのが男ッてもンだろ?」

「……たかがアデプトのウカツ。その為に我が身を危険に晒す筈がなかろう」

「あッそ。……そンじゃ、あの女頂くぜ」

 言い終えると同時、ペネトレイトの近くのダイマル下、そこに斃れる屍から湧き出たアンコクトンが彼女を雁字搦めに捕らえ、縛り、拉げさせていく。壮絶な悲鳴が轟く。悪魔は愉しそうに肩を揺らす。スプレンディドは努めて冷静にあろうとした。

 ペネトレイトはもはや助かるまい。ペースを乱され始めた時点である程度見切りはつけていた。全ては彼女自身のウカツが招いた結果だ。インガオホー。情にサスマタを突き刺せば、メイルストロームへ流される。平安時代の武人にして哲学者、ミヤモト・マサシのコトワザが胸中に去来する。切り捨てろ。ニンジャの世界は無慈悲だ。ブルータルだ。センチメントを捨てろ。

 髪を振り乱して苦悶するアスミの姿。トリイめいた朱色のカンザシが彼女の髪から振り落とされ、暗黒の沼に沈んでいく。

「ああ……!ああああ!嫌だ!嫌!ハ、ハク……ハク!ハクゥ!助けてよ!助、け……」

 喉が張り裂けんばかりに叫ぶアスミ・キナタコ。悲痛な懇願。彼女の懇願に含まれた『ハク』の言葉に、デスドレインの眼が細まる。泣き叫ぶアスミの声と姿に、マサラサマウジ・ハクトウのニューロンが激しくザワつきだす。幼少期の想い出が、ニンジャとなった日のことが、ザイバツ所属後の光景が、脳裏に過ぎる。鮮明に。鮮明に。

 ハクトウは……スプレンディドはそれらを振り払った。ニンジャのイクサには不要なノイズだ。スプレンディドは冷たい眼差しの一瞥をペネトレイトに向けた。

(((最期にブザマを晒したか、ペネトレイト=サン。名誉なき死だ)))

 冷徹に、冷酷に、無慈悲な思考を。最期にアスミが掠れ声でハクの名を呟いた。直後、不可視の獣が彼女の首元から肩口にかけてに喰らいつき、その命を絶った。「……サヨ、ナラ」アスミ・キナタコの爆発四散をスプレンディドは視界の端に留める。無慈悲に。無慈悲に……。

「……ナムアミダブツ」

 ハクトウは小さく呟いた。金色の虹彩が悪魔を睨みつける。邪悪の権化たるデスドレインは心底愉しそうに手を叩いて乾いた音を鳴らし立てていた。

「ヘヘヘハハハハ!死ンじまッたァ!テメェが見捨てたンだぜ!へへ、ヘヘヘヘヘ……なァ、マサラサマウジ・ハクトウ=サンよォ。ハクッて呼ばれてンの?呼ばせてンの?なァなァなァ」

 アンコクトンが胎動し、ゆらゆらとジゴクの形相めいて沸き立ち揺れる。デスドレインはぬらりとテーブルから降りたって暗黒の沼に足をつけた。彼はアンコクトンをズルズルと手繰り寄せていき、目敏くペネトレイトの装束の切れ端や黒瑪瑙メンポ、カンザシの残骸を見つけ出して弄び出す。

「ハハハ。ハク、ハクゥー。助けてェー。助けてよォー……ヒデェや、ヒデェ。最低だよあンた。へへ、どいつこいつもロクデナシばッか!へへへへへ!」

 グシャグシャと残骸が跡形もなく暗黒に潰されていく。幾つものアンコクトンの触手が立ち昇って鎌首をもたげる。ドス黒い死が蔓延する。スプレンディドは自身の周囲に光球を複数生成し、口を開く。

「君にその名で呼ばれるのは不快だな」

「お?イラついてンな?なァ?へへ、イイじゃん、イイじゃん!強がッてねェで、もう全部出し切ッちまえよ」

「……イヤーッ!!」

 スプレンディドが黄金錫杖を振り翳す。光球は四方八方へと飛び、爆ぜる。クラスター爆弾めいた光の散弾がアンコクトンを討つ。「オゴッ!」デスドレインが口から暗黒物質を薙ぐようにして吐き出した。空中に凝ったアンコクトンが四散し、光の散弾を相殺していく。「イヤーッ!」デスドレインは両手を突き出し、触手を差し向けた。右と左。「イヤーッ!イヤーッ!」スプレンディドは両手に持った錫杖を振り回す。円を描くようにして。彼の元に飛来した触手は錫杖に打たれ、中途で裂けて萎縮し、床に落ちてのたうった。

「「イヤーッ!!」」

 激しい攻防が続く。強大なるジツと強大なるカラテが鬩ぎ合う。乱れ飛ぶ光と暗黒。その壮絶な光景を、二人から離れたところでアズールは朧げな視界に捉えている。彼女はぜぇぜぇと息を吐き、垂れ流れた鼻血を手の甲で拭いながら、レセプションチェアーに寄りかかるようにして辛うじて立っていた。胴に受けたケリ・キックの痛みと、極限過剰加速させたニューロンへの負荷が少女を苛んでいるのだ。

「……ッ!」

 撃ち漏らしたか、或いは弾かれたか、流れた光や暗黒の残滓は憔悴したアズールをも襲いだす。「GRRRR !!!」傷を負った不可視の獣が咆哮をあげて駆け、その身を挺して少女を護る。鋭い爪と牙が獰猛に振るわれ脅威を挫く。少女の碧い瞳がデスドレインを見つめた。彼はアズールのことなど気にも留めていないようだった。少女は唇を噛み締めながらイクサの趨勢を注視し続ける。獣に護られながら、口の中に広がる血の味を呑み込んで。

「ハハハハ!ハハハハッ!なァー神様!?もうねェのか!ヤる気出せよォ!」

 ゴボゴボと沸くアンコクトンを鷲掴んで声を張り上げるデスドレイン。彼の神様、ダイコク・ニンジャはまだまだ余力を残している。こんなものではない。だが引き摺り出すのにも限度がある。デスドレインは顔を顰めた。

「ンだよ、オアズケか?それじゃつまンねェだろ……アー、もういいぜ。わかッた、わかッた」

 言葉を吐き捨て、スプレンディドを睨む。会場内の天井や床に広がるアンコクトンが一斉にざわつき、怒涛の如く立ち上がった。

「そンじゃ、ヤれるだけヤッちまうぜ……イヤーッ!!」

 巨大な壁めいた暗黒の津波がスプレンディドへと押し寄せる。「イヤーッ!イヤーッ!……イヤーッ!」スプレンディドはバク転で後方へと跳び、距離を取りながら光球を発射。ボシュッ、ボシュッ……だがナムサン。暗黒の津波の勢いは止まぬ。万事休すか。否!ザイバツ・マスターニンジャの瞳に宿る戦意に一切の衰え無し。着地したスプレンディドは黄金錫杖を演舞めいて振り回し、その石突を渾身のカラテを込めて床に突き立てた。

「イィイイヤァァアーッ!!」

 CRACK!突き立てられた地点から馳せた黄金の光が一直線に疾走し暗黒の津波へ。直撃……そして、引き裂く。アンコクトンを。モーセの海割りめいて!

「……アァ?」

 デスドレインが眉根を寄せた。真っ二つに割れた暗黒の津波、その空白を縫って走る黄金の光は彼の元へと向かってきている。迫っている。目にも留まらぬハヤイ過ぎるそれは、回避の選択肢をデスドレインに取らせない。「イヤーッ!」デスドレインが光に手を向け、暗黒の壁を生成して光を阻む。突き抜けてくる。「イヤーッ!」阻む。突き抜ける。「イヤーッ!」阻む。突き抜ける。タタミ五枚分程の距離に迫る光。「イヤーッ!!」阻む、阻む……突き抜ける!

「うざッてェ……なッ!」

 デスドレインは足元に沸かせたアンコクトンを立ち上がらせ、幾重にも連らせ、自らの周囲を多重層のドームめいて包み込もうとし……そして眼を見開いた。迫ってきているのは黄金の光だけではない。「イィイイヤァァアーッ!!」光の軌跡を追うようにスプレンディドが高速接近……決断的に跳躍。光を追い越す。飛び込む。アンコクトンのドームが二人を包む。遅れて到来した黄金の光が連綿と立ち上がっていく暗黒に呑まれて消えていった。

 光通さぬ暗黒の帷の中を、スプレンディドの纏うオフセの光が爛々と照らし出す。閑雅なる薄紫色の髪にグラデーションめいて混じる金色が一層強く輝きだす。「イィイヤァーッ!!」スプレンディドが黄金錫杖を振るった。デスドレインの足元へと。

「グワーッ!?」

 痩躯の脚が打擲され、あらぬ方向へと折れ曲がった。デスドレインは眼を血走らせる。瞬く間にアンコクトンの蔦が彼の両脚に添木めいて纏わりつき、無理矢理に正の方向へと折り曲げて歪に矯正する。裂けた皮膚に暗黒物質が流れ込み、折れた骨を癒着していく。

「イィイヤァアーッ!!」

 錫杖を振り抜いたスプレンディドは勢いそのままに得物を振り上げた。そして、オフセ纏いしクドク・カラテを……振り下ろす。デスドレインの頭頂部へと!

「アアアア!!」

 デスドレインは叫んだ。触手に己の身体を掴ませて引っ張らせ、錫杖を躱そうとする。だが僅かに間に合わぬ。頭部への直撃は免れたが……黄金の錫杖は彼の肩口を、鎖骨を砕いた。「グワッ……」それだけでは終わらない。爛々と輝く光が彼の身体を内から焼いていく。「グワーッ!?」痩躯から光が迸る!

「イィイイヤァァアーッ!!」

 スプレンディドはより強くカラテを込め、黄金錫杖を更に下へと押し込む。デスドレインの痩躯をバターめいて易々と袈裟懸けに溶断していく!

「グワーッ!グワーッ!!」

 裂ける、裂ける、裂ける。デスドレインの心臓部へと到達……「グワーッ……ハ、ハハッ!ヘヘヘハハハハ!」到達ならず。裂けていった彼の身体、その裂け目から夥しい量のアンコクトンが溢れて零れ、激しく泡立つ。千切れかかる肉体を繋ぎ止めていく!

「ヌゥーッ……!?」

 スプレンディドが唸った。黄金錫杖をデスドレインの心臓部へと振り抜こうとするが、その動きは緩慢になっていく。裂けるそばからアンコクトンが溢れ、押し上げ、繋いでいっているがために。悪魔存在は嗤いながらそれを掴んだ。

「ヘヘ、ヘヘヘヘ!イイもん喰ッてンなァ、あンた!俺にもくれよォ!」

 黄金錫杖の光が窄む。デスドレインは黄金錫杖に込められたオフセ、その中から命だけを抽出し、貪り出した。ドクン、ドクン!暗黒物質が鳴動し、勢いを増す。ドーム内壁から茨めいた暗黒の蔦が生え、スプレンディドを襲う!

「イヤーッ!」

 ビクともしない錫杖を手放した彼は素手のカラテを構えた。迫り来る暗黒を見据え、上体を逸らして回避。黒染めの床をカラテで弾き、手をつく。「イヤーッ!」そして流れるような流麗なカポエイラの逆さ蹴りを繰り出した。即ちメイアルーアジコンパッソ!光の軌跡が渦巻き、アンコクトンを蹴散らす!

「イヤーッ!」更に回転を加えたアルマーダ!「イヤーッ!」そこから更に回転力を乗せた跳び回し蹴り、アルマーダ・マテーロ!アンコクトンを蹴散らし、蹴散らし、蹴散らす!スプレンディドはドームの天井部を蹴り付けて急降下、デスドレインの眼前に着地!

「イィイイヤァァアーッ!!」

 勢いよく踏み込む。その背中から肩にかけてを悪魔に叩きつける。ボディチェックだ!

「グワーッ!!」

 ダンプカーじみた衝突をマトモに受けたデスドレインが体から暗黒物質を撒き散らしながらキリモミに吹き飛ぶ、その直前にスプレンディドは手を伸ばし黄金錫杖を掴んでいた。悪魔の身体に埋まったそれをカラテ衝撃を活かして引き抜く。キリモミに吹き飛んだデスドレインの痩躯がアンコクトンドーム内壁にめり込む。めり込み、めり込み、めり込んで……突き破った。

アアアア!!

 吹き飛びながらデスドレインはドーム展開アンコクトンを引き上げ、自身に纏わせた。黒に包まれた悪魔がカラテ衝撃をアンコクトンに流しながら床を跳ねていく。萎れた暗黒物質が次々と離脱していき、剥がれていく。暗黒の剥がれた目元、ぬばたまの眼は殺意に満ちた眼差しを向けている。スプレンディドはそれを睨み返し……「イヤーッ!」跳躍。背後へと。向かう先はパーティ会場の開け放たれた巨大扉。

(((よく理解した。口惜しいが……私では勝てぬ。殺せぬ)))

 状況判断を下し撤退。どれほどのカラテを叩き込もうと矢継ぎ早に再生していく邪悪存在、底無しの如くのアンコクトン・ジツ。オフセ・ジツをどれだけ消費しても決定打を生み出せていない。オフセの消費が募るばかり。このままイクサを続ければジリー・プアー(徐々に不利)に陥る。直にアズールも、彼女が使役する獣も復帰してくるだろう。

 救援は望めぬ。デスドレインらが会場内に乗り込んできた時点で一応の救援要請は出しているが、返答はない。当然の如く、審議中のまま。根無草のスプレンディドを助けるためにデスドレインとイクサを交えるのはリスクが高過ぎる。

 ……寧ろ上層部は己の死を望んでいるだろう。カネの成る木さえ残っていればそれでいい。このタワーホテル以外の財源が、マサラサマウジ家の抱えるビズが、資産が、カネの成る木だ。そしてその管理者たる自分の存在は目障りといえる。あわよくばデスドレイン共々に死に絶えるのが、伏魔殿の望みであろう。故に救いは無い。既に勝敗は決した。私は負けた。デスドレインの勝利だ。

……アアアア!!アアアア……

 アンコクトンをあちこちに吹き散らしながらデスドレインは叫び続ける。新たに染み出した暗黒物質が束になって飛び出していき、壁に床に天井に伸びていき、張り付く。千切れれば即座に修復する。キリモミ回転の衝撃が衰えていく。シュルシュル、シュルシュル……ギュルル、ギュルル。減衰し続けたカラテ衝撃が収まり、デスドレインは空中でピタリと停止した。

 デスドレインは扉から飛び出していくスプレンディドの背を睨んだ。周囲のアンコクトンが激しく胎動し、液状化していく。伸びきり張り付いた触手らも同様に液状化し、空中停止状態のデスドレインが床に落ちた。彼の方へとアズールが駆け寄ってきているが、彼は見向きもしない。

「ゴボッ、ゴボボッ……逃げてンじゃねェぞォー……!」

 ヘドロ混じりの血反吐を吐きながら、ぬらりと上体を起こす。ボコボコと滾った暗黒物質が足元に生じ、水流となる。「イヤーッ!」暗黒の波に乗ってデスドレインは弾丸めいて飛び出していった。スプレンディドを追って。

「うう……ま、待ってよ……」

 取り残されたアズールはフラつきながらテーブルに乗り、不可視の獣の背によじ登って透明の毛皮にしがみつく。眼を擦って獣に命じ、デスドレインの後を追わせる。振り落とされないよう懸命にしがみついて。獣は暗黒の波を踏み渡って駆けていく。


◆◆◆



 SPLASH……!!! PLOP !!! PLOP !!!

 扉を突き破った暗黒の波がスプレンディドを追う。吹き抜けになった長く広大な廊下を駆け、装飾を、調度品を汚泥に染めていく。スプレンディドは首を巡らせて、デスドレインの姿と、彼の背後に追い縋る不可視の獣とアズールの姿を見据えた。

「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」

 波から生えた触手が襲いかかるが、スプレンディドはそれらを蹴り付けて三角跳び回避。柱を、壁を、触手を蹴り飛ぶ。「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ!」回避ムーブに攻撃を交えて。振るわれた錫杖は光球群を追跡者に差し向けた。

「鬱陶しいなァー」

 ヒリついた声音で光球群を眺める。暗黒の波はそれらをものともせずに呑み込む。しかし……幾つかの光の群体は軌道を急変させてデスドレインの真上を通過した。「あン?」怪訝に眉を顰めるデスドレイン。彼を通り越していった光球群が急降下していく。狙いはデスドレインではなく。

「GRRRR !!!」

「ンァァッ……!?」

 不可視の獣とアズールが悲鳴をあげた。傷ついた獣はアズールを護るべく遮二無二駆けたが……ナムアミダブツ。執拗な光球の追跡が無慈悲にその巨体を襲った。暗黒の波から獣が足を踏み外し、後方へとアズール諸共に転がり落ちていく。「アアアア……!」毛皮に必死にしがみつきながら、少女はヤバレカバレに叫んでデスドレインを見た。空色の瞳に映る悪魔は少女に一瞥をくれ、面倒そうに肩を竦ませた。

「ついてこねェの?そンじゃ、先行ッてるぜ。アズール」

 デスドレインは何でもないような声で言葉を吐き捨ててスプレンディドの方へと向き直り、黒い波に乗って駆ける。遠ざかっていくその痩躯を、凍りついた心でアズールは呆然と見つめていた。満身創痍の獣が荒く息を吐きながら、少女を傷つけぬようにその背から下ろす。空気を歪ます透明の輪郭が曖昧になっていき、朧に揺らぐ。その存在が消失すると、アズールは力無くペタリと床に座り込んだ。

「……置いて……いかないで……」

 一人きりの廊下に、か細い声が虚しく響いた。


◆◆◆



「「イヤーッ!!イヤーッ!!イヤーッ!!」」

 襲いくる暗黒触手を錫杖が打つ。スプレンディドが吹き抜けを上へ、上へと跳躍移動していくのをデスドレインは追う。暗黒の波が縦横無尽に形状を変化させていく。

「オゴッ、オゴゴッ!ゴボボッ!!」

 デスドレインは暗黒物質を口を裂けさせながら吐き飛ばす。SPLAT !!! SPLAT !!! SPLAT !!! 吐き出されたそれらはスプレンディドを追い、空中で爆ぜて飛散する。「イヤーッ!イヤーッ!イヤーッ……!」スプレンディドはカラテを振るって撃墜していくが、その表情は苦しげだ。長期戦によってオフセ・ジツが減じている。加えて、先の攻防でオフセの命をデスドレインに奪われたのが大きく響いていた。命を奪ったアンコクトンは益々力を強めており、カラテの差という絶対的アドバンテージが埋まりつつある。

「イヤーッ!イッ……」

 そして、遂に。暗黒の触手が彼の身体を捉えた。秀麗なる貴人が眼を見開く。瞬く間に彼の身体を暗黒触手が絡め取っていく!「グワーッ!?」月白色の燕尾服めいた装束が汚泥に穢されていく。全身の骨がミシミシと軋んでいく。皮膚が裂け、血が滲む。

「グワーッ!!」

「ヘヘヘヘ……やッと捕まえたァー」

 デスドレインは橋のように形を変えた暗黒物質の波の上をズカズカと歩き、宙空に縛りつけられたスプレンディドに躙り寄る。屈辱と痛みに顔を歪ませる貴人の顔を愉快そうに眺めて嗤う。

「イイぜ、イイぜ、その顔。悔しいな?ハハハ!どンな気分だ今?なァ?ヘヘヘヘ……」

「グッ……」

 錫杖がスプレンディドの手から零れ落ち、光の粒子となって消えていく。デスドレインは彼のクロームメンポに手をかけ、無理やり剥ぎ取った。露わになったマサラサマウジ・ハクトウの表情をニタニタと見やり、その口元に手を翳す。

「くれてやるよ、アンコクトン。たッぷり味わえよな。窒息死するかな?腹破けて死ぬかな?……ヘヘヘハハハ」

「……」

 スプレンディドは悪魔の嘲笑に奥歯を噛み締め……それから歪に口角を上げた。

「いいや、結構だ……デスドレイン=サン」その虹彩の金色の光が爛々と輝く。瞳のみならず、その眼全てが黄金の輝きに白熱する。デスドレインは顔を顰めた。「ふ、ふふ。ところで……デスドレイン=サン……私から、君に贈りたいモノがある……受け取ってくれ」スプレンディドの全身から黄金の煌めきが迸っていく。彼を縛る暗黒物質が討滅の光に灼かれていく。

「アア?……戻れッ、テメェら!戻れェーッ!」

 ニンジャ第六感に突き動かされ、デスドレインは跳び下がった。周囲全てのアンコクトンが液状化して螺旋を描いて渦を巻く。空中に放り出されたスプレンディドは身を丸め……「……バンザイッ!!」大の字に全身を張り、宿りし全てのオフセを、カラテを解放した!

 KRA-TOOOOM !!!


 ナムサン……自爆だ!黄金の大爆発が辺り一帯を包む!爆ぜ散ったエテルの輝きがカトンめいて燃え揺らぎ、アビ・インフェルノ・ジゴクめいて全てを焦がしていく……!


◆◆◆



 轟く爆発音と建造物全体を揺らがせる衝撃。アズールは顔を上げた。澱んだターコイズブルーの双眸が吹き抜けの広大な廊下を眺める。大爆発が齎した災厄、あちこちに上がる火の手。墜落する真っ黒な人影……少女は瞠目して立ち上がり、華奢な脚で駆け出した。ベシャリと落ちて床に転がる黒焦げの痩躯へと。

 息を切らしながらアズールはそれを覗き込んで見下ろす。黒焦げの焼死体……否。焦げついた暗黒物質がバリバリと剥がれ落ちていく。デスドレインの姿が露わになっていく。彼はスプレンディドの自爆に対し、アンコクトンを己の全身に纏わさせることでこれを防いだ。とはいえ無傷ではない。彼の焼け爛れた皮膚をボロボロになった暗黒物質が這いずり、染み込む。あるいは、力無く床に落ちる……。デスドレインは唐突にガバッと身体を起こした。

「……うあッ」

 彼の顔を覗き込んでいたアズールは頭をぶつけられて蹌踉めいた。デスドレインは周囲を見渡したあと、つまらなさそうに耳を掻きながら立ち上がった。

「……アー、アー。締まらねェの……パッとしねェや。俺が。……あン?どした、アズール」

 己に向けられた不機嫌そうな眼差しに気付き、アズールへと視線を向ける。

「ンだよ、その顔。置いてかれて拗ねてンのか?泣いちまッた?へへ……ガキだなァ、アズール……テメェがついてこれねェのが悪ィんだよ」

「……」

「へへへ……アーア。これじゃ、つまンねェ。つまンねェ……ムカつくな。ムカつくなァ……」

 デスドレインの目鼻口、耳へとズルズルと染み込む暗黒物質。彼はヒリついた声音でブツブツと呟き、近くの調度品を意味もなく殴りつけて破壊した。壁に飾られていた絵画、無惨にアンコクトンに汚されたそれに触手を差し向けて壁から引き剥がし、床に叩きつけて踏み躙る。目につく全てを無意味に壊していく。

 その様をアズールはジッと見つめている。破壊と蹂躙を繰り返すデスドレインが、不意に彼女の方へ振り返った。

「……オイ、アズール」

 デスドレインは懐に手を突っ込んで不躾に彼女の名を呼ぶ。少女の空色の瞳が彼を見つめる。いつものニヤケ面ではない、張り付けたような無表情の彼を。冷たい声音が囚人メンポの下から発せられる。

「お前さ。ムカつかねェの?……ムカついてるよな。なァ。なンだッていいンだ……何にムカついてンのかはどうでもいいンだ」

 無表情のままに彼は言葉を紡ぐ。

「だからさァ……全部出せよ。そンで壊せ。壊せ、壊せ……ブッ壊せ。メチャクチャにしてやンだよ……やれンだろ?オイ」

 顎でジゴクめいたタワーホテル内を示し、デスドレインはアズールを睥睨した。少女はスリングベルトに携えたサブマシンガンを抱えながら、身動ぎすることもなく彼に物憂げな眼を向けている。

「……」

「ンだよ、その眼」

 アズールは彼を見つめる。黒い瞳を見続ける。光を呑み込み喰らうような、ぬばたまの瞳を。その瞳の奥を、捉えようとする。彼が自分に何を求めているのか、何をさせたいのか。

 理解できず、理解しようとも思わずにニューロンの引き出しにしまったそれらを、開けてみる。……そして、少女は、噤みかけた口を開いた。

「……私、は」

「アァ?」

「私は……ランペイジじゃないよ」

 彼女の言葉が、時が止まったかのような静寂を齎す。あの退廃ホテルでの一夜を、反抗の爪を立てた瞬間を想起し、己の中に渦巻く感情を理解しながら、少女はデスドレインを見る。芯の底から湧き上がる恐怖心に竦みそうになって……それでも彼女は悪魔を見据えた。悪魔は不愉快そうに首を傾げて口を開き、静寂を裂く。

「……何言ッてンだ、テメェ。そンなこたァわかってンだ……アァ?……アー、そういうことか?」

 悪魔はゆったりと少女に近付いていく。彼女の眼前に立って、小柄な体躯を冷たく見下す。

「チッ……ガキが。ナメたこと考えてンな?わかンだよ、そういうの……生意気だぜ、お前」

 少女は後退りかけた脚を努めて留め、顔を背けそうになるのを堪え……意を決して口を開く。「アズール」痩躯の男を見据えながら、彼女はその名を発する。デスドレインは無言で少女を見やった。彼女は息を吸い、己の眼を指差して、言葉を紡ぐ。

「……目の色が空色Azureだからその名前なんだッて、そう言ッてた……お前が、言ッたンだ。お前が、名付けたンだ

 緊迫感を堪えた声は僅かに震えていた。デスドレインは……デスドレインは気怠げに頭を掻いた。

「アー……アー、アー。面倒くせェな、お前。……アズール」

「……そう。私、は……アズール。ランペイジじゃ、ない」

 アズールは辺りの惨状を後目に見やり、痩躯へ声音を届ける。「それで。次は何をするの。私は何をすればいいの」サブマシンガンを抱える手が強張る。デスドレインは暫くその場で立ち尽くし、アズールを見据え……そっぽを向いて歩き出した。

「もういい。萎えた。ダリィ。出るぜ、ここをよ」

 アズールは控えめな溜息を吐き、彼の後ろをついていく。歩きながらデスドレインが不意に口を開いた。

「……ンー。なンか癪に障るッつうか。俺がパッとしねェンだけど。そンでも、身体中こンなだからよ、俺」

 彼は振り返ってアズールへと眼差しを向けた。彼の全身の傷に泡立ち蠢く暗黒物質から、ボトボトと黒い残滓が溢れていく。

「だからよォー、アズール。お使い行ッてこい。ヘヘヘ、ガキのお使いだ……」

 アズールの碧い双眸がデスドレインを見つめる。いつも通りの、眼元に愉悦な弧を浮かべてニタニタと嗤う悍ましきニンジャの顔がそこにあった。


エピローグ.



 彼方此方を焦がす炎。ニンジャの超常の力が齎した破壊と災厄。豪華絢爛な高級ホテルは今や見る影もない。その災禍の最中、しめやかに歩みを進める存在。乱れた薄紫の髪。白磁めいた肌は傷つき汚れきっている。スプレンディド……もはやニンジャ装束の維持すらままならぬ様子で、彼は独り歩く。月白色の燕尾服めいた装束が光となって消えていく。ボロボロになったフォーマルホワイトスーツの姿となる。

 虹彩に宿っていた金色の光も今はない。全てのオフセを使い果たした自爆により、彼は実際満身創痍の状態にあった。ボロボロのスーツの上着から上質なハンカチーフを……アスミ・キナタコからマスター位階昇進の祝いとして贈られたそれを取り出し、己の血を拭う。調息の乱れを抑え、油断なきニンジャ野伏力を発揮し、注意深く脚を進める。

 あちこちに斃れる屍を観察し、いつ暗黒物質が飛び出してきても対処できるようカラテ警戒を怠らずに進む。ニンジャ第六感を研ぎ澄ます。不可視の獣の気配も、邪悪なるアンコクトン・ジツの悍ましき気配も今は無い。

 スプレンディドはスーツのネクタイを緩めて解き、炎へと焚べた。同様に、スーツの上着も脱ぎ捨てて炎へ。血に濡れたハンカチーフもまた、同様に……炎へ。それらの繊維が焼け焦げていく。彼はそれを少しだけ眺め、再び歩き出す。

「……」

 暫く歩いてから立ち止まり、炎の元へと戻る。躊躇なく炎へと手を突っ込み、ハンカチーフを取り出す。

(((……私も未熟者だな。過ぎたことにセンチメントを……)))

 血と焦げ後で酷く汚れたそれを強く握りしめ、脚を進める。そうして彼はやおらに壁へ凭れかかった。緊急事態用の隠し回転扉が作動し、スプレンディドの姿はその中に消えていく。隠し階段を降りていき、脱出路を抜ける。冷たい夜風が彼の頬を撫でつけた。

 スプレンディドは夜に佇むリジェンシ・セッショを見やった。バラバラバラバラ……夜空を飛ぶ最新鋭武装ヘリ。ザイバツの救援部隊。混沌の事態の収束を察知して派遣されてきたのだろう。救援要請に応えたという体を成すための、形だけの派遣。何もかもが手遅れのなか、武装ヘリは周囲を暫く飛び回った後、何処かへと飛び去って行った。

 静まり返る暗澹なる夜。ロード・オブ・ザイバツのキョジツテンカンホー・ジツがモータルへのニンジャ存在露見を隠しているが故に、ホテルで起こった忌まわしき殺戮を人々に知覚させない。ガイオンに暮らす人々は何の疑いもなく寝静まり、或いは労働に勤しんでいる。不気味なほどに普段通りのガイオン・シティの夜がある。

 スプレンディドは飛び去るヘリを侮蔑的に一瞥し、リジェンシ・セッショを後にした。彼の脳裏ではアスミの最期がいつまでもフラッシュバックしている。手に持ったハンカチーフを見やる。悔恨の自責が彼を苛む。

 ……意地を張らずに、誰かしらの派閥に身を寄せていれば。或いは、彼女だけでも派閥に所属させていれば。彼女はこんなところで死なずに済んだのではないか。他の者らに彼女の命を預けるのを恐れずにいれば、或いは……。

 スプレンディドは重たい憂鬱を抱えて路地裏へと入り、思考を巡らせる。一般層に向けたマサラサマウジ・ハクトウとしての会見のスケジュールを練る。ギルドへの謝罪とケジメを考える。まだ自分に利用価値があるならば、ケジメとペナルティ多額奉納で事は済む。用済みならばカマユデか。考えても考えても、彼の隣にはもう誰もいない。

 路地裏を曲がり、曲がり。通りを見やる。日中であれば人混みに紛れて姿を眩ませられようが……今は人の往来は無い。最適な逃走ルートをニューロンに描く。

「ねぇ」

 仄かに華の香りがした。スプレンディドは振り返り、声をかけてきた少女の姿を見やった。さりげない動作で、敵意のない仕草で彼の懐に入り込んだ少女を。何の疑問も持たせぬ、極々自然な、透明な心。スプレンディドは己のウカツを悟った。

「死んでよ」

 ガラスのような空色の瞳が彼を射抜く。冷たい声音が紡がれる。スプレンディドを見上げた少女が、サブマシンガンの銃口を下から彼の顎へと押しつける。ゆっくりと。緩慢に。

 ……今この瞬間にカラテを振る舞えばこの少女を殺せるか。否。緩慢なのは己の主観時間だけだ。世界から切り離された、鈍化した主観。既に少女の指はトリガーを引いている。間に合わない。死がそこにある。

 避けられぬ死を前にして、脳内でソーマト・リコール現象が始まる。鬱屈な幼き日。格差社会英才教育のための教材として迎え入れられた少女。父や兄らから隠れて少女が軟禁された座敷牢に足を運び、施しを与えた日々……。

 ……ニンジャとなった日。怒りに任せた一族の討滅。闇からの使者、ザイバツ。勧誘。そして彼女もまた、ニンジャに。次々と蘇る過去の記憶。



 ──ローソクの光に微かに照らされる座敷牢で、少年と少女は向かい合っていた。

「ありがとう、ございます。マサラサマウジ・ハクトウ=サン。私なんかにこんなに優しくしていただいて」

「はは。君とは歳が近いからかな……ああいう酷いことをされるのを観ているのは、気分悪いからね」

 幼きハクトウとアスミ・キナタコの姿だ。

「ほんとうにありがとうございます……なにかお礼を差し上げたいですが、このような身ではそれもままならず。ゴメンナサイ」

 申し訳なく首を垂れる少女の顔を上げさせてハクトウは微笑んだ。

「そンなことで謝らなくていいよ。お礼なんか……ンー、でもそうだな。……ハク。ハクって、呼んでくれないかな」

「え。ハ、ハク……ですか?」

「うん。対等な関係っていうのかな……そういう愛称みたいなので呼び合うの、憧れてンだよね」

 崩したアグラ体勢で彼は言う。少女はおずおずと口を開いた。

「あ……えっと……ハ、ハク=サ」「ハクだけでいい」「……スゥーッ……フゥーッ……ハ、ハク」「ありがとう」

 朗らかに少年は笑った。

「そうだ!おれも君のことを愛称で呼びたい。アスミは……家の名前だよね。おれは君を何て呼べばいい?」「え。えっと。じゃあ……」

 少女が、はにかみながら自分の名前を、ハクに呼ばれたい名を告げる──



 光景が移り変わる。記憶にない光景だ。黄金立方体を空に頂くハクトウの私邸。庭園をのぞむ縁側でチャを嗜む若い二人の男女。マサラサマウジ・ハクトウと、アスミ・キナタコ。ハクトウは隣に座るキナタコへ眼差しを向けた。彼女は穏やかに微笑んだ。

 嗚呼、嗚呼。死に際に何と都合の良い夢を見ているのだろう。彼女が私を赦す訳などないというのに。微笑みかけることなどありはしないのに。

(((……キナ。キナ……ああ。おれは。君を。君の、ことを……)))


BRATATATA !!!

 無慈悲なる銃声とマズルフラッシュがソーマト・リコールを、黄金立方体の幻想を引き裂いた。血が、脳漿が、飛び散る。赤く濡れた鉛弾の掃射が突き抜けていく。手元を離れたハンカチーフが夜空にひらひらと舞う。視界が明滅する。

 そうだ、これでいい。都合の良い夢に浸ったまま迎える自己満足の死よりも、惨めたらしいブザマな醜い死こそ己に相応しい。

 鮮血と共に冷たいアスファルトに仰向けに倒れて、彼は自嘲した。黒雲の隙間から顔を覗かせるドクロめいた月がショッギョ・ムッジョと呟いた。

「サヨ……ナラ……!!」

 ハクトウは爆発四散した。

 アズールは熱持ったサブマシンガンを下ろし、スリングベルトに預けた。爆発四散跡を一瞥して踵を返し……少し歩いてから立ち止まった。振り返り、来た道を戻っていく。彼女はアスファルトにフワフワと舞って落ちてきた物を屈み込んで拾い上げた。そうしてまた、踵を返して闇へと消えていった。もうこの場に帰ってくる事はなかった。


◆◆◆



 遊具の少ない小さな公園。夜風に当たりながらベンチに大股座りに深く腰掛ける、フードを目深に被った痩躯の男。彼は己の方へ近づいてくる気配を察知し、空になったコロナビールの空き瓶を手元で弄びながら気配の方へ顔を向けた。

「よォー、おかえり。ちゃンとお使いできたか、アズールゥー……」

「……うん」

 アズールはコクリと頷き、デスドレインを見やる。彼はケラケラと笑い……空き瓶をそこらに放り捨てて立ち上がり、アズールの方へ歩み寄った。

「ヘヘヘ、お利口さん……あン?お前、何持ッてンだそれ」

 片眉を吊り上げ、ズカズカと彼女に近づく。隠し持つかのように後ろ手に何かを持った少女に詰め寄る。アズールは少しの逡巡の後、おずおずとその手に持った物を彼に差し出した。

「なンだこれ」

 少女の手からそれをひったくり、ボロ雑巾を手にとるような手つきで端の方を摘んで観察する。血と焦げ跡に汚れた厚手のハンカチーフ。デスドレインはまじまじとそれを眺め……「きッたねェな。ンなもん拾ッてくンな」ぶっきらぼうにそう言ってハンカチーフを放り捨てた。

「そンじゃ、行くか……ア?何見てンだ、アズール」背を伸ばして歩き出し、アズールへと声をかける。彼女は夜風に晒されて飛んでいくハンカチーフをジッと眺めていた。「欲しかッたのか、アレ」デスドレインの言葉に少女はかぶりを振った。

「別に。何となく、拾っただけだから」

「そうかよ。じゃ、行こうぜ……ボサッとしてンなよ、チンタラしてンじゃねェ」

 ズカズカと立ち去っていくデスドレインの方へ顔を向け、アズールは彼の後を追って歩き出した。二人の姿が闇夜に融けて消えていく。

 ……ガイオン・シティの夜空を、風に乗ってハンカチーフが飛んでいく。やがてそれは街を流れる水路にひらひらと舞い落ち、清き水の流れに赤い尾を引きながら……何処かへと消えていった。



【オンスロート・オブ・ア・ダイコク・フロウ】

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