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日本一歴史のある湯宿 御所坊

古いという事と歴史が有るという事は違う。ギネスに記載!と記載している所も歴史が飛んでいる。有馬が日本で一番歴史のある温泉地で、その有馬で一番歴史が有るのが御所坊なので、おそらく日本一歴史のある宿だと言える。

はじめに

尊敬する歴史家の田辺眞人先生は「私は歴史家だから史実しかしゃべらない」と言われる。しかし私は宿屋の親父なので“想像”を加えても許されると考えている。

例えば有馬温泉は神話の神様や三羽のカラスが発見したことになっているが、いつの頃か宮廷に有馬温泉の存在が伝わっていたからこそ、631年に舒明天皇が行幸された史実が存在する。

舒明天皇は何日間どの様に有馬に滞在し、またどのように温泉に入っていたのかは“想像”するしかないと思う。記載されていないから。
“想像”する際に現在の状態から見て昔を想像するのは難しい。その当時の視点に立つことが難しいからだ。

2010年にブータン王国のガサ温泉がサイクロンの被害で河が氾濫し、河沿いにある温泉施設が流出した。その復興プランを提案する為に行った事がある。首都から山を越え、ちょうど六甲有馬ロープウェーの横の登山道の様な切り立った石がたくさん転がっている道を数時間走り、六甲山の山頂から有馬温泉を見るような距離感の場所に着いた。

そこから歩いてガサ温泉に行った。今から思えば現代版の行基のようなものだ。たどり着くと荒れ果てた場所で、温泉の形跡もほとんど何も残っていなかった。

我々の泊めてもらった施設は超VIP用の施設。農繁期を終えたブータンの人々は河原にテントを張って湯治をするそうだ。きっと昔の有馬もそうだったんだろうと想像できる。

有馬近辺の神社

927年に完成した延喜式には、有馬郡三座として有間神社(アリマノ) 公智神社(クチノ) 湯泉神社(ユノ)の神社名が記載されている。

それぞれの神社の来歴をみると有間神社は、715年の六甲山からの洪水で有馬川が氾濫し、山口庄の名来村の山王谷から現在地に移ってきている。
創建時期は不明。
631年に舒明天皇が参拝されたというのが最古の記録となっている。

日本書記に摂津国有間温湯と書かれているので、その当時の有間の中心は715年以前に有間神社があった現在の西宮市山口町だったと考えられる。


実際、近くの公地神社は伝承の時代から存在していたようで、山口荘内の適当な丘を選び、氏神として木の祖神を祭ったのが始まりとされている。

647年、孝徳天皇が有馬温泉に行幸の際に公地神社の敷地から木材を取り、滞在場所の建設をしたといわれ、その木材が非常に良好だったために「功地山」(功ある山の意)の山名を賜ったという。

それに比べると有馬温泉の湯泉神社の歴史は少し新しいのではないかと思う。

古代地図

つまり画像の赤い楕円形の地域は神戸市北区八多町のエリアで、古くは「幡多」と記されており、秦氏の痕跡が神戸ジャンクション建設の際に発掘された。

また近くには、それなりの豪族の石室が青石古墳や中野古墳群がある事から、古代から力を持った勢力が有馬温泉の北側に居住していた。その人たちが温泉が湧いている事を都に伝え、舒明天皇や孝徳天皇の行幸につながったと想像される。

六甲山は花崗岩でできているので、山津波や洪水で青い矢印の方向に土砂が流れてしばしば被害を与えたのだろう。

701年大地震が発生

舒明天皇や孝徳天皇が利用した有馬温泉は、701年に京都府北部を中心に起こった大地震で崩壊したと想像できる。

それを復興したのが行基。

724年、薬師如来のお告げで、行基が有馬温泉を復興してから数十年間は有馬温泉は栄えたという。しかし・・・

991年に和泉式部が有馬に来たという記録までの約200年間、有馬の歴史に空白が生じている。

1024年10月25日から11月8日まで平安時代の最高権力者 藤原道長が有馬温泉に来ている。

一家で三人の后を輩出する「一家三立后」を達成し、事実上の最高権力者となったのだが糖尿病で苦しみ、一年で息子の頼通に摂政を譲り政界から引退して出家、有馬温泉で療養したのです。

この頃から、有馬温泉での湯治風景が語られ始めます。そして御所坊この頃から出てきます。

今日の所は、この辺まで


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