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ロック、川崎、トゲナシトゲアリ

ガールズバンドクライを13話まで観た。感想は本文で書くとして、観終えて清々しい気持ちでツイッターを開いてたまたま流れてきたいくつかのツイートを読んで、なるほど納得できる批判も多かったがそれはそれとして「うるせえよ死ね!!!!!」とデカい声が出たのでnoteを書く。
かなり酷く酔っているのできっとめちゃくちゃな文章だろうし翌日や数日後に大きく書き直すとは思うがとりあえず公開します。まだ観てない人は読まないでください。


ガルクラ13話の何が問題だったのか

ガルクラ13話があの物語の流れの最後を締めくくる話として(それ以前の話の方向性の延長として)微妙だったかはさておき、変に感じられる展開だったのは部分的に認める。がやはり私はガールズバンドクライはガールズバンドクライがやりたいことを最後までやり通したと強く思う。そのことについて書く。

まずは問題点を整理しよう。私見の限り最も批判が多かったのは「結局ロックしてねえじゃねえか」というものである。蛍光灯をブン回し、中指を立て、背中からトゲを出して「桃香さんは本当にそれで良いんですか」と詰め寄る井芹仁菜。その姿は間違いなくロックだった。ところが最終話では(商業性・商業的バックという意味での)プロの仲間入りを果たそうとしていたにも関わらず、再生数がカスみたいな数字に留まったことを契機に事務所を辞め、インディー(つまりアマチュア)としてやっていくことを決意する(これが第一の問題)。最後のシーンではヒナが本当は「敵」じゃないんだということに気づく。満足そうな表情で演奏し、笑顔で中指を立ててエンドロール。これを受け、多くの視聴者が「それじゃ駄目なんです」の井芹仁菜はどこ行ったよ、結局現実リアルに日和ってんじゃねえかという反応を示した。父親とも和解して最終的には丸くなってしまって何にも反抗していない、という話(第二の問題)。この記事を書く前に読んだ藤吉なかのさんの言葉を借りると、これらの立場にある人は「勝手にキャラクターによく分からないものを託して、勝手にガッカリして」いた訳だ。

しかしながらこの主張を見かけて最初に思ったのは「お前らはカート・コバーンを知らないのか?」というものだ。出典は改稿の際に引くが、カートはニルヴァーナをやるにあたり、音楽番組で紹介されることに強いジレンマを感じていた。どういうものかというと「自分の音楽が音楽番組という商業主義の塊で紹介されればされるほど自分の音楽は聴かれるが、それと同時に関連企業や関連アクターは全く自分と関係のないところで阿呆のように儲ける」というもので、彼はマジで資本主義のこれがマジで嫌だった、そもそもそれに対して反抗するためにロックをやってんのになんで資本主義に回収されなきゃいけないんだという話だ。手許にないが確か『資本主義リアリズム』とかで出てくる話だったと思う。
最強のロックバンドが対面したこのジレンマを無視して見せかけの「ロック」、つまり井芹仁菜の尖りばかりを取り上げて着地させていたら、それこそシャバすぎるアニメになっていただろう。キャラ物にしかならない。だいたい音楽をやる上で商業性やバンドとしての落としどころみたいな話が出てこなかったら本当にバンド物である意味がないし都合が良すぎる。
これは何も第一の問題にだけ言えることではなく、これら伝説的なロックバンドは本当にロックを信じていた。それは何も徹底的な反抗や抵抗といった単純な話に留まるものではない。ロックというのは音楽性であると同時に何よりも姿勢であるが、抵抗という一義的なものではなく、コミュニケーション(心を通わせるもの)とも形容できるものである。なぜロックバンドが他のジャンルに比べ極端に現場を重視しているかというと、それは人と人が音楽を通して心を通わせることにこそ意味があるからである。バンド-ファンという形だけではなく、言うまでもなくバンドメンバーやバンド同士でもある。ガルクラは特に後者だ(ぼざろなんかもそうだろう)。


「川崎」が舞台であること、その肯定

本作の舞台は川崎市である。これについてこれを無視してはガルクラは語れないだろうという意見がそこそこ見られた。ということで語ろう。川崎市という土地にはいくつかの意味が込められているが、ごく簡単に読み取ってみよう。

地方、国籍、家庭などを含め、さまざまなバックグラウンドを抱える人々が匿名の存在として出会える街。商業性、成功、孤独などの象徴である東京から外れた(オルタナティブな)土地。
匿名性という点では1. 名もなきファンとしての井芹仁菜、2. 同じくバンドをしていながらそのことを伝えずモブのままでいるベニショウガ、3. 全く知らないおっさん相手でも怒鳴れる井芹仁菜(地方生まれ地方育ちの俺の実感を込めて書くが田舎じゃこうはいかない)などさまざまな点で表象されている。また、重要なモチーフとして多摩川も挙げられる。上のような特徴のある東京、つまりロックが反抗し、逃れようと試みてきたもの(商業的・抑圧的な資本主義システムをはじめとして)に対するオルタナティブである神奈川の第二という絶妙な立ち位置で、かつそれらを睨みつける場所なのである。これを裏づける描写も多く、仁菜が桃香に連れられてアカペラで歌ったのは多摩川(=その先にある東京)に向かってだし、彼女がギターを練習していたのも多摩川沿いである。多くのシーンで(多義的な)「宣言」と取れるシーンが多摩川沿いで描かれている。

そして重要なことに、13話終盤のシーンでは「私はこの街が大好きです」と仁菜が発言する。それもそこそこ間を取って発された台詞であり、少なくない重要さが読み取れる。面白いのは「川崎、な」という桃香の応答で、当然視聴者も桃香もそれは承知している。それを改めて強調するのは、この土地でロックをする、ということが帯びる意味を再び作品のテーマで引き合いに出すためである。多様な背景、それらの被抑圧の共有、異種相互理解のための/としてのコミュニケーション、そういうものが本作のテーマであるロックと重なって重要であることが読み取れる。ガルクラの舞台設定を考えるとき、何よりこのダイアローグが非常に明瞭なアンサーを発している。

(ついでに言えばよりによって川崎という街でヒップホップではなくロックをやる、というのもロックだ。言うまでもないが。最初舞台が川崎だと聞いたときこれは普通にかっこいいと思った。)


ロックとは結局何なのか

いろいろな感想を見ていて、だから違えんだよ! 現実と折り合いを付けたが心の中ではロックを持ち続けているんだって話じゃねえんだよ勝手に納得しようとすんな!!! となった。何故か。

そもそもここで現実(社会)に対する妥協として見られがちなこれらのこと(事務所関係、ダイダスとの和解、父親との和解、エトセトラ)は妥協ではない。音楽というツールを手にして初めて、どころかライブステージに立って初めて、井芹仁菜は自分より先に音楽のプロとして成功したダイダス=ヒナを理解する。これは紛れもなくロック的コミュニケーションだ。方向性やジャンルが真逆でもお互いのことを音楽を通して(好き嫌いという段階とは別の場所で)理解できる、のである(何なら今日そういう記事を読んだhttps://realsound.jp/2024/06/post-1703778.html)。これがロックというものの上に成立するコミュニケーションでなくて何だというのだろう。同じようにして、父親とのコミュニケーションも音楽を通して初めて仁菜の本心が伝わる形で成立するし、事務所関係でも三浦潮美が彼女たちの退社を、彼女たちの音楽性からどことなく予期していた描写がなされる。このあたりの描写は徹底している。しかも単なるコミュニケーションツールとしてではなく、彼女たちの音楽は徹底した自己表現すなわち自己そのものを、ありのままに伝えるための手段=言語として成立している。

だからガルクラで大事なのは、ロックをやるに際して「生きることの不可避な売春性」を受け入れなかったことだ。そこにこそロックが正しい形で表れている。彼女たちにとって形式や活動やそういうものは露も重要ではなく、何よりも自分に、そしてバンドを組んでからは自分たち、、に誠実に音楽をしている。それによってはじめて自分たちを排除し抑圧してきたものに対するヴォイス/ヴォイシングとエンパワメントが実現している。その歌声を、ギターとベースとドラムとキーボードを響かせることこそがガールズバンドクライの「クライ(咆哮)」であり、トゲナシトゲアリそのものである。
幾度か引用した、そして間違いなくロックンロールについての本でもある『資本主義リアリズム』は、「本当にこの道しかないのか?」と問いかけた。ガールズバンドクライはそういう意味で単純な社会的成熟ではない成長譚であり、主人公が16歳という若さなのもそういう事情が背景にあるといえる。父親との対話だって、これは音楽を通した権威=抑圧=困難の変革である訳で、それはロックが成し遂げようと掲げるものそのものである。これを無視して「ロックではない」と主張することこそ不実であるように思う。


メタクリティークとしてのガルクラ

ちなみにだが、ガルクラについてはこういう論争自体が限りなくしょうもなく、何故しょうもないかというとそれが既に作品に組み込まれているからだ。ここで論点となっている13話の途中にだって出てくる。桃香がコメントを読み上げる際にガルクラの音楽性に対して「俺は好きだ」という風に反応している誰かのツイート(?)が出てくる。このコメントはガールズバンドクライ自身に対する批評を織り込んでいる。

このアニメではそもそもからして(例えばヨルクラなど承認経済をベースとした作品と異なり)「確固たる客観的評価」を狙っていないのだ。何故かといえばトゲナシトゲアリの面子はみんな「ロックが必要」(ルパ)なのであり、それは全員が全員個人的な形で、別の形でそうであるから。元々ベニショウガの二人が新川崎(仮)に参加したのは、信念への共感みたいな部分の他に「もっとちゃんと自分たちがやりたいことで先まで行きたい(表現(あるとすれば、その先で成功)したい)」という風な理由からである。作中で言及されているように、彼女らは何度も事務所から声をかけられている。しかし彼女たちはそこではやりたいことをやりきれず、それによって商業的成功の道を蹴り続けている。合流してトゲトゲに改名したバンドで事務所を退社したのも結局はそういう話で、自分たちと自分たちの考えること、バンドとしてのコミュニケーションの上に出された結論に商業性やビジネス=ライフワーク=フルタイムとしてのロックンロールが合わなかったということだ。でも彼女たちには信じれるものが二つある。それは音楽と、それからバンドメンバーである。これはお互いへの相応に激しいぶつかり合い、衝突、不一致とその先の音楽を介した対話によってはじめて実現した状況である。

いちばん尖っている井芹仁菜についてもこれは同じで、作中でも限りなく明瞭に描かれている通り彼女の本質は単純な「反抗」にあるのではない。もしそう読んだのであればもう一度観返した方が良い。彼女は「納得できない」ことを許せないのである。逆に言えば納得できたことにはとことん執着する訳だが(事務所の退社)──(そしてここが大事な部分だが)最終話が強調していのはまさしくここである。納得できないことに苦しんでいた彼女が、これまで自分を追いつめていると思っていた諸要素の問題の根源に思い至る。13話でいえば「私はヒナと同じ音楽を好きだった」という話だ。ガルクラ1話は結局何だったのかというと、これだ。音楽をすることで見えるもの、掴めるもの、開けるものがある。ガルクラではそれが徹底して主張し続けられた。最も強く表象されたのはトゲトゲのメンバーとの衝突である。


終わりに

私はこの文章を泣きながら書いている。ガールズバンドクライについてこの瞬間この世でいちばん考えているのは間違いなく俺だ。自分語りをします、いいですよねルパさん。アニメにここまで心を動かされた、どころか救われた/居場所を与えられたのはこれが久々、もしかしたら初だからだ。このアニメの影響でベースを始めた。今ではDon't say "lazy"がそこそこ弾けるくらいまでになった。スラップも練習している、今だって親指が痛い。しかし別にこのアニメが私を押したのは音楽という面だけでなく、私が目指している物語による表現の実現という意味でもだ。執筆翻訳エトセトラ。更にもっと言うと私は精神を壊して大学を休学中、今後の未来について押しつぶされそうな不安に襲われながらなんとか生きている。そこでこのアニメが出てきて、陳腐限りないが私は本当に勇気づけられた。彼女たちに指針をもらったのだ。だからこそこのアニメに対する軽薄な批評を見る度に腹が立ってしまう。俺はアニメが好きだし、俺はこのアニメが世界でいちばん大好きだ。むろん批評的にマイナスを与える点も多い。批評を学ぶ人間として見たときにこれより(形式的にformally)優れている作品は山ほどある。でも、そういう客観的な(非主体主観的な)評価とは別に、私はこのアニメがもう本当に大好きだ。どれだけ批判的な意見が多くとも胸を張って言える。言うまでもなくブルーレイを買うし、花田十輝とキャストの方々と東映アニメーションときっとあるはずの二期には本当に大きく期待している。
何にせよ、ありがとうガールズバンドクライ、ありがとうすべての関係者。

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