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井芹仁菜のロックンロールは、『ガルクラ』最終話で鳴り止んだ


タイトル通りだ。

自分がさりげなーく何かを託していた、とあるガールズバンドが打ち立てようとしたロックは、鳴り止んでしまったように思う。



『ガールズバンドクライ』の主人公、井芹仁菜はまさしくロックヒロインだったと言えるだろう。

自分が正しいと思ったことを貫き通した結果、家族にも友人にも裏切られ、ひとり社会からドロップアウトした。


そんなとき彼女は同じように信念を貫き通した結果、「バンド」という(極めて小さいけれど確かな)共同体からドロップアウトした、憧れのロックンローラーと出会う。それが始まりだった。

そこからの彼女(と彼女を取り巻く物語)は目を疑うほどに美しかった。
社会に文字通り中指を突き立てて始まり、次第にそれが「小指」に変わっていく……という過程も極めてアウトサイダー的だ。


要はこの変化には「中指を立てる」という世間に広く周知した挑発・侮辱行為を、自分たちの閉鎖的なコミュニティのみで通用する「小指ジェスチャー」という”スラング”として翻訳するという意義があるように思う。


ジャンル違いで申し訳ないのだが、同じ「社会からのつまはじきもの」の表現として、HIPHOPを参照したい。

このHIPHOPという音楽ジャンルは極めてスラングが多用されるジャンルである。

スラングというのは当然、その狭い共同体から一歩でも外に出たら意味が通じない言語符牒だ。分かりやすく「内輪ネタ」と言い換えても良い。

例えば。今や一般にも膾炙した気がする「B-BOY」という言葉。
これはHIPHOPに欠かせないテクニック、”ブレイクビーツ”を発明した偉大なDJであるKool Hercが発案したスラングだ(諸説あり)

他にも「ill」というスラングは「ヤバい」「病んでる」「狂ってる」という意味を指している。
俺は他の奴らよりもぶっ飛んでいて、カッコいいんだぞ!というセルフボースト(自己讃美)の際によく使われるスラングだ。


スラングの良さは、何を置いてもその「通じなさ」にある
「俺(たち)だけが知っているcoolな言葉遣い」という意識を呼び起こすスラングという符牒は、そのまま社会から弾かれたアウトサイダーたちの特権意識・連帯感を刺激する。


その特権意識を十二分に活用し成功したグループがBuddha Brand
であろう。逆に活用しすぎてコアすぎる存在となったのがTOJIN BATTLE ROYALであろうなぁ。

まぁこの話題は本題と違うので、あまり広げないでおくが。


ともかく何が言いたいかと言えば、トゲナシトゲアリの「小指」ジェスチャーは、アウトサイダーの取る行動として完璧とすら言える強度を持っていると言うことだ。

社会に「中指」という行動自体は確かに反抗的だが、それはどこまで行っても「社会的に反抗的ポーズだとされている」ジェスチャーを猿まねしているに過ぎない。

そんな芸のない模倣はパンクスピリットとは程遠い、そう言わざるを得ない。

(こんなBOTの言葉を引用するのもロックじゃないと思うが、これが一番分かりやすいかなぁと思うので……)


そこでトゲナシトゲアリは、その「中指」という一般的なジェスチャーを「小指」というスラングへ変換した。

社会に反旗を翻すジェスチャーを元にした独自の符牒を創造することで、真に「社会への反抗」を表明したのだ。

この「小指」ジェスチャーの構造的な美しさ、伝わるだろうか。
どうか、身震いするようなこの美しさが伝わっていると良いのだけれど。


確かに暗黒大陸じゃがたらやINUのような、ロックらしいパンク魂や先鋭性をトゲナシトゲアリの楽曲からは感じない。まぁ流石にね。

あれだけ「売れ線vs俺らのやりたい音楽」みたいな図式を強調しといて、実際のところは随分と、売れそうな曲調じゃねーかとは思うし。

『MASS対CORE』みたいなメッセージ掲げておきながら、その実コンテンツ自体が「リアルバンドもの」とかいう「MASS」の極地じゃねーかよ、とも思う。


しかし楽曲やコンテンツに無くとも物語上にあるのだ、ロックが。

この「小指」ジェスチャーは、本当に途轍もなくクールでillなスラングだ。
これがロックでなくて何なんだと問いたい。掛け値なしに最高である。


自分はロックというジャンルに特別詳しい訳ではない。
寧ろ普段親しんでいる音楽と言えば90年代のHIPHOP/日本語ラップで、ロック有識者だなんて口が裂けても言えない。

だが、アウトサイダーたちが始めた音楽ジャンルで「反抗」の象徴を担いがち……という点では両ジャンルは容易に接続する気がする。少なくとも精神性の面では。


しかも『ガルクラ』では「ロック」という言葉は主に「反抗」や「衝動」という意味で用いられていた。それならばHIPHOPから考えを持ってきて読み解いてみるのも、あながち的外れじゃない気がしている。


とまぁここまでは『ガルクラ』の鮮やかな「小指」ジェスチャーを褒めちぎってきた。
画面の演出についても絶賛したいことが沢山あるのだけれど、それはまぁまたの機会に回すとしよう。


問題は最終話……いや、結末に至るまでの流れだ。

主人公であるニーナは”裏切られた”と感じていた家族(父)や親友と次々和解し、抱いていた自分の怒りが「勘ぐりすぎ」な早とちりだったと知る。

立て続けの和解によって、ニーナの「せからしかー!」という怒りをぶつける先はどんどん萎んでいく。
終いにはライバルバンド・ダイダスに対バンの売り上げで完敗したというのに、ライブ終わり笑顔なんか浮かべちゃったりして。なんなんだ


極めつけはすばるちゃんのダブル「小指」である。

もうこれまで積み上げてきた美しさを破壊するのは身体に堪えるから勘弁して欲しい。
お前らにとって、それは大事なものじゃなかったのか?

世界に対して「NO」を突きつけるその高潔なまでのスラングを、まるで意味や文脈を通さないままに自分たちのアイコンの如く用いる。

絶対に負けたくなかったはずなのに、負けてなお笑顔で小指を立てる。このグロテスクさ!

負けたのならもっと死ぬ気で小指を立てろよ、と言いたい。お前ら…少なくともニーナ…はもっと世界への殺意に溢れてたんじゃないのか!?


家族も、学校も、バンドすら、自分の居場所じゃない(かもしれない)。
そういう爪弾き者の悲哀と怒りを描いていたアニメだったはずだ。
終わってみたら、なんなんだコレは?

「家族とはどこまでいっても理解し合える」「学校の友達はなんだかんだあってもズッ友だ」なんて言いたげな、どこにでもあるような家族/学校賛歌。

父親がなんかいい人オーラを出してきたときも、元親友のダイダス現ボーカルが、安易な百合の構図に落とし込めそうな安っぽい「ケンカップル」オーラを出してきても……

俺はずっとニーナを信じてたよ。ニーナならやってくれると。あー、急に仁菜ヒナとか言ってる人はまぁ…勝手に脳でも破壊されててください。


具体的にどう信じてたかって、ニーナは「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」と信じてたのだ。ECDよろしく。

ニーナはそんな旧来のつまらない「素朴な人間関係」信仰みたいなものを、ぶち壊してくれるんじゃないかって思っていた。

お前らのつまらない道徳から来る「元鞘に戻れ」という圧力には、ニーナは絶対に屈しない。


「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は、人と関係を絶とうとする言葉だ。
もちろん、建設的な社会のためには、話し合いを持つことが大事。

そんな当然のことは分かっているし、普段も自分は積極的にそうしている。

でも、創作の中のヒーローはそうしない事を選択してくれるのではないか。
敢えて自分の為に不和を選択する、そんなかっこよさを望むことは、悪いことなのだろうか?


「言うこと聞くよな奴らじゃないぞ」は、そのまま少数派へのエールでもあると僕は解釈している。俺たちは”こんなもの”に屈しないぞ、というスローガンだ。

僕自身は決して家族と仲が悪いとか、ものすごく不幸な人生というわけではない。

むしろこうして休日には休み、アニメについての文章なんて言う酔狂なものが書ける……そんな自由を謳歌しているんだから、恵まれた側の人間だ。


しかしそうじゃないからといって、自分を「少数派」だと感じる疎外感を感じてこなかったわけではない。

だからアニメに救われることがあるのだ。
だから音楽が刺さる瞬間があるのだ。


そんな自分にとって、ニーナはある種「このまま走り抜けてくれたらヒーローになってくれそうだ」と注目して眺めている存在だった。

決して皆ほど熱く本作についてツイートしていたわけではないが、心は真っ赤に燃えていた。ニーナやったれ!!!と。

終わり方が特に重要な作品だろうなと思っていたから、このままなんとか最後までロックンローラーとして駆け抜けてくれないだろうかと。


そんな希望を託していたもんだから、父親と和解した瞬間も「俺はコレ、何を見せられてるのかしら?」という気持ちになった。
最終話なんて、もう祈るような気持ちで観ていたが、その祈りも届かず。

こういったツイートをなさっているTLの方もいた。凄い。まさにこれは的を射ているというか、この最終話が『ガルクラ』という作品の「ロック幻想」みたいなものにトドメを刺してしまったよなぁ……と素直に感じる。

俺らオタクはただ最初から、ゆっくりとロックンローラーが死んで真人間になっていくのを眺めているだけだったのだ。




俺はなんて無責任なんだろうか、と思う。

自分が何か大きな不幸を抱えているわけでもないのに、勝手にキャラクターによく分からないものを託して、勝手にガッカリして、勝手にこんな文章を書いている。

結局、じゃあ俺が何か行動を起こせよという話なんだ。こういう御託だけ吐いて何もしない、自分のようなオタクが一番たちが悪い。


何にせよ「現場」に行けという話なのだ。自分を取り巻く嫌なものを、正々堂々やっつけろ。

たぶんニーナもエゴサでこんな記事見つけたら、「私はオタクの偶像じゃない!オタクの理想に閉じ込めないでください!」と言うだろう。うん、至極正論だ。

大体、大して不幸でない俺が一丁前に「救われ仕草」をするなという話だからね。そう言われると本当に返しようがない。のだけれども…


でもね、そう言われるのが分かっていてもね、やっぱりこうやって、文章を書いてしまうんだな。それしか出来ず。


どうにかするしかない、どうにかするしかない、どうにか……




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