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雑記(シティーハンター、ID)

私は本当に自分の表情というものを持っているのだろうかと時々思う。
表情はボディランゲージの一つで、これを伝えたいという意図で作っているところもたくさんあるからだ。

人に会うのが疎かになると、親しい人だったのに次に会う時には心の近さがリセットされてしまうことがある。そういう時に私はずっと微笑んでいる。これは私自身の表情なのだろうか?

昨夜は夜更かしをして「シティーハンター」をNetflixでようやく観た。原作に私はまったく触れたことがない。この作品が盛り上がっていた頃はたぶん私は小学生で、セクシーな表現に耐えられない年頃だった。

原作を知らないからどれだけ本作が原作に忠実かわからない。わからないけれど、登場人物の表情の切り替わりには見応えがあった。おそらく体の使い方や顔の作り方を、役者さんたちは可能な限り二次元表現に寄せているのだろう。

それはそれで見応えがあり、これに惹きつけられるのはとても日本人的だなということも思った。アニメな感情表現ができたらどれほど爽快だろうと、誰もがどこかで思ったことがあるのかもしれない。シリアスな時はシリアスに、ふざける時には突き抜けた明るさで、表情を変えられたらどれだけ気持ちの良いことか。しかしそれを不自然なものでないと受け止めてくれる相手が必要なのは言うまでもない。だから私たちは、それをしない。

小津安二郎の表情演出は見事に日本人の心の中のリアルを映し出したのだが、だからこそ一方ではアニメに振り切るような文化が日本には生まれた。きっとそうだと思う。どちらも本当の心の中を写し出す表情としては奇妙に見えてしまうのも興味をそそられる。

さてこんなことを書いている私の表情は動いていないが、これは私自身に近い表情だと思っている。ものを考え書いている人の表情は、きっと全世界の誰しも能面に近いのだろう。

最近、リハビリという気持ちでこのnoteに雑記を書いている。作品、という形でまとめるまで何もアウトプットしないでいると、一生書かない人になってしまいそうな予感がある。だが日記的なものは、このアカウントにとってはノイズであることも重々承知だ。そろそろもう一つの場所に分けなければならない。

数日前、ASKAの「ID」という曲を聴いていた。この曲は不思議な聴後感…という言葉があったらいいなといつも思う…読後感のように聴いた後に引っ張る感覚を表現する言葉があればとてもいい。それはともかく元に戻ると、「ID」には他のASKA作品にあまり見られない不思議な聴後感がある。

その原因は、最後の歌詞に曲全体のどこにも見当たらない言葉を使っているというところにある。「馴染めないまま川を渡る僕の背中を不思議な顔で朝に帰した」という、「僕」をどこにも居場所のない空間へ放り出してしまうような終わり方をするのだ。

よく考えると大概の曲の締め部分に使われている言葉はどこかのリフレインだ。どんなに奇抜なことを歌っても、リフレインをされる言葉には安堵感がある。しかしこの「ID」という曲には安堵感がなく、サビの同じメロディが3度繰り返されるがそのどれもが違った言葉、違ったイメージで締められる。3度も聴いてるものは不安な場所に放り出される。

個人的には一度めのサビ終わりで使われる「時間ばかりが女の肩を滑り落ちた肌着のように乱れ進んでる」というフレーズがASKAの歌詞全体の中でも珠玉と思っている。前出の「馴染めないまま〜」というフレーズと同じようなテンポ、文字数でまとまっているのも創作の尊さを感じて気持ちが良い。これらのフレーズを生み出し書きつけていた時のASKAはどんな表情をしていたのだろうか。

なぜ「ID」の終わり方を持ち出したのかというと、そのようにこの日記を終わらせたいと思ったからだ。よくわからなかったけど何かドロドロしたものを抜け出せたな、という気持ちを生むように結んでみたかったけど、それは思うにあまりうまくいってない。もう少し洗練された終わり方を手に入れたいというのは、常に思うところ。

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