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書くという行為は、心のバロメーターである。

文章を書くことには、頭を整理し内省もできるという、とっても優れた効力がある。
そう、これができるので私は昔から文章を書くのが好きだ。

noteを始めてもうすぐ一年が経つが、書くという行為にはさらに大事な役割があったことに、私はこの一年で気づくことができた。
今回はそれについて書きたいと思う。


私が気づいた大きな効力、それは「文章を書く行為そのものが、自分の状態を知るバロメーターになり得る」ということだ。

人には、気分が上がる時と落ち込む時がある。
そして人の生活は、気分が「上がっている」時をベースに組み立てられている。

だから人は、落ち込んだ時に苦しむ。
調子がいい時に計画していたような生産性が上がらないし、まるで宿題を溜めてしまった子供のように、目の前に達成できないことが山積みになってしまう。

これがたった一度ならいい。
それならちょっと頑張れば、すぐに挽回の目処も立つ。
だが、ことはそんなに都合よく運んでくれない。

本当に深い落ち込み、というのは、始まった時から何度も突然にやってくる。
それに足を取られた人がはまるのは「予期不安」、つまり「またこれが突然きちゃったらどうしよう」という不安に苦しんでしまうのだ。


なんでこんなことを書くのかというと、今年の前半、私が実際に経験してしまったことだからだ。

生まれて初めての感覚に、とにかく驚き、もがいた。
軽く落ち込むことなら私も星の数ほど経験してきたが、深く落ち込む、というのはかなり厄介なものだった。
体が動かず、日々の動作に手が付かない。
加えて脳も動かない。
私だけ重力の違う世界に放り込まれたのか?
ただ寝てしまえば楽なのだろうが心は反対に焦り、空ぶかしのエンジンのように猛烈に回ってしまう。
なんだか自分がバラバラになってしまうようで、ただただ「怖さ」だけがある。

この「怖さ」が、原因があってやってくるならまだいい。
だがほとんどの人の場合は、原因なしで突然、ということが多いだろう。
もしくは原因が「考えられぬほど」脳が回らない。

だから「予期不安」というものが生まれる。
「明日の朝起きられなかったらどうしよう」という強い不安で、さらに悪いループに落ち込んでしまうのだ。
いやほんと、辛かった、今だから言えるけど。


ところで私がnoteを書き始めたのは、今年の1月。
お題は芸術の分析、といえばカッコいいが、ちゃんと言えば「R30すぎるASKAの歌詞世界」という、お気楽なものである。

毎回の記事量は4000字を超える程度。
これを毎日書くガッツはないので、自分の中に「ASKAな瞬間」が高まった時だけ書く。
ちょっとやばい人みたいだから噛み砕いて言うと、「ASKAはこんな気持ちで詞を書いたのだろう」という見立てに日々の実感がシンクロした時に、書くようにしているのだ。

これを始めてからしばらく経って、私は妙な感覚に気づいた。
「自分の中のASKA」が起動しない日々というのが、確実に一定期間ある。
心があまり感動してくれない日々、というのがどうやら定期的にやってくるのだ。

いや、そんな定期便、望んでないんですけど。
曲を聴いても、それまでスポンジのように吸収し別の事象とつなげてくれていた脳みそが、石のように凝り固まり、曲も詞もただの音としてしか耳に入ってこない。
もしかしたら、書けていた時に深くのめり込みすぎた反動で、単純な「飽き」という感覚麻痺が生じているのかもしれない。

記事は日記ではないので、感動が伴わなければ全く味気ないものになってしまう。
言葉に心を乗せて、とよく言うが、この心がミニミニサイズの時には言葉なんかちっとも生まれない。
これが記事を書き続けることで、だんだんとわかってきた。

書けないと焦る、ということもあろうが、私の場合にはなんとそれがない。
そもそもノルマ化していないお気楽なnote。
書けなければ、その分空いた時間(創造しない時間)で集めた資料を読み込んだり(インプット)、いつのまにか散らかってしまった部屋を片付けたり(整理整頓)、という別のことに集中できる。

おお、もしかすると、書けない時間も必要なんだな…
いつからか、そんな風に思えてきた。


お察しのとおり、私の「書けない時間」とは「深く落ち込んだ時」とよく似ている。
全く予測のつかないタイミングでやってくる落ち込みは、確かに迷惑だ。
だが「書けない時間」も自分にとって意味あるな、と思えてきた頃から、私の中から深い落ち込みが消え始めた。
不調との付き合い方、というのがわかったからかな。
ここ最近では全く起こらない。
とても不思議なことだと思う。


患者は治りたがらない」という言葉を、どこかの精神科医の話で聞いたことがある。
「治して欲しい」と医者の元に来ているのに、本人も無自覚なほどに深い心の奥底では、「治りたくない」という気持ちがあるというのだ。
それは、自分が消えてしまうような怖れなのだろうか。
否定されるようなものなのだろうか。
落ち込んでしまった自分が伝えようとしていることだって、きっとある。
だから本人は、そこを守りたがっている。
治りたいけど治りたくないのだ。

「書けない」状態と親しくなる、という姿勢ができてから、私の「また深く落ち込んだらどうしよう」という怖れは薄くなった。
どうしよう、がその根源だったのだ。
深く落ち込んだって、その時できることをやればいい(たとえ寝るだけでも)。
それがなければ、次に浮き上がった時が嘘になってしまうよね。
そんな風に、いつのまにか心が整理してくれたのだろう。

スローなペースだけど、またこの次の一年も、私はnoteを書いていくつもりだ。
なぜなら書くという行為自体が、もはや私の心の状態を知るバロメーターになっていて、動けないなら休もう、そしてまた歩こう、と背中を支えてくれる存在になっているのだから。

まあ色々この一年あったけど、今日は、こんなに元気です、という話でした。

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