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【二次創作】ホームズとワトソン【映画シャーロック・ホームズ】

(2010年9月11日、同人誌より再掲)

合理的な関係


 ああ、いい香りだ。こんな朝早くからコーヒーの香りがするとは。
 ホームズは半分眠った頭で考える。同居人が階下の大家に朝食を頼んだのだろう。一人ぶんということはないだろうから、その朝食が運ばれるのはこのリビングだ。とするとその前にワトソンが起こしにくる。彼は昨日、夜までかかった往診で疲れていて、いつもより早く寝室に引き上げた。彼の睡眠時間から考えると、今ごろはもう身支度を終えているころにちがいない……。
 果たして、ドアが乱暴にノックされてすぐに開いた。そしてため息混じりの声。
「きみはまた、こんなところで寝たのか」
 暖炉の前の虎皮をベッド代わりに、ホームズは思索に耽りながら眠りに落ちた。昨日の日付が変わるあたりのことだ。この暖かい場所から離れて、冷たいベッドを一から暖めなおすことのなんと非効率的なことか。むだを嫌う探偵は、当然の選択として暖炉前を寝床にする夜も少なくない。しかし彼をはじめとする一般的な人々にとって、そこは「床の上」である。
「とにかく、さっさと起きるんだ」
「……………」
 返事はせず、目を閉じたまま、ホームズはワトソンの靴底が床を叩くのを聞いていた。家の中だから杖はない。今日の足取りからすると、ひざの調子はかなりいいのだろう。では本日のロンドンはめずらしく晴れなのだ。
 友人の歩き方から今日の天気を推測した名探偵だが、その推理を披露する機会はなかった。
「医者に寝たふりが通用すると思っているのか?」
 苛立った声とともに、分厚いカーテンが無情にも音を立てて開かれる。部屋に射し込む陽光はやわらかかったが、闇の中にいた者にとっては凶器に近い。
 それでもまだ寝ていたいとラグや毛布のあいだに潜り込んでいくホームズを、ワトソンは冷淡に見下ろす。
「電報には今日の十時に来るとあったじゃないか。その格好で依頼人を迎えて評判を落とす気か?」
 ホームズの目の高さにある靴には一点の汚れもなく、服もきちんとブラシとアイロンをかけてある。顔を上げずともベストまでしっかりと着込んでいることは想像がつく。
 今日の彼に診察や往診の予定はないから、この身支度はホームズの客のためだろう。当然の礼儀ともいえるが、しばらく事件らしい事件がなかったことも大きいはずだ。彼もホームズ並みかそれ以上に、次の冒険を心待ちにしているにちがいない。その証拠に彼はカーテンを開ける前、机の引き出しを開けて銃に弾がこめられているのを手早く確かめていた。
 となれば、彼を驚かせ楽しませるためにも、まずは客人から「奇怪な」事件の詳細を聞き出さなければ。
 ホームズはようやく起きる理由を見つけ、心地よい巣からのそのそ這い出した。
「おはよう、ワトソン……」
「ああおはよう、さっさと起きて顔を洗ってくるんだ。もうすぐハドソンさんが朝ごはんを持ってきてくれる」
「それは、すばらしい」
 もっとすばらしいのは、この微睡みの時間を奪われないことだ……と寝ぼけた頭で主張しかけたが、ワトソンの青い瞳とその色に負けないほどクールな視線には敵わない。毛皮にくるまれた天国から寒々しい地上へと降り立った薄汚いガウンの男は、おとなしく自分の部屋へと向かった。
 顔を洗い、ベッドの上に放り投げてあったシャツを適当につかんで袖を通す。
 手が出ない袖の長さに、それがワトソンのシャツであることに気づくが、だからといってこのシャツを着ない理由にはならない。ホームズは同居人のファッションセンスと安物を身につけないプライドを信用していたから、自分自身の服よりもワトソンの服を好んで着ていた。彼の機嫌が悪いときには咎められることもなくはないけれど、自分で買う面倒を思えば大したことではない。多少のサイズ違いは気にしなければいいだけだ。大は小を兼ねるという考えもある。むしろ、なぜワトソンが文句を言うのかがわからない。
 ホームズはすばらしく自分勝手な「合理的思考」によって、今日も長い袖をまくり上げる。
 もたもたと支度をしているあいだに、朝食の用意はできていた。ハドソン夫人と顔を合わせなかったのは幸運というべきだろう。彼女はとても親切だが、ときにホームズを追い出したがっているようなそぶりも見せる。自分の自堕落な生活を省みない男は、下宿の大家がたまにちらつかせる苛立ちを不条理に感じていた。
 そして、あまり頻度は高くないものの「いつもどおりの」朝食が始まる。
 しかし探偵の手は今ひとつまじめに動いていない。起き抜けということもあるし、満腹は鋭敏な思考を奪うと考えているホームズにとって、朝食というのはそれほど楽しいものでもなく、食が進むこともめったにない。
 のろのろとフォークを動かしているホームズを見やり、ワトソンは自分の口元を指先で軽く叩いて注意した。
「ホームズ、ジャムがついてる」
「知ってる」
 さっきスコーンをかじったときについた。そんなことはわかっている。しかし食事ははじまったばかりで、またジャムやクリームがつくかもしれない。どちらにしても食後にまとめて拭けばいい。
 しかしワトソンはそうは思わなかった。
「どうしてそうものぐさなんだ……」
 彼はナイフを置いてナプキンを取り、その手を伸ばしてくる。ホームズが顔を背けるよりも先に、白い布が乱暴に口角の横をこすっていった。
「……ずいぶんとお節介だな」
「きみが自分のことに無頓着すぎるんだ」
 どこか勝ち誇った顔のワトソンがテーブルにナプキンを放り出すのを眺めながら、ホームズはわざとジャムがつくようにスコーンにかじりついてやった。彼に合理性というものを知らしめてやる必要がある。
 果たしてワトソンはホームズの意図に気づいたらしく、ぎろりと冷たい目で睨みつけた。それでも屈する気はないらしい。負けず嫌いの彼は再び手を伸ばし、今度は指先でそのジャムを拭う。
 まったく、どんな論理も意地っぱりには敵わない。ホームズは半ば呆れて、ジャムがついた彼の指先を舐めた。ワトソンもあきらめているのか目を細めただけでなにも言わない。
「この食事中に何度こんなことをくり返す気だ、ワトソン?」
「きみが礼儀作法を覚えるまでだよ」
「それは気の長い話だ……おや、ハドソンさん、どうしたんだい?」
 その言葉に、ワトソンはあわてて手を引っ込めふり返る。ハドソン夫人が幽霊でも見たかのような顔でドアの前に立ちつくしていた。
「おはようばあや。とても美味しいよ。卵がもう少し柔らかければ完璧だ」
 ホームズの嫌味に切り返すのも忘れているようだ。この自分が朝に起きて並みの紳士のように朝食をとっていることが、そんなにめずらしいのだろうか。
「……よろしいでしょうか、ホームズさん」
「いいよ、朝ごはんのあとではいけない重要な用事なんだろう?」
 皮肉のこもった返事に肩をすくめて、ハドソン夫人はちらりと背後を見る。
「ハンターさまがいらしたらお通ししてもよろしいと、承っておりましたから……」
 ワトソンが暖炉の上の置き時計に目を走らせて、小さく呻いた。針は九時半前で止まっている。そういえば昨日の夜には止まっていたな、とホームズは他人事のように考える。事実を認識することと、それに対して適切な行動を起こすことは必ずしもセットではない。
「そうだったね、お通しして」
 今度こそナプキンをとって口元を拭うホームズの横で、ワトソンも気まずそうに残りのコーヒーを飲み干した。
 ハドソン夫人に会釈した女性は、雑然とした室内の様子に戸惑いながらも、しっかりした足どりで部屋に入ってきた。とくに取り乱したところもなく、急いでいる様子もなく、命や財産に関わる事態ではないらしい。
「わたくし、少し早かったかしら」
 そそくさと立ち上がって彼女を迎えたのはワトソンだった。
「いいえ時間どおりですよ、ハンターさん。約束を守られるすばらしい方だ」
 目の前に現れた美男子に、彼女はわずかに目を見開く。端正な顔に見とれているのだというのは推理するまでもない。ワトソンの女性受けする容姿は、ホームズにとって都合がいい場合が多かった。
 彼女がワトソンに気を取られているあいだに、後ろから彼女を観察する。特徴的な栗色の髪、愛らしいそばかす、質素だがみすぼらしくはない服装。教養を感じさせる身のこなしに、しかしおっとりしたところは少しもなく、見るからに自立した独身女性。彼女こそ、電報をよこしたヴァイオレット・ハンター本人にちがいない。
 ワトソンに勧められてソファに腰を下ろした彼女は、手袋を外すのもそこそこに勢い込んで身を乗り出した。
「それでホームズさん、わたくし……」
「失礼、ホームズは彼です」
 ワトソンが気まずそうにこちらを目で示す。一服しようとタバコ入れを手にマッチを探していたホームズは、少しだけ背を伸ばして口元だけで微笑んでみせた。
 身だしなみに一部の隙もない、立ち姿も涼やかな紳士と、お仕着せのような服の上にぼろぼろのガウンを羽織って、椅子に身を沈めたままの小男。対照的な二人を素早く見比べ、彼女はきまり悪そうに肩をすくめる。
「あら、すみません……そちらのイニシャルが見えたものですから、てっきり……」
「あ……」
 ワトソンがあわててホームズの手から「J・W」のイニシャルが入っているタバコ入れを奪った。
「いえ、これはここに置いてあっただけで……ホームズ!」
 睨みつけてくるワトソンから目をそらし、立ち上がったホームズは彼女に愛想笑いではなく心からの笑顔を向ける。
「すばらしい観察眼だ、探偵になれますよ。惜しむらくは、男同士の遠慮を必要としない同居生活についての知見が不足しているという点で……」
「そうじゃない、ここは非礼を詫びるところだ!」
「ああ、ごめんワトソン」
「そうじゃない……いや、それもだが、まずレディをきちんと出迎えるという姿勢がなってないぞ!」
「それはきみの担当だろう」
「いつからだ! だいたいきみはいつも……」
 それこそ客人の前だということをワトソンが忘れかけたとき、ハドソン夫人がお茶を持って入ってきた。ついでに朝食の皿を片づけながら、彼女はなにもかもあきらめきった表情で下宿人たちを一瞥する。
「お二人とも、いちゃつくのはそれくらいにして、お話を聞いてさしあげたらいかがですか?」
 その言葉に眉をつり上げたのは、誇り高き英国紳士のワトソンだった。つまりワトソンだけだった。
「いちゃ……だれがですか!」
「冗談ですよ、ドクター」
 ワトソンの短気にも慣れている大家の返事もぞんざいだ。ホームズはくすくす笑いながらティーカップに口をつける。
「ハドソンさん、何度言ったらわかるんだい。ワトソンは我々の崇高な友情を茶化されることを非常に嫌うんだよ」
「きみとの友情が崇高なものだったとは初耳だ」
 すかさずの反論も予想のうち。ホームズは美しい依頼人に片目をつぶってみせた。
「彼はとてもシャイなんです」
「まあ……」
 口を挟むこともできずにただ目の前のやり取りをながめていた彼女だったが、噂の名探偵が思っていたよりも気さくだったことに安心したのだろうか。口元を押さえて小さく笑い出した。
「あなた方の関係って、とても奇妙でいらっしゃいますのね。仲がよろしいのは羨ましいのですけれど。なんだか不可解ですわ」
「いや……」
 初対面のレディにそんなことを言われ、ワトソンもどう切り返していいかわからないらしい。結局、だれのせいだと詰らんばかりの目つきで友人を睨みつける。
「とても合理的な関係だと私は思っていますよ」
 ワトソンの視線を無視してホームズはそう答え、悠然とパイプをくわえた。
「でも今は、我々よりあなたのことをお聞きしましょう。……新しい家庭教師の仕事についてでしたね?」
 視界の端に相棒が仏頂面でソファに腰を下ろすのを捉えながら、ホームズは確信していた。ひとつの事件に向き合うとき、傍らにはいつも彼がいる。能力の異なる二人が一丸となって困難に立ち向かう、これほど合理的な関係があるだろうか。
 聡明なヴァイオレット嬢もいずれ理解するだろう。この絆が不可解などではない、とても単純で正しいかたちであるということを。
 まったく身勝手にそう結論づけて微笑む名探偵の横顔を、「合理的な」相棒が無言で見つめていた。

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