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人の物語になりたくないという話―『MIU404 最終回』より ※ネタバレ有

昨年から今年の初めにかけて、はてなブログで愛する人や作品について書いてきた。
『好きなものは、自分で決めるので』
いろいろ思うところがあり、コロナ禍で書くのを辞めてしまっていたけれど、今回からnoteで再開したいと思う。

また書きたいなと思い始めたのは、シンプルに書きたくてしょうがない作品に出会ったからだ。
私含め、SNSなどで多くの人が熱い感想を寄せている今期ドラマ『MIU404』(TBS系列/2020年)(脚本:野木亜紀子さん)である。
簡単なあらすじは以下のとおり。(Wikipediaより)

警察内部において「何でも屋」と揶揄されながらも、犯人逮捕にすべてを懸ける初動捜査のプロフェッショナルである機動捜査隊(機捜)が24時間というタイムリミットの中で事件解決を目指すさまを1話完結で描いていく『ノンストップ「機捜」エンターテインメント』作品。

志摩(星野源さん)と伊吹(綾野剛さん)がバディを組み、その二人を主人公として様々な事件が描かれていくが、感情が大きく揺さぶられ続け、見るのに気力と体力を使うような話が多かった。ここまでドラマに入り込んで見たのは、本当に久しぶりだった。
私は、自分の想像を超えるものを見せてくれる作品を敬愛する性質であるが、MIU404はまさにそのような作品で、毎週全話の感想を書いておけば良かったなと今更ながら思っている。
(DVD-BOXが出るようなので、買いたい欲が溢れてます…!)

今回書きたいのは、最終回について。
事件の加害者として追われ、逮捕された久住(菅田将暉さん)が放った台詞に度肝を抜かれ、いろいろと考えたことを吐き出したくなった。

志摩と伊吹、そして視聴者である私たちは、久住について何も知らないままドラマは終わる。
久住という苗字は偽名であり、なぜ事件を起こしただけではなく、どこで生まれ、どのように育ったかなども一切語られることはない。
そのような自分に関する質問を志摩と伊吹にされた時、久住は両手で顔をおさえながら、次のように言うのだ。
「俺は、お前たちの物語にはならない」

ドラマのような物語、しかも動機を重視することが一般的な刑事ドラマにおいて、物語を語らないということが斬新であり、そのことで久住がどういう人物であるかが、突き刺さるように届いてきたことに対して、とにかく感動した。

実は久住の生い立ちについては、上記の通り明示はされていないが、震災の被害者なのでは?と思わせる描写がいくつか存在する。
それによって、私の中では「震災によってすべてを無くし、震災被害者というステレオタイプによる様々な扱いに傷つけられたのでは」「自分の行いと震災による心の傷が結びついてると思われたくないのでは、そういう形での同情をされたくないのでは」などと、頭の中で物語を展開させた。

私は、初めこそ「物語の裏を読みとれた」と少し得意げに思っていたが、志摩が以前話していた言葉を思い出して、恥ずかしくなった。
志摩は「点と点を無理やり線にすることの恐ろしさ」について話していた。
その時は情報に関する話をしていたのだが、点と点を勝手に線にされることは、つまり一部分だけを見て「あなたってこういう人だよね、こう思ってるんだよね」と決めつけられることと同じじゃないかと思ったのだ。
私が一番してほしくないことを、無意識にしてしまった。しかも、あるかどうかさえわからないものを勝手に点として捉えたうえで。

そもそも人の行動や感情において、必ず結びつく点と点なんて無いのではと思う。自分のことでさえ、あの時のあれが今のこれに結びついてるんじゃないかと自分の中で予想しているだけである。
点が真実であってもなくても、人の心の中をわかった気になるための道具として使ってはいけない。
一歩譲って線を想像してしまうの止められないとしても、それを真実かのように語ってはいけない。
人を物語化するのはよくない、ということを衝撃とともに承知した最終話だった。

思えば脚本家の野木さんは、『MIU404』をはじめとした様々なドラマの中で、この「点と点を線にして物語にする」というわかりやすさに対抗してくれている。
野木さんは、わかりやすさという雑な加工によって傷つけてくる作品を絶対に創らないと信頼できる、大好きな脚本家さんである。
これからも創ってくださるであろうたくさんの作品を今後も楽しみに待ちたい。『MIU404』本当に最高でした。ありがとうございました。

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