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笑ったけれど、痛いと言えばよかった

 よく愛想笑いをする。
 あまり争いごとが得意ではないからだ。

 自分が中学生の時は、別に争いごとが苦手ではなかった。
 自分なりの正義があったし、おかしいと思えば主張していたし、自分が傷つくことにおかまいなく、相手が傷つくことに鈍感だった。
 ただ、自分の主張というものが必ずしも「正しい」ことではなく、他人と円滑に人間関係を結ぶのが「大人になること」と思い始めた16歳の頃から、私は嫌なことをされても「やめてよー」と愛想笑いすることを選んだ。

 別にこれが間違いというわけではないだろう。
 何が何でも自分の意見を通さなくてもいいと思うし、必要以上に傷つきたくないならその場を流すことが最適解のような気がする。

 しかし副作用があった。
 やはり世の中「なんにでも効く万能薬」なんてものはないのだ。

 自分を嫌いになるのである。

 世の中、色々な地獄があるだろう。
 友人を嫌いではないが羨んでしまって会えない地獄。
 会社で部下とコミュニケーションがすれ違う地獄。
 朝の満員電車の地獄。
 生理痛が辛いと言っているのにわかられない地獄。

 と、地獄を書き出すと延々と「こんな地獄辛いよね」ブログになってしまうのでいったんここでやめておく。むしろ書いていて、自分の世界は地獄なんじゃないのか?と思ってしまったより暗くなってしまった。
 何事も紙に書き出して文字にしてみると頭の中で考えているときよりダメージを受けてしまうことがある。

 その数多の地獄の中で、私がこの地獄はつらいなと思う一つが「自分を嫌いになること」である。
 いや、別に私は私を好きではない。
 「まあ、こんなもんだしな」と徐々に思えてきた。もう一度言うが、自分を好きではない。自分のことをゴキブリだと思わないけれど、小さなクモくらいに思えてきたのだ。
 家でゴキブリが出たら悲鳴を上げる。殺すしかないとなる。
 それが毎日ずっと一緒にいるのだ。
 鏡を見たらゴキブリ、そんなの地獄である。
 しかし、家の中で見る小さなクモは私の中では比較的平気だ。きっと別の虫を食ってくれる益虫だし、と思って見逃すことが出来るのだ。
 それくらいに、自分のことを思えてきた。

 無理に自分を好きになろうとしなくてよいと思う。
 「もっと自分を好きに」「なりたい自分に」「自己肯定感をあげていこう」と、雑誌のキャッチコピーやら自己啓発本でよく目にするが、そんなに頑張っても自分を好きになれなかった地獄編に突入しそうである。もしくはリバウンドのように、急激に自分のことを嫌いになりそうだ。

 だから、その天国とやらにまで行かなくては良いけれど、プラスでもマイナスでもない状態であればいい。

 微笑むこと、笑うことは脳にいいらしい。エンドルフィンの分泌とか言っていた気がする。
 しかし、意にそぐわないところで愛想笑いしてしまうと、自分のことを必要以上に卑下したりしてしまう。

 どの人にも自分の主張を言えばいいというわけではない。
 あまりコミュニケーションがうまくいかない人は、どちらの方が傷つくかを判断して愛想笑いすればよいと思う。というか、私はする。絹ごし豆腐メンタルなので、誹謗中傷されたりしたくない。それで怒るのも面倒というより、その傷ついた自分を考えるとぞっとする。

 ただ、親しい友人や家族くらいには言ってもいいのではないかなと思った次第である。

 今、笑って過ごせるけれど、そんなことはないと怒り出すのではなく、それを言われると、そういう行動をされると「痛い」のだ、と。
 流石に死体に足蹴りするような所業は自分の親しい人はしないだろう。
 もしされたのなら、自分が一方的に親しいと思っていて親しくないか、人の痛みなんて何もわからないサイコパス野郎なので距離を置くことをおすすめする。

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