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【掌編】ボタン

妻が出て行ったため、独り洗濯物を干している。

洗濯かごの分量も少なく、私一人分。物干し竿に取り付けたピンチに、下着や靴下、ハンカチを吊るしていく。ピンチ全体の重心が傾かぬよう、満遍なく配置しなくてはならず、下着を干すにもかようにコツを要するものか、と感心する。

「今更?」
妻がいたなら、そう罵られてしまいそうだ。
いかに家のことを任せきりだったか、窺い知れるというものだろう。今後はこれも私のタスクとなる。逐一、感心してなどいられない。

続いて、シャツ類へ。皺を伸ばし、裾からハンガーを通して、物干し竿へ。これは簡単だ。
肌着、Tシャツと順調に済ませ、チェックのシャツを吊り下げたところで、ふと気づく。

このシャツ、型崩れしないようボタンを全て留めて洗いにかけたものの、いざ干すとなると、そのままでは乾きがよくないかも知れない。せめて袖口のボタンぐらいは、外して空気の通りをよくしておくべきでは。

そう思い、ボタンに手を掛ける。しかし、なかなか外れない。水気を含んだ布が膨れ上がり、ホールの穴を狭めている。また、摩擦係数も高く、力を込める度にぎちぎちと音がする。

指先が痛くなるほど試行錯誤を繰り返し、ひとつ息を吐く。再試行。袖口に軽く折り目をつけたり、力を入れる角度を調節したりするが、どうもうまく行かない。力任せに思い切り、という手もあるが、きっと糸が千切れてしまうだろう。
少しずつ、丁寧に、ホールからボタンを押し出すしかない。

ぎちぎち。

親指の腹に意識を集中し、適切な力を込める。

ぎちぎちぎち。

ふと、妻の顔を思い浮かべる。きっと今頃、険しい表情をしているに違いない。その苦労は並じゃないはずだし、これからもしばらくそれは続くだろう。
対する私が、ボタンひとつ、取り外せないではいられない。

ぎちぎち。ぎち。ぎ。

ずるり。

指先の抵抗が突如弱まり、ささやかな解放感が身体を走った。
ホールから抜け出たボタンは、さもそれが元の姿であったかのように、平然と布地に張り付いている。

よし。

ふ、と息を漏らしたのも束の間、ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。慌ててシャツから手を離し、それを取り出す。メッセージが一件、届いている。

『産まれた』

端的に、そう一言。待ち侘びた吉報に、胸が騒ぎ出す。

本当は電話をしたいところだが、許される環境ではないだろう。何より、疲れ切っているに違いない。
高速で指を動かし、返事を送る。

『お疲れさま。母子共に無事?』

すぐに『無事』と返事が来る。
胸を撫で下ろすと同時に、言いようのない歓喜が込み上げてきた。

『立ち会えずごめん』
『仕方ない』
『やっぱり会いに行けないものか』
『仕方ない(その2)』

感染症の影響で、夫と言えど出産の立ち合いは許可されていない。病棟にすら入れず、産後五日後の退院まで接触不可というのだから、世知辛いことこの上なかった。

妻の言う通り、仕方ない。

とは言え、産まれたばかりの我が子の顔すら直に拝めないとは。
できることと言えば、来るべき育児生活に備えて、少しでも家事力を上げておくことである。

『とりあえず、ゆっくり休んで。母の最初の仕事』
『ありがとう。また動画送る』

そこで終わると数秒空いて、またメッセージが追加された。

『そっか。私、母なんだ』

今更?と返してやろうかと思ったが、先程取り外したボタンがふと視界に入り、自重することにした。


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