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【掌編】桃源郷サステナビリティ

「早い話が、単位をあげよう。だから奴等を部室から追い出してくれ」

放課後の進路相談室で、桃瀬先生は俺に言った。ガラス製のローテーブルに両手をつき、額を同一面につける勢いで、頭を下げてくる。まだ俺たちと変わらぬほどの艶と張りを備えた黒い髪。椅子に腰掛けた状態で教員の頭頂部を見下ろすなど、初めての体験だ。

「どういうことっスか」

訊ね返してはみるものの、説明は受けたばかり。

①桃瀬先生が顧問を務める文芸部に、鬼塚という生徒が入部してきた。
②鬼塚は所謂不良グループに属する生徒であり、彼を皮切りに男女数名の不良が立て続けに入部。部活動を建前に部室を我が物顔で占拠し、放課後たむろし馬鹿騒ぎをするための根城とし始めた。
③事態を察知した校長から顧問である桃瀬先生に、鬼塚たちを退部に持ち込むよう指令が下った。

「校長先生はここの卒業生だ。しかも在学時は文芸部に所属していたようでね。青春時代を過ごしたあの部室が、荒廃していく様を見ていられなかったらしい」
「強制的に退部させりゃいいんじゃないスか」

俺は言った。それこそ学校長の権限で、大鉈を振るえば済む話では。

「自由と自主性を重んじる一方で、自立と自覚を促すのもこの学校の方針だ。いきなり退部になどできないよ。生活への指導と成長への支援を、まずは繰り返す必要がある」
「じゃあ、繰り返せば」
「あいつらが指導して校正するとは思えない」

教職に就く者としてあるまじき文句が、きっぱりとした声音で返ってくる。

「僕だって注意はしたさ。文芸部は文筆に勤しむ場だ、他の子の迷惑になるから騒ぐのはやめてくれ、部に属するなら作品のひとつも書いてみろ。しかしどうだ。オタクが本を読んでるだけだと鼻で笑い、スマホの動画で馬鹿騒ぎを続ける。めずらしく詩ができた言うので見てみれば、ただただ卑猥な文句を連ねただけ。奴等に言葉は通じないよ。誠意を尽くす価値もない」

俺とてできた生徒ではない。道を説く者の立場から、そこまで断定的な物言いで切り捨てられると、鬼塚という生徒がやや不憫にも思えてきた。

「そこで鳥羽君、君にお願いだ」

先生の『作戦』を要約すると、こうだ。

鬼塚たちと同等の存在感を持つ生徒(先生は『タレント』という表現を使った)を新たに文芸部に入部させ、彼らの対抗勢力として部室に送り込む。「あの手の連中は縄張り意識が強い。部の大人しい子たちならいざしらず、君たちのような目立つタイプを横に置けば、居心地が悪くなり出ていくだろうさ」らしい。

白羽の矢が立ったのは、三名。

快活でコミュニケーション能力に長け、学内で顔が広い、二年四組・申田明彦(知らない)。
頭脳明晰で品行方正、生徒会執行部にも所属する二年一組・犬養理人(知らない)。
目立つ要素と言えば背が高いことくらい。特にこれといった取り柄はなく、授業にもろくに出てはいない不真面目な生徒、一年三組・鳥羽一(俺)。

いや、なんで俺。

「鳥羽君はこの学校の、いわゆる"裏番"なんだろう?」
「誰が言ったんスか。それ」

睨み返すと、びく、と桃瀬先生の肩が震えた。脅かすつもりは無かったが、しかし、この程度で怯む大人も頼りない。
ひとつ息を吐き、俺は先生から目線を外した。

「兄貴が在学中、馬鹿やって停学喰らったことがあるだけです。別に俺は普通っスよ」

事実だ。荒くれ者の兄とは違い、俺は争いごとを好まない。節度を弁え大人しく日々を過ごしているし、何ひとつ面倒ごとを起こしてはいない。
ただ、荒くれ者を兄に持つということもまた事実であり、兄を知る一部の喧嘩っ早い人種から不要な着目を浴びていることも事実。入学当初は望まぬ諍いに巻き込まれることもしばしばで、次第に登校を億劫に感じるようになり、年度も終わる三学期、進級するには出席日数がやや、否、かなり足りない状況だ。

そこを突かれた。

「特別補講を開こう」
「特別補講?」
「鳥羽君。出席日数が足りない君のため、君一人のためだけに開かれるスペシャルな補講だ。これを履修しさえすれば、すべての科目で不足する日数の埋め合わせを約束する、破格のプログラム」
「そんなことできるんスか」
「各教科の先生に僕からかけ合った。自習用の課題をこなし、それを提出しさえすれば構わない。はっきり言って、教員側も手間なんだよ。留年する生徒は極力出したくない一方、君を進級させようと思えば、こちらも過密スケジュールで補講を行わなくてはならない。校長の密命を受けていることをちらつかせつつ、妥協案としてこの方法を提案したら、他の先生方も乗ってくださった」

そんなのありなのか、と思ったが、それを上回る「ありなのか」が続いた。

「補講の監督官は僕一人。たとえ君が出席しなくとも、僕が目を瞑っていればわからない。課題の提出を受けたと僕が報告しさえすれば、君は無事に出席日数を確保することができる」

早い話が、単位をあげよう。だから奴等を部室から追い出してくれ。

頭を下げる先生に、開いた口が塞がらない。

なんという僥倖、神様から救いの手が差し伸べられた、と喜ぶべきなのだろうが、しかし俺の胸中に渦巻く思いは真逆のものだ。

端的に言って、胸糞悪い。

協力する代わりに、単位を。恐らく二年の申田だか犬養だかに対しても同様に、教員の特権を駆使した"餌"が用意されているのだろう。
若手とは言え、教師が考えた対応策。それが倫理上あるまじき交換条件を、こともあろうか倫理を諭すべき生徒に対して提示するものであるとは。

馬鹿にしているのか、俺たちを。

「そんなに怖い目で睨まないでくれ」

いつの間にか頭を上げていた桃瀬が、怯えの色を目に滲ませながら、俺を見る。

「別に。生まれつき目つきが悪いだけっス」

そう。ただそれだけであるのに、余計なやっかみを買い続けてきた。前髪を伸ばし目線を隠せど、上級生からは調子に乗っていると突っかかって来られる。兄貴の名が轟いているこの学校で、兄貴に似て粗暴に映る出立ちをしたこの俺が、平穏を手にすることはない。

ふざけている。そもそも、在学中にお前ら教員が兄貴を野放しにしていたせいで、こうなった。今、お前らが鬼塚とやらにしているように、真正面からの衝突を避け、事なかれ主義を貫き、職務を放棄したツケが、なんの罪もないこの俺に押し付けられている。

そう言ってやろうと思った。
そして実際、言った。

「クソ教師が」

怒りに任せて、凄みを利かせて、敵意を込めて。桃瀬の呆けた顔がたじろぎ、気圧されていく様が前髪の隙間から見える。被害者然としたその様子が余計に腹立たしい。

「要は上司から言われた無理難題に、嫌々対応しているだけでしょう。しかも正攻法じゃうまくいかないから、姑息な悪知恵による他力本願。さらにはその他力が事もあろうか生徒の力、ってどういうことスか」

情けない。
頼りない。
不甲斐ない。

「そもそも先生がしっかりその鬼塚って奴を指導すべき話っスよね。怖いのか面倒くさいのかあるいはその両方なのか知らないスけど、恥ずかしくないんですか。自分は無能だ、と惜しげもなく晒した挙句、その無能の代償を教え子に押し付けて。悔しくないんスか」

あんたのせいだ。
あんたらみたいな大人のせいだ。
こんなに世界が居づらいのは。
こんなに世界が息苦しいのは。

こんな世界で、生かされているのは。

「じゃあ辞めればいい」

抑揚のない声に、頭に上っていた血が一気に下がる。
先ほどまでの狼狽はどこへやら、いつの間にか桃瀬の顔からは感情が消え、光沢の無い瞳がこちらを向いていた。

「どういうことスか」
「言ったままの意味だよ。ここが君にとって望む場所でないと言うのなら、離れてどこかへ行ってしまえばいい。ありのままの君を受け入れ、正道へ導いてくれる桃源郷へ、どうぞ旅立ってくれて構わない」
「はぁ?」また身体が熱くなる。「正当に俺を評価するのも、真っ当に俺を導くのも、あんたの仕事だろうが」
「そんなことできないよ」
「なんで」
「無能だから」

無能で。
不真面目で。
救いようがないから。

「君と同じだ、鳥羽君」

桃瀬は言う。

「目つきが悪くてガタイが良くて、粗暴な兄を持つ君と同じ。小柄で迫力が無くて、臆病で忍耐がないのが僕。君が言う通り、今回の僕の提案は、情けなくて恥ずかしく、決して褒められたものではないだろう。自分自身、こんな姑息な手を使う自分に嫌気が差す」

でも、やらなくてはならない。

「どうしてっスか」
「生きなきゃいけないんだ」

生きる。
急に現れた大仰な言い回しに、戸惑いを禁じ得ない。
しかし、馬鹿にする気にもなれない。
目の前、暗く閉ざしていた桃瀬の瞳に、徐々に光沢が芽生えていく。

「僕は生きるために金を稼ぐ。金を稼ぐために教師をやっていて、この学校に着任している。この学校の長が"やれ"と言ったことは、やらなくてはいけない」立板に水の如く、桃瀬。「だけど、僕にはできない。能力が低く臆病で辛抱強くもない僕には、できない。だけどそんな僕でも生きなくちゃいけない。生きるために、やらなくちゃいけない」

その僕ができる唯一の方法が、これだ。
僕がここで生き抜く方法が、これだ。

「鳥羽君。君がこの先、どんな桃源郷に行こうが知らないが、これだけは変わらない。君は君だ。目つきが悪くてガタイが良くて粗暴な兄を持つ、君だ。君は君であることを背負って、君は君のまま生きなくちゃいけない。それしかできない」

それは覚えておきなさい。

きっぱりと。屹然と。
桃瀬先生は俺に向け、言った。

しかしその張りのある声音を、すぐさま元の腑抜けたものに変え、

「そこのところを踏まえて、なんとか考えてくれないかな。君だって留年はしたくないだろう?」

やはりどう考えてもろくでもない話を繰り返す。

俺はひとつ息を吸い、口を窄め、時間をかけて吐き出す。邪魔な前髪を首を振って払い、開けた視界で桃瀬を見る。

まだどこか幼なげで、へらへらと締まりのない顔。

およそ教師とは言い難い。
ならば反面教師にして、学ぶしかない。
俺が俺のままで生きる術を。
桃源郷じゃない場所で生き抜く力を。

利用してやるよ、クソ教師。

「……文芸部って、何すりゃいいんスか」

ガラス面のテーブルを前に足を組み、俺は視点を高くして、目の前の大人を睨みつける。

「怖いなぁ」

頼りない、それでいてどこか不敵にも映る笑みで、俺の先生はそう言った。


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この作品は、こちらの企画のサンプルとして執筆したものです。

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