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掌編小説

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2023年5月の記事一覧

【掌編】誰も知らない

月の耳を齧ったのは、宵闇の仕業です。 人目を忍んで逢瀬を重ねる、私のような女を慮ってのことでしょう。 光はまだいい。影を選んで動けば済む。しかし、音となると、そうはいきません。 貴方へ向かって弾む足取り。 貴方を想って高鳴る鼓動。 貴方に触れられ漏れ出る吐息。 何れをとっても、押し殺すなど難しい。 濃紺の空、お天道様面して浮かぶあの月に、いつ気取られるかと肝を冷やす羽目になる。 ですが、月に耳は無い。 宵闇には礼を言わなくてはなりません。 元より、大方日が暮れて月の

【掌編】いわゆるキュン死だ、この野郎。

初夏を聴く。そして、くたばる。 いわゆるキュン死だ、この野郎。 女子高生に希少価値があると言うのなら、私は既にその三分のニを浪費したわけだけれど、とは言え残りを何にベットしてよいのかもわからず、今日もこうして自習室に座る。 窓際の一席。乾いた風に、カーテンが揺れる。アリバイ的にノートと参考書を広げてはいるが、ろくにペンなど動かしてはいない。人影がまばらなのをいいことに、音漏れ上等の爆音をヘッドフォンから垂れ流す。 高校三年、五月。 世に言う『青春』の最中にいるのだろうが

【掌編】とあるスポンジケーキの本懐

舞うイチゴ。この写真にタイトルをつけるとしたら、そんなところでしょうか。 あぁ、申し訳ございません。インタビューでしたね。はい、そうです。確かに私は中学時代、赤峰投手とバッテリーを組んでいました。 そうですね。当時から赤峰君の能力はずば抜けていましたよ。一年後輩にも関わらず、早い段階からレギュラーに抜擢され、部を全国大会にまで導いた。部長は私でしたが、実質チームを牽引していたのは彼、と言ってもよいでしょう。 やっかみの類も、まぁ多少はありましたが、それほど多くはなかった

【掌編】咳をしても金魚

咳をしても金魚。これだけは譲れない。 記者会見は午後六時からで、指定された入り時刻は午後四時。しかし、そのさらに一時間前に私は現地に到着し、控え室で待機していた。 「事実上の引退会見だもの。念入りにメイクしてもらわなくちゃ」 呆れ顔のマネージャーに向け、私は嘯く。しかし、半分は本心だ。おそらく最後の晴れ舞台。今までで一番可愛い私で挑みたかった。 若手俳優との逢引きを週刊誌で報じられたのが、先月。それだけならば、まだ立て直しが利いただろう。問題は、撮られた場所が六本木に

【掌編】ダストテイル、朧げ。

妹の指は丸い。 赤ん坊のように膨らみがあり、ぶよぶよしている。脂肪ではない。動かすことがないので、浮腫んでいるのだ。 不自由なのは右手だけで、健常である左の指はそうではない。五歳の子に相応しい長さと器用さを備え、そちらであればピアノを弾くのに支障はない。 「お兄ちゃんとレンダンしたい」 何がきっかけか、急に妹はそう主張を始めた。僕と同じ教室を選び、同じ先生に師事。当然ながら演奏できるのは左手のみで、通常僕らが右でなぞる主旋律を、妹はそちらで辿々しく鳴らす。 次の発表