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掌編小説

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2021年2月の記事一覧

【掌編】『わたしの行きたい世界』

緑の絵の具が切れかかっている。 正確には緑ではなくビリジアンだが、とにかく残り少ない。チューブはすでにぺちゃんこで、隣に並ぶカーマインやセルリアンブルーのつやっと太った様と比べると、干からびた魚のごとく貧相に見える。 どうしてこの色ばかり消耗するかと言うと、森を描いているからだ。 中学二年の夏休み。出された水彩画の課題は、『わたしが行きたい世界』。 そのテーマを受け思い浮かんだのは、草木が鬱蒼と生い茂る、深い森だった。 人工物はおろか、月の灯りすら入る隙もない、自然の要

【掌編】簑沢さんの話をします。

簑沢さんとは高校二年の一年間、同じクラスでした。 簑沢さんは、目立たない女の子でした。 年頃の男子にありがちな、「クラスで誰が可愛いか」といった論争にも、簑沢さんの名前が挙がることはありませんでした。決して、顔立ちが整っていないわけではありません。長い黒髪は艶やかで、白い肌に、おはじきのような黒い目と慎ましい鼻、さくらんぼサイズの唇が載った様は、十分にチャーミングなものでした。多分。そう、多分です。記憶にある彼女の姿はおぼろげで、クリアに思い出すことができません。そういう、

【掌編】浅瀬

足元に水気を感じて目を向けると、浅瀬に立っていた。 視界の片方には淡い色彩の砂浜が、もう片方には黒々とした大海原が広がっている。 どうしてこんなところにいるのか、わからない。直前までの記憶がない。ただ自分が自分であるという朧げながらの実感と、今からこの海に向かって歩を進め、ずぶずぶと沈んでいくのだろう、という予感があった。 この海は、なんなのだろう。 潮の匂いは一切しない。温く、少しばかりの粘性を備えた水が、とろとろとくるぶし辺りをくすぐっている。 羊水。 母なる海。