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違う道を選ぶって無責任?

私のクライアントが言います

「自分で選んだんだから」
「しっかりしなきゃいけない」と

その選択をしたことに責任を感じて
「もう後戻りは許されない」

そう思っている

この「責任」は誰に対する責任でしょうか

そこを考えてみてほしいのです

責任というのは自分の人生に対して背負っている

ならば、自分の人生を続けるために何度でも選びなおすことは本当に無責任でしょうか

選びなおす勇気さえあれば、何度でも人生の舵を切ったらいい

それが自分の人生に責任を果たすということです

ところが多くの方は違うことを言います
「他人」に責任を感じているのだと

「親」と約束をしたから
「家族」に迷惑がかかるから
「会社」に無責任だと思われるから

そこには強い恐れがある
見放されたくない、という恐れ
同時に「他人にぶら下がりたい」という無責任な思いもある
つまり、言うとおりにすれば自分を見放さないでいてくれるだろうと思っているんです
そうしてもらえるうちは安全だと

他人の言葉に身を任せる、その幼さに気づけるでしょうか

「他人」があなたを無責任だと責める時、
彼らはみな自分の責任を果たそうとしています

"自分の選んだ道を妨害する者を排除したい"
それは自然な発想であり、そうして人は自分の人生を守る

まあもっと優しい言い方はあるでしょう

そこで自分の軸をもって主体的に「他人」に賛同するなら、あなたは自分の人生を自分で選んだことになる

そうして相手と共生していく道もあります

「相手がこう思っているのだから」
ここで他人の責任を背負ってしまえば、そうではない

自分の気持ちを後回しにして他人の人生を優先するなら、
あなたの人生の舵取りは不在になります

ここをちゃんと区別したいのです
それはあなたの責任ではなく、他人の責任

少し違う角度で例を挙げてみます

例えば家族がいたとしましょう
そしてあなたは起業しているとします

「一度選んだ道なのだから」
「これから頑張るって家族と約束したから」

そう言って経営不全に陥りながら事業を続けることは「責任を負っている」と言えるでしょうか

あなたは「自分の人生」を続ける責任がある
そのために「起業という選択を捨てる」ことは、自分の人生の舵取りをして責任を果たそうとしてる姿とも取れる

じゃあ、家族はどうか

家族には「家族の人生を続ける責任」があります
あなたから離れるも、受け入れて共に生きるも、その選択を責任をもって行うことが家族の使命です

共に生きていきたいなら、主体性を持って相手と折り合うことです

自分で選ぶこともせず、相手に迎合していることこそ責任がない状態、つまり無責任なんです

親の言われた通りをこなす人は、思い通りにいかなければその責任を親に押し付けてしまう

「本当はこうしたくなかった」「こうなったのは親のせいだ」と

家族に言われた通りをこなせば、それも同じでしょう

さて大切なことは何か

もう一度、あなたの気持ちを聞いてみて

嫌われたくない、愛されたい
それが選択の決定権を握っていたら、自分ではなく他人の軸で生きることになるのです

本当はどうしたいのか
なぜ今の選択に拘るのか
そして
自分は何を恐れているのか

ひとつの選択に拘れば、人生は苦しいです
人の考えはコロコロ変わるのが自然だから

人類、文化、社会は変化に対応することで発展してきましたね
同じかたちに拘れば、私たちは生存できなかった

広い話をしているのではなく、
個人レベルでも、そうやって人は発展しているのです

変わることは無責任なんかじゃない
あなたの選択はいつでもあなたの人生が責任を負うことになる

他人の人生に逃げないで

自分の人生の舵を放棄しないで

結果は最初から分かるものじゃないから、失敗だろうと構わない

あなたは舵を取り続けたらいい

それがあまりに苦しいなら、不安だと思うなら私を頼ってください

癒しが必要なのだと認めてあげましょう

あなたがどんな選択をしようと
あなたの価値は変わらない

今までもあなたは大切な存在だった
そのまま幸せになっていい

そう何度でも確かめに来てください

公式ラインでお待ちしています

現在は私と交換日記をするサービスを開始しています

どんなかたちでも、繋がれたことに感謝します

今日も心穏やかな一日となりますように





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