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山岡鉄次物語 父母編7-4

《 家族4》死産を乗り越え

☆製パン業が順調になり安定した生活を送っていた頼正と珠恵に長男が誕生する。

頼正は子供が無事に生まれてくれる事を祈りながら、以前の住居で胎児の時に死産した子の事を思い出していた。1年以上前の事だった。

当時妊娠中の珠恵は助産婦の所に通っていたが、ある日珠恵が家に居る時、腹部に耐えられない激しい痛みが起こった。

まだ産み月では無い、流産かもしれないと頼正が見てみれば、胎児の足が出ていたのだ。

助産婦は間に合わず、放っておけば母体が危なくなる。
この時頼正は既に死んでいた胎児を取りあげたのだ。胎児はだいぶ大きく育った男の子だった。
その後、助産婦の手を借りて事後の処置や役所対応を済ませた。

頼正は名前の無いこの子を池のほとりのお寺に埋葬供養した。

頼正の手により命拾いをした珠恵の身体は、時間と共に回復していった。


そんな事を思い出しながら、頼正は安産を強く願った。

この頃の出産はほとんど自宅で行われていた。
昭和30~40年代頃から次第に病院などの施設で出産するようになっていく。

自宅でのお産の取り上げの役割を為すものを、江戸時代に産婆という名で呼ぶようになった。
お産の取り上げ以外にも、妊婦の世話や指導、新生児や産後の女性の世話など、女性の出産に関するさまざまな仕事をこなす専門家として認知されるようになった。
その後、明治時代になり産婆は資格化され、西洋医学を取り入れた産婆教育が実施されるようになった。
戦前は富国強兵政策の一環として、産めよ増やせよという政策のもと、人口を増加させる方針を取ってきた。産婆の活躍の場は益々広がっていった。

戦後になるとGHQにより、看護全般の政策が見直され、産婆は助産婦と名称が変更され、看護職の中の1つとして扱われるようになる。
この結果、助産婦になるためには看護婦の資格が必要になった。

GHQは戦後の混乱による治安や経済状況、衛生環境の悪化を踏まえて、少子化政策を指導した。
明治時代に禁止されていた人工妊娠中絶が合法となるなど、ここから過度な少子化政策が進められた。

戦後は経済状況が悪化していたことから、生活困窮者の中で闇の堕胎が横行した。
助産婦たちは母体を守る為、受胎に関する指導をすると同時に、避妊や家族計画に関する指導を行なっていくなど、活躍の場を広げていった。

経済発展に伴い、人口が都市部へと流入するなどした結果、戦前は自宅出産が主流だったのが、戦後20年ぐらいすると、病院等の施設での出産が主流になった。
助産婦はその後も、日本の医療を支え続け、助産婦から助産師と改名される。

さて私、山岡鉄次の生まれた昭和28年はどのような年だったのか。

国内では電機メーカーが国産初のテレビを発売した。
昭和25年に設立したNHKや民放のテレビ放送が開始された。しかし、この頃は輸入品のテレビがほとんどで、高価な為に、庶民には普及していなかった。

ラジオドラマ「君の名は」は大人気で、映画化されるとヒロインの真知子巻きが流行した。織井茂子の唄う主題歌も流行した。朝ドラのモデルになった古関裕而の作曲だ。

国会では当時の首相吉田茂が質疑中に社会党議員に対してバカヤロー発言をし、衆議院解散となった。有名なバカヤロー解散だ。

豪雨災害も起きた。九州地方を中心に700人以上の死者を出した西日本水害、和歌山県を中心に1000人以上の死者行方不明者を出した南紀豪雨が発生している。

国外では昭和25年に始まった朝鮮戦争が休戦したが、韓国と北朝鮮の南北分断状態は続いていく。


頼正は珠恵を笑顔で褒めた。

『良く産んだ、でかしたな。ゆっくり休め。』

長男鉄次は無事に誕生した。

父と母の生い立ちから始まった物語、戦争の為に辛く大変な時間が過ぎて来た。
山岡鉄次が生まれた昭和28年は戦後8年が過ぎていたが、まだ終戦後だと云える。
平和が訪れて、数年後には高度経済成長期に入るが、庶民にとっての経済はまだまだ大変な時代が続いていく。

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