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山岡鉄次物語 父母編5-4

《人生刻んで4》新日本女性に告ぐ

☆終戦後忘れてはならない出来事として、慰安施設の設置がある。

終戦後、国民は焼け跡暮らしで辛酸を嘗め、連合軍司令部による占領政策で屈辱を味わっていた。
人々は食料難で飢えており、生きて行く為に法律違反の闇売買をしていた。
何も手につかない虚脱感に包まれて、希望を感じることの無い暗い日々を送っていた。

終戦直後、連合国軍兵士による強姦や性暴力を防ぐ為に、昭和20年8月18日「良家の子女の貞操を守る為」と云う大義名分で、日本政府は全国の警察に慰安所の設置を指令し、特殊慰安施設協会の設置を決めた。

組閣されたばかりの東久邇内閣国務大臣近衛文麿は、ただちに警視総監に米国兵相手の売春施設を作るよう要請したのである。

座長役の大蔵省主税局長池田勇人は3,300万円の予算を決めた。現在の価値に換算すると10億円を超える予算だ。
主要官庁が一致協力して、国策による慰安施設設置を進めたのだ。

欧州のドイツやイタリアなどの敗戦国、ソ連に占領された東欧の国々にも、占領軍を相手にする売春婦は多くいた。
しかし、国家が国体護持を掲げて、莫大な予算を投じて、女性を犠牲にした国は他にはない。

警察の指導で特殊慰安施設協会は街頭に「新日本女性に告ぐ」と募集広告を出した。
18歳から25歳までの女性が対象となっていて、慰安所の仕事は事務や歌や踊りでもするんだろうと、軽い気持ちで応募した者もいた。

終戦のわずか3日後に、日本政府は占領軍の為に売春施設を考えたのだ。  
占領軍を迎える最初の発想が慰安所の設置だったのは情けないことだ。

世界的にみると過去の占領軍において、占領地の婦女子を凌辱する蛮行が少なからず行われていた事が、この様な発想になったのだろう。
日本軍が中国の南京に入城した時の兵隊の行状が、国策で慰安施設の設置を急がせたのかもしれない。

「占領軍には慰安婦が必要」は日本軍に染み付いた常識だった。

日本政府は最大で5万5千人の売春婦を募集した。


全国で大々的な慰安所設置が行われ、戦後の混乱の中で食料の確保にも事欠く家庭の女性たちを、売春へと走らせることになった。

多くの米国兵が慰安所を利用したが、米国兵による性犯罪等が多発していた事も忘れてはならない。
米国兵による暴行事件は、8月末頃には発生していた。特殊慰安施設が営業していても止むことがなかったのだ。
米国兵の犯罪、不法行為は報道が禁止されていたので、一般にはあまり知られていない。
米国兵による主に性犯罪の対象は、開業前の慰安所の女性たち、一般婦女子、通行人、小学生女児までに及んだ。
その行状は武器を持って集団で襲い、動物的で残虐、まさに鬼畜のなせる業で目に余るものがあった。

現在、事件の数は減少したが、規模の大きな米軍基地のある地域、特に沖縄では今だに米国兵による不法行為が行われる危険性を秘めている。


連合軍司令部は12月慰安所への立入禁止令を出した。
翌、昭和21年ポツダム命令による公娼制度廃止の方針と、性病の蔓延を理由として特殊慰安施設を廃止した。

この後多くの慰安婦たちは路頭に迷い、パンパンガールと呼ばれる非合法な街娼となっていく。

日本軍には統制経済により国民から徴用した多量の物資があったが、その莫大な財産は国民には返還されなかった。
高級官僚や位の高い将校などに横領されたり隠匿されて、換金の為に闇市に横流しされていた。

終戦直後の飢餓やインフレは、かなり酷いものになっていた。
もし国民から徴用した財産が、困窮した国民の為に使われていたなら、たくさんの戦争被災者が救われたのかもしれない。

いつの時代も権力が腐敗すると、苦しめられるのは国民ばかりである。

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